第49話:帝都の夜明け
「――起動します。不完全な、私たちの術式を!」
私の宣言が、玉座の間に響き渡った。父の形見の筆を固く握りしめ、描きかけの起動用術式の中核に、自らの全ての気を注ぎ込む。
まばゆい光が、溢れ出す。だが、それは完璧な円ではない。宰相に破壊された七つの結節点が、醜い欠損となって、光の輪を歪ませている。
「無駄なことを!」
宰相が、嘲笑と共に、さらに強大な瘴気の奔流を放つ。黒い津波が、私たちの不完全な光を、飲み込もうと迫ってくる。術式が、悲鳴を上げた。
「それが、お前たちの出した答えか! その欠けた光で、この帝国の病巣が焼き切れるとでも!?」
「それでも!」
叫んだのは、沈だった。彼は、私の前に立ち、剣を構える。「我々は、諦めない!」
だが、彼の言葉とは裏腹に、光は揺らめき、今にも消えそうだ。
やはり、無理なのか。完璧ではない術など、この圧倒的な悪意の前には、あまりにも無力……。
その時だった。
私の脳裏に、直接、いくつもの声が、想いが、濁流のように流れ込んできた。
『助けて』
『生きたい』
『負けないで』
それは、帝都の民の声なき声。後宮の姫君たちが作った丹薬で命を繋ぎ、明日を諦めないと叫ぶ、無数の人々の、祈り。
――『姫さんがやるってんなら、あたしたちは、どこまでだって付き合うさ!』
――『あいつにだけ、いい格好はさせないわよ!』
――『わたくしたちのためにも、お貸しいただけませんか?』
――『姫様は、私たちの、光です』
仲間たちの声も聞こえる。そして、私は理解した。
あの、原因不明の、金色の光の正体を。
――『古の龍穴の位置。その多くが、多くの民が集う催事の場所と、奇妙に一致しております』
楊 子敬の言葉が蘇る。人の意志は、それ自体が巨大な気の渦となり、大地に影響を与え、新たな龍穴とさえなり得るのだ。宰相が破壊した龍穴は術理的には死んだ。だが、今、民の生きようとする意志が、その場所に、新たな、仮初めの龍穴を穿とうとしている。
「……そうか。そうだったのですね、父上……」
涙を流しながら、私は笑っていた。
本当の調和とは、完璧な数式の中にだけあるのではない。不完全で、泥臭くて、それでも、互いを想い合う、人の心の中にこそ、あったのだ。
だが、どうすれば? 術式はすでに起動している。この不規則で、計算外の力を、どうやって術に組み込む?
「――っ!」
瘴気の圧力が一段と増し、光の陣が大きく欠けた。絶望が胸をよぎる。
その瞬間、私の目に映ったのは、その「欠け」だった。
そうだ。完璧ではない。私の術式は、不完全だ。
だからこそ、余白がある。計算外の要素を受け入れる、隙間があるのだ!
「沈! 時間をください! この術を、完成させます!」
私は叫び、再び父の筆を構えた。巨大な光の術式陣の中を駆け、欠損した結節点の一つへと向かう。
「行かせるか!」
「お前の相手は、この俺だ!」
沈がただ一人、宰相の前に立ちはだかり、その身を盾として命懸けで時間を稼ぐ。
私は、光の奔流の中で、新たな術式を描き始めた。それは、既存の術式を書き換えるものではない。不完全な部分を補い、未知の力を繋ぎ止めるための、全く新しい連結回路。
「完璧なあなたの術は、計算外の『揺らぎ』を許容できない! でも、私の術は違う! この不完全さこそが、あなたの完璧を打ち破るのです!」
民の祈りという、定式化できない不確定なエネルギー。それを動力源として受け入れ、制御するのではなく、共に歌うための旋律を、今、この場で描き上げる!
描き終えた筆先が、光の欠損部と、天から降り注ぐ民の祈りの光とを、繋いだ。
瞬間、世界が変わった。
歪で、欠けて、不格好だった光の陣は、民の祈りという無数の金色の光を受け入れ、まるで万華鏡のように、その形を千変万化させ始めた。それは、一つの完璧な形を目指すのではなく、無数の不完全な光が、互いを認め合い、支え合う、巨大な調和のうた。
温かい光が、黒い瘴気に触れた途端、まるで朝霧のように、穏やかに浄化していく。傷つき、喘いでいた龍脈が、癒され、再び、うつくしい鼓動を取り戻していくのが、私には分かった。
「馬鹿な……。ありえない……。私の計算が……私の完璧な術が、このような、不完全な……感傷ごときに……!」
宰相が、初めて、狼狽の声を上げた。
彼の目に最後に映ったのは、憎んでいたはずの、不完全で、だからこそどこまでも広がる調和の光。自らが追い求めた『救国』の、あまりにも醜い術理が、絶対的な『うつくしさ』の前に敗れ去ったことを、彼は、ただ静かに悟った。
「……ああ。そうか。これもまた、私が支払うべき、代償、か……」
最後に、彼は、まるで何かから解放されたかのように、静かに笑った。
次の瞬間、制御を失った瘴気が、黒い巨腕となって、彼自身に、そして、その憎悪の源であるかのように、私に襲いかかってきた。
「――っ!」
私は反応できなかった。だが、その黒い腕が私に届くことはなかった。
「――凛殿!」
沈が、私を突き飛ばすようにして、その身一つで、私の前に立ちはだかっていた。黒い腕が、彼の背中を抉る。彼の口から、苦悶の声が漏れた。
だが、彼は倒れない。私を、その背後から現れた、さらなる瘴気の魔手から守るように、私を、強く、強く、抱きしめた。
「……離れ、て……!」
「断る!」
彼の腕の中で、私は、ただ震えることしかできなかった。
その間にも、主を失った瘴気の奔流は、その怒りの矛先を、唯一残された創造主へと向けていた。黒い波が、宰相の足元から、その体を飲み込んでいく。
「……さらばだ、沈よ。お前の信じる、その不完全な世界で、生きてみるがいい……」
最後に、彼は、本当に穏やかな顔で、そう呟いた。
黒い奔流が、彼の体を、その歪んだ完璧主義と共に、完全に飲み込んで、消滅させた。
***
光が、収まる。
玉座の間に、静寂が戻った。
私は、その場に、糸が切れたように崩れ落ちた。だが、その体は、固い床ではなく、温かい腕に、優しく受け止められていた。
「……終わった、のですね」
「ああ。終わった」
沈の声は、震えていた。
私は、彼の腕の中から、玉座の間の巨大な窓を見上げた。
醜い瘴気に覆われていた空は、どこまでも澄み渡り、東の空が、うつくしい、夜明けの色に染まり始めていた。




