第4話:共有されたくない秘密
沈という官僚は、口では否定しながらも、本当は気づいている。この異変が、ただの庭師の怠慢などではないことに。彼の最後の表情が、それを物語っていた。
だが、彼が法や規則に縛られている以上、当てにはできない。あの男が自身の論理と現実の矛盾に折り合いをつけ、行動を起こすまでには、まだ時間がかかるだろう。待っている時間はない。私は、私自身の力で真理を解き明かすしかない。
「(ありえない。私の理論が、私の数式が、この醜い現象の前では全くの無力だというのか……!)」
穢れの正体を暴くには、より高度な分析術式が必要だ。そのためには、冷宮にはない、純度の高い特殊な魔石がいくつか足りない。
「……仕方ありませんね」
私は溜め息をつき、いつもの取引相手を呼び出すことにした。ちょうど茶を運んできた丁に、声をかける。
「丁、燕燕を呼んでください。至急、取引がしたいと」
「かしこまりました。……また、何やらお始めになるのでございますな」
穏やかな笑みの奥に、わずかな心配の色が滲むのを、私は見ないふりをした。
***
翌日、昼餉を終えた頃合いを見計らって、燕燕が呑気な顔でやって来た。
「あら、姫さん。あんたから『至急』の呼び出しなんて、珍しいじゃないか。何か面白いことでもあったのかい?」
彼女は私の研究室に入ってくるなり、床に散らばる羊皮紙を器用につま先で避けながら、手近にあった椅子にだらしなく腰掛ける。
「面白いことではありません。世界の危機です」
「はいはい、いつものやつね」
まるで取り合わない燕燕に、私は必要な魔石の名称と特徴を記した羊皮紙を彼女に手渡した。
「あなたにしか頼めないことがあります」
燕燕はそれにさっと目を通すと、感心したように口笛を吹いた。
「……あんた、本気かい? 月華晶ならまだしも、龍血砂なんて代物は、軍の武器工房くらいでしか使わないシロモノだよ。こんなもの、下手に手を出したらあたしの首が飛ぶ」
「世界の調和を取り戻すために使います」
「相変わらず、言うことが壮大だねえ。で、本当のところは? あんた、まさか不老不死の薬でも作る気かい?」
燕燕は、探るような目で私を見つめる。その目には抜け目のない商人の色が浮かんでいた。
「まあ、このあたしの情報網にかかれば、手に入らないものはないけどね。で? 見返りはどうするんだい? ただ働きはごめんだよ」
「最高純度の化粧水と、肩こりに効く塗り薬を。それぞれ三瓶ずつ用意します。あなたの顧客である侍女たちも満足するでしょう」
「三瓶ずつ! 太っ腹じゃないか! ……と言いたいところだけどねえ」
彼女は、指先で羊皮紙を弾いた。
「この品揃えじゃあ、ちょっと割に合わないねえ。足も使うし、危険も伴う。特にこの龍血砂は、尚薬局の長官ですら滅多に扱えない代物だよ。化粧水と塗り薬を五瓶ずつ。それなら、引き受けてやってもいい」
「強欲ですね。ですが、私の調合する薬品の価値を考えれば、三瓶で十分すぎる対価のはずです。数式的に言えば、等価交換の範疇を超えています」
「あたしは数式じゃなくて、懐で計算するんだよ。じゃあ、こうしよう。三瓶に加えて、あんたが前に作ってた『寝付きが良くなるお香』も一つ付けておくれよ。それなら文句なしだ」
私が方術で精製する薬品は、宮廷の薬師が作るものより遥かに効果が高い。彼女はそれを侍女たちに高値で売りさばき、差額を儲けているのだ。合理的で、うつくしい関係だ。
「……いいでしょう。それで交渉成立です」
「話が早くて助かるよ! それだけあれば、二、三日で揃えてやるさ!」
燕燕は上機嫌で立ち上がると、ふと真顔になって私を見た。
「……ま、あんまり変なことに首を突っ込むんじゃないよ。この後宮は、うつくしい花園に見えて、根っこは泥沼だからね。下手にいじると、とんでもない化け物が顔を出すこともある。あたしみたいに、物知りなだけの楽師が冷宮送りにされるくらいには、面倒な場所なんだよ、ここは」
去り際に彼女が残した言葉は、いつもの軽口とは少し違う、妙に真剣な響きを持っていた。
彼女が帰った後、入れ替わるように丁が食事の盆を下げに来た。彼は部屋の隅に積まれた、分析術式に関する書きかけの羊皮紙に目を留め、静かに言った。
「姫様。わしのような老いぼれには、難しいことは分かりませぬが」
彼の皺深い顔には、穏やかだが、どこか憂いを帯びた表情が浮かんでいた。
「わしが若い頃、先々帝に仕えていた時にも、一人の聡明な皇子がおいででした。その方も、姫様のように、世界の真理を明らかにしようとなされた。ですが、その真実が、あの方を幸せにすることはございませんでした」
「……何が言いたいのですか」
「この後宮では、知らぬが仏、ということもございます。真実を知ることが、必ずしも幸せに繋がるとは、限りませぬ故。どうか、ご無理だけはなさいませぬように」
それは、忠告だった。燕燕も、丁も、私を案じている。この穢れの先に、何か得体の知れない危険が潜んでいることを、彼らはその長い後宮生活の経験から、肌で感じ取っているのかもしれない。
非論理的な感情論。そう切り捨ててしまえば簡単だ。
だが、私の胸には、静かな水面に小さな石が投げ込まれたような、微かな波紋が広がっていた。彼らの言葉は、私がこれから足を踏み入れようとしている闇の深さを、静かに示唆しているようだった。




