第45話:後宮の祈り
帝都が瘴気の海に沈んでいく中、後宮は、まるで嵐の中の孤島と化していた。外からの救援はなく、刻一刻と瘴気の汚染は深刻化し、原因不明の体調不良を訴える侍女や官吏の数は、増え続けていた。
「……くっ……!」
古い演舞場の研究室で、私は、描き上げたばかりの術式の一部を、荒々しく塗りつぶした。床に広げられた『龍脈調律ノ大陣』の設計図は、未だ、その七割も完成していない。
焦りが、私の思考を鈍らせる。集中しなければならない。この術式だけが、唯一の希望なのだから。だが、研究室の扉の外から聞こえてくる、侍女たちの苦りそうな咳や、遠くで誰かが倒れたという悲鳴が、私の心を容赦なく苛んでいた。
「……姫様、薬が、もう……」
丁が、空になった薬瓶を手に、静かに告げる。私が作り置きしていた丹薬も尽きかけ、もはや、この広がり続ける絶望の前には、どうすることもできなかった。
「分かっています。ですが、これ以上の増産は……」
私の気もまた、限界を迎えつつあった。その時だった。
「――凛様!」
研究室の扉が、勢いよく開かれた。息を切らして飛び込んできたのは、春蘭。そして、彼女の後ろには、十数人の、いずれも私が丹薬で救った侍女たちが、固い決意の表情で立っていた。
「どうか、私たちに、丹薬の作り方を教えてください!」
春蘭は、私の前に進み出ると、その場で深々とひざまずいた。
「私たちは、もう、ただ救われるだけではいたくないのです! 私たちの手で、仲間を、この後宮を、守りたい。どうか、私たちにも、戦わせてください!」
その真っ直ぐな瞳。私の術は、彼女たちの中に、絶望ではなく、闘うための意志を灯していたのだ。
だが、今の私に、彼女たちを指導している時間はない。どちらも、救えない。そのジレンマが、私を押し潰そうとした、まさにその時だった。
「――姫さん! 戻ったよ!」
泥と、そして、わずかな血の匂いをまとって、燕燕が、研究室に転がり込んできた。その背には、ずっしりと重い方石の袋が、誇らしげに担がれている。
私は方石を受け取るより先に、燕燕の腕を取り脈を診る。
「……話は後です。まずはあなたの治療が最優先。私の計画に、これ以上の不確定要素は許容できませんから」
私はそう言い放つと、すぐさま治療術式を起動させる。
「約束の品は、全部揃えたぜ! これで、文句はないだろ!」
彼女は、部屋の惨状と、侍女たちの異様な熱気を一瞥すると、すぐに全てを理解した。
「……なるほどね。そういうことかい」
彼女は、私の前に立つと、にやり、と笑った。
「姫さん。あんたの仕事は、そのでかい設計図を完成させることだろ? 薬作りなんざ、あたしたちに任せておきな」
彼女は、春蘭たちへと向き直る。
「あんたたち、覚悟はいいね? これから、このあたしが、地獄の特訓をしてやる。半刻で、一人前の薬師に仕立て上げてやるから、泣き言は言うんじゃないよ!」
***
その話は、すぐに後宮の姫君たちの耳にも届いた。涼亭に集まった彼女たちの顔には、もはや茶会の時のような、のどかな雰囲気はない。
「……侍女たちが、自ら丹薬を作っていると……?」
華玲の言葉に、月華は静かに頷いた。
「ええ。ですが、材料が圧倒的に足りていない、と。特に、触媒となる清水晶の粉末が、もう宮中の備蓄では尽きかけているそうですわ」
その言葉に、華玲は、はっと顔を上げた。
「……でしたら! わたくしの実家の商会が、帝都に構える倉庫に、まだ備蓄があるはずです! すぐに手配させますわ!」
「だが、瘴気で街が封鎖されている今、どうやってそれを運ぶんだ? それに、ただ薬を作るだけじゃ、追いつかない!」
暁蘭が、苛立たしげに言う。だが、その瞳には、確かな闘志の炎が宿っていた。
「あいつにだけ、いい格好はさせないわよ……! 薬を作る場所の警備、そして、完成した薬を、安全に、迅速に、必要としている者の元へ届けるための動線確保。それは、武家の娘である、私の役目だ!」
「お待ちください、皆様」と、白 靜が、静かに、しかし、凛とした声で言った。
「丹薬の生成には、最後に清浄な気を練り込む工程が不可欠です。それを凛様お一人で担っては、大陣の完成が遅れてしまう。……わたくし、一族の教えで、気を整え、集中させる訓練だけは、幼い頃より積んでまいりました。凛様ほど精密にはできませぬが、ただ練り込むだけであれば、わたくしにもできます。その役目、わたくしにお任せください」
その、あまりに予想外の申し出に、他の姫君たちは息をのんだ。
「……決まりですわね」
最後に、月華が、静かに、しかし、有無を言わせぬ威厳を込めて言った。
「わたくしは、尚薬局の長と、そして後宮の全ての侍女たちを束ねる侍女長に話を通し、この計画への、全面的な協力を取り付けます。これは、もはや、凛様お一人の戦いではございません。我々、後宮の、全ての民の戦いです」
こうして、凛が知らぬ間に、彼女を支えるための、もう一つの戦いが、後宮の奥深くで静かに始まった。




