第48話:完璧じゃなくていい
玉座の間に、絶望が満ちていた。
私の足元に広がる、巨大な術式図。その上に置かれた、仲間たちとの絆の結晶であるはずの魔石は、その輝きを失い、いくつかは無残に砕け散っている。
完璧な起動は、もはや、不可能。
完璧な術式以外を、認めることのできない、私の心が。
完璧な調和だけを、信じてきた、私の魂が。
再び、砕け散ろうとしていた。
私は、ついに筆を落とし、描きかけの術式図の前で、力なく、膝をついた。
「……終わり、です……」
私の唇から、か細く、乾いた声が漏れた。
「七つの龍穴が、完全に沈黙した。術式は、その構造を維持できない。もはや、ただの紙屑です」
その絶望の言葉に、宰相が、憐れむような目を向けた。
「聞こえたか、沈よ。あれが、天才の限界だ。完璧な盤面でしか踊れぬ人形は、一つの駒が欠けただけで、自ら糸を切る」
「黙れ!」
沈の、魂を絞り出すような叫びだった。彼は、私を立ちはだかる瘴気の壁など意にも介さず、その燃えるような瞳で、私をまっすぐに見据えていた。
「あなたが切り捨てた民の中に、この国の未来をうつくしく奏でるはずだった者がいた。私は、その未来を守る。……彼女が、心から『うつくしい』と信じられる世界を、この手に取り戻すために!」
「これは、彼女一人の盤面ではない! この術式には、楊 子敬殿の知識が、燕燕が命がけで繋いだ道が、そして、名もなき民の祈りが、すでに織り込まれている! あなたに、その重みが分かるか!」
彼は、私に向き直ると、叫んだ。
「凛! 聞いてくれ! 俺たちは、完璧な術式を求めてはいない! あなたの、不完全で、泥臭くて、それでも、必死で誰かを救おうとする、その術が見たいんだ! 俺たちを、信じろ!」
その声が、私の心の、最も深い場所に、突き刺さった。
信じろ、と彼は言った。
不完全な、私たちを。
その瞬間だった。
「……これは……?」
私は、足元の術式図に起きた、不可解な変化に、目を見開いた。
術式図の上に配置された、三十六の龍穴に対応する魔石。そのうち、宰相に破壊された七つは、無残に砕け散り、黒い染みとなっている。だが、残りの二十九の魔石は、今、確かな青白い光を放ち、明滅していた。
「(……楊殿も、燕燕も……。残りの全ての龍穴で、術式の設置を、完了している……!)」
仲間たちは、あの地獄の中で、自らの役目を、完璧に果たしていたのだ。
だが、それだけではなかった。
術理に反する、ありえない現象が、起きていた。
砕け散った七つの魔石の残骸。その場所から、まるで、大地そのものが応えるかのように、いくつもの、温かい、金色の光の粒子が、湧き上がってくるのが見えた。そして、その光は、砕けたはずの魔石を、再び輝かせ始めていたのだ。
「馬鹿な……」宰相が、初めて動揺の声を漏らした。
「なんだ、あの光は……!? 私の瘴気ではない……! 龍穴は、完全に破壊したはず……!」
「(……なぜ……? 術理に、反する……。気のない場所から、気が生まれるなど、ありえない……。これは、一体……何……?)」
私の術士としての全ての常識が、目の前の、うつくしい、しかし非論理的な光景によって、否定されていく。
だが、沈は、その光景に、確かな希望を見出していた。
「……分からない。だが、あれは、敵ではない! 凛、あれは、俺たちの、光だ!」
私は、涙が溢れて止まらなかった。
完璧な調和だけを求めてきた、私の世界。だが、本当のうつくしさは、そんな場所にはなかった。
不完全で、泥臭くて、それでも、必死で手を取り合おうとする、この、温かい光の中にこそ、あったのだ。
私は、涙を拭うと、床に落ちていた、父の筆を、拾い上げた。
「……そう、ですね」
私は、沈に向かって、生まれて初めて、心の底から、微笑んだ。
「完璧じゃなくて、いい」
私は、宰相をまっすぐに見据えると、宣言した。
「……ええ。あなたの言う通り、私の術は、完璧ではありませんでした。ですが、それは、あなたのような、醜い完璧さではない」
私は、砕かれた術式図の上で、筆を走らせた。完璧な円ではない、歪で、欠けた光の陣。だが、それは、仲間たちの、そして、この原因不明の光を繋ぐ、ただ一つの、希望の道筋。
宰相が、理解不能なものを見るかのように、目を見開いている。
「――起動します」
私は、宣言した。
「不完全な、私たちの術式を!」




