第50話:うつくしい術式
――あれから、幾月かが過ぎた。
帝都を覆っていた瘴気の記憶は、人々の心に深い傷跡を残しながらも、街は、逞しく、そして力強く、活気を取り戻しつつあった。傷ついた龍脈もまた、私たちが組み上げた不完全な『龍脈調律ノ大陣』によって、緩やかに、しかし確実に、快方へと向かっている。
宰相の位は、空席のまま。帝国は今、大きな変革の時を迎えていた。
***
皇帝の私室で、沈は、一枚の奏上文を、皇帝の前に差し出していた。
「――以上が、私が愚考いたします、新たな国の形にございます。特定の個人に権力が集中するのではなく、各省庁の長官と、民の中から選ばれた賢人による『評議会』を設立し、合議によって国事を決定する。これこそが、二度と過ちを繰り返さぬための、唯一の道であると信じます」
皇帝は、その奏上文に静かに目を通すと、深く、息をついた。
「……許可する。すぐに、法案の整備に取り掛かれ」
「ははっ!」
沈が深々と頭を下げ、退室しようとした、その時だった。
「沈」
皇帝が、呼び止めた。彼は、窓の外、活気を取り戻しつつある帝都の街並みを見下ろしながら、遠い目をして呟いた。
「……季 浩然も、若い頃は、そなたのように熱い瞳で、民のための評議会を語っていたのだ」
その、あまりに意外な言葉に、沈は息をのんだ。
「奴は、誰よりも、この国を愛していた。誰よりも、民を想っていた。だからこそ、龍脈の死という、あまりにも巨大な絶望を、たった一人で背負い込んでしまったのだ。……朕が、もっと早く、その苦しみに気づいてやれていれば……」
それは、為政者としての後悔であり、友を喪った、一人の男としての、悲痛な呟きだった。
「……陛下」
「よい」皇帝は、沈に向き直ると、その肩を、力強く叩いた。
「一つの時代が、終わったのだ。これからは、そなたたちの時代だ。一人で背負うな。仲間と共に、この国の、新たな形を築いてくれ。期待しているぞ」
***
皇帝の私室を辞した沈が、長い廊下を歩いていると、その向かいから、魁偉な体躯を持つ男が歩いてきた。趙大将軍だった。二人は、互いに足を止め、静かに視線を交わす。
「……北の国境が、またきな臭い。俺は、近衛の任を解かれ、北伐軍の総司令として、帝都を離れることになった」
趙大将軍は、それだけを、ぶっきらぼうに告げた。その表情は、以前のような険しさが嘘のように、どこか吹っ切れたような色をしていた。
「……そうですか」
「宰相閣下のやり方は認めん。だが、奴が国の行く末を案じていたことだけは、事実だろう」趙大将軍は、窓の外に広がる帝都の空を見上げた。
「俺は、俺のやり方で、この国を外敵から守る。……宰相代理殿、お前は、お前のやり方で、この国を内から守れ。それで、いい」
それは、彼なりのけじめであり、この国の未来を託す者への、武人としての言葉だった。二人の間に、それ以上の会話はなかった。ただ、すれ違い様に、男同士の、無言の覚悟だけが、交わされた。
***
後宮の片隅、かつて冷宮と呼ばれた場所は、今では「凛先生の研究所」として、多くの若者たちが集う、帝都で最も熱い場所となっていた。
「ですから、ここの術式構造は、もっと単純化できるはずです!」
部屋に響き渡るのは、暁蘭の、快活な声だった。彼女は、自らが設計したという、農地の灌漑用水路の模型を前に、熱心に私に食って掛かっている。
「水の流れを制御するだけなら、ここまで複雑な方石の配置は不要です! もっと、少ない数で、効率的に!」
「一見、その通りに思えます。ですが、暁蘭様」私は、静かに首を振った。
「あなたの設計では、季節による水量の変化に対応できない。春の雪解け水が増えた時、あなたの術式では、水路は必ず氾濫します」
「うっ……。で、ですが……!」
悔しそうに唸る暁蘭の隣で、白 靜が、小さな声で、しかし的確な助言を差し挟む。
「……あの、凛先生。でしたら、ここに、水量を感知して気の流れを自動で調整する、補助術式を追加するのは、いかがでしょうか。わたくしが読んだ古文書に、似たような記述が……」
「まあ、お二人とも、熱心ですこと!」
楽しそうにその光景を眺めているのは、月華と華玲だ。
完璧ではない。うつくしくもない。だが、この、混沌として、しかし、真理を探求しようとする熱気に満ちた空間は、不思議と、私の心を安らげる。
「あんたも、好きだねえ」
不意に、背後から、呆れたような、しかし、どこか楽しげな声がした。燕燕だ。彼女は、私の隣に立つ沈の脇腹を、肘で小突いている。
「仕事の合間を見つけては、こうして、姫さんの顔を見に来る。熱心なこった」
「……見回りだ。宰相閣下から、ここの警備は私に一任されている」
沈は、表情一つ変えずに答える。だが、その視線は、熱心に議論を続ける私から、片時も離れない。
「へえー、そうかい。まあ、せいぜい頑張るんだね、堅物先生」
彼女は、からかうように言うと、ひらひらと手を振って、若者たちの輪の中へと消えていった。
私は、生徒たちの議論に耳を傾けながらも、背中に注がれる、彼の視線を感じていた。その眼差しは、以前とは違う、何か特別な熱を帯びているように思える。私の完璧なはずの思考が、その視線だけで、わずかに、乱れる。
沈が差し出したお茶を飲みながら、私は呟いた。
「……まだ、世界は不確定要素に満ちた、うつくしくないものです。ですが……」
私は彼の、傷の残る手を、自らの手でそっと握る。
「……あなたという、最も非論理的で、最も厄介な変数が隣にあるこの日常は、決して、不快ではありません」
その頬が、うっすらと赤く染まっていた。
――『術をうつくしいと感じる心、世界の調和を愛でる心こそが、その力を正しく導く』
父の言葉が、脳裏に蘇る。
ええ、父上。
ようやく、分かりました。
本当の「うつくしさ」が、何なのかを。
それは、完璧な数式の中にだけあるのではない。
こうして、不完全な私たちが、手を取り合って、明日を創ろうとすること。
その、光の中にこそ、あるのだと。
私の術式は、まだ、不完全だ。
だが、この仲間たちと共に、私は、これからも、うつくしいものを、描き続けていくのだろう。
空には、どこまでも、うつくしい虹がかかっていた。
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