第6話:二度目の来訪と証拠
瘴気――私が名付けた、うつくしくない存在の正体を突き止めてから、数日が過ぎた。だが、私の研究は、早くも壁にぶつかっていた。
「(……駄目です。情報が、あまりにも少なすぎる)」
私は、研究室の床に広げた術式図を睨みつけ、小さくため息をついた。
龍脈の気が、何者かによって悪意ある力に変質させられている。それは、ほぼ間違いない。だが、その仮説を証明し、発生源を特定するための情報が、決定的に不足していた。私がサンプルとして採取できたのは、あの薬草畑の、わずかな土壌だけ。これだけでは、瘴気の正確な性質も、拡散の経路も、汚染の規模も、何もかもが不明瞭なままだ。
「(もっと、多様な標本が必要です。植物だけでなく、動物、水、大気……。影響が及んでいるであろう、全ての事象を観測しなければ、正確な術式は組めない……)」
思考は袋小路に陥り、私の心に、うつくしくない焦燥感が生まれつつあった。
***
そんなある日の午後、再びあの固い足音が冷宮に響いた。沈だ。以前よりも、心なしか足音が速く、乱れている。
扉を開けると、そこに立っていた彼の顔には、初対面の時のような侮蔑の色はなかった。代わりに、いつもは寸分の隙もなく整えられている官服の襟が、わずかに乱れている。硬い表情の中に、隠しきれない焦りの色が滲んでいた。
「……少し、時間をいただきたい」
彼の口から出たのは、命令ではなく、要請の言葉だった。
私は彼を部屋の中に招き入れた。彼は壁の術式図や床の資料には目もくれず、真っ直ぐに私に向き直った。
「君の言う通りだった」
沈は、低い声で切り出した。
「後宮内の植物の枯死は、拡大を続けている。庭師たちに土の入れ替えから薬草による浄化まで、あらゆる手を尽くさせても、全く効果がない。それどころか……」
彼は一度言葉を切り、苦々しげに続けた。
「昨日、中庭にある池の鯉が、原因不明のまま全て死んだ」
「……鯉、ですか」
私は、彼の報告に冷静に問い返した。
「その死骸に、何か異常は? 外傷や、病の兆候は」
「ない。医官にも確認させたが、ただ、眠るように死んでいた、と。だが、水の色が、わずかに黒く濁っていたそうだ。今はもう、元に戻っているが……」
その報告は、私の予測が正しかったことを裏付ける、決定的な証拠だった。瘴気は、土壌や植物だけでなく、水をも媒介とし、動物の生命をも蝕み始めている。
「法と秩序、そして記録された事実だけでは、この事態は解決できない。それを、認めざるを得ない」
彼の言葉は、彼自身の信念が、根底から揺らいでいることを示していた。法では裁けぬ悪意が、確かに存在することを、彼はその目で確認したのだ。彼は、固く握りしめた拳を、一度だけ、強く震わせた。
私の問いに、彼は真っ直ぐに私を見据えた。
「あなたの作る化粧品や薬の噂はかねてより。あれらは単なるまじないではない。精緻な理論に基づいた、高度な方術の産物です。……その類稀なる頭脳を、お飾りで終わらせるのは帝国の損失かと」
そして、彼は続けた。
「どうか、君が掴んだ情報を教えてほしい。これは、一個人の頼みではない。後宮の秩序を守る殿中監としての、正式な協力要請です」
私は黙って頷くと、机の上に置かれた一つの小箱を指し示した。
「百聞は一見に如かず、と言います。あなた自身の目で、真実を確認してください」
沈が訝しげな顔で箱を開けると、その中には一つの魔石が納められていた。一見、何の変哲もない、澄んだ水晶のような魔石。だが、その内部には、墨を垂らしたかのような黒い靄が、意思を持つかのように、蠢き、渦巻いていた。
「それは……一体、何です……?」
「私が、汚染された土壌から抽出した、瘴気そのものです。この不純物を、うつくしい結晶構造の中に閉じ込めるのは、骨が折れました」
沈は、信じられないものを見るかのように、魔石の中の黒い靄を見つめた。それは、彼の常識、彼の信じてきた世界の全てを覆すに足る、動かぬ証拠だった。彼は、思わず一歩後ずさった。
彼は魔石から目を離すと、意を決したように、私を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、もはや私への不信感はなく、目の前の異常事態に対する、官吏としての強い責任感と、未知の脅威へ立ち向かう覚悟が宿っていた。
「……感謝する、姫。いや、凛殿」
「この件、私が責任を持って対処する。改めて、あなたの力を貸してほしい」
その言葉は、冷たく響く規則の音ではなく、民を守ろうとする人間の、確かな意志の音がしたのだった。




