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第44話:宰相の妨害

観星台の硝子の天井が、帝都から立ち上る瘴気(しょうき)によって、醜く曇っていた。宰相・() 浩然(コウゼン)は、その光景を、深い、そして痛みを湛えた目で、ただ静かに見下ろしていた。眼下には、黒い()に覆われ、人々が逃げ惑う帝都の街並みが、地獄の絵図のように広がっている。


「……許せ、我が民よ」


彼は、独りごちるように呟いた。


「この痛みこそが、この国が生き延びるための、唯一の道なのだ」


彼は、ゆっくりと目を閉じた。彼が帝都全土に張り巡らせた、巨大な『厭魅(えんみ)』の術式。その()の流れが、まるで自らの血脈のように、彼には感じられた。濁り、澱み、そしてゆっくりと死に向かう、帝都の巨大な濁流。


だが、その中に、いくつかの、彼の意に反する、清浄で、力強い光の流れがあった。


「(……愚かな。実に、うつくしくない足掻きだ)」


(リン)の仲間たち。彼らが運ぶ、あの微かな輝きは、術の触媒となる方石(ほうせき)か。


「君たちのその小さな善意が、帝国という大いなる患者を死に至らしめる毒となり得ることを、君たちは知らぬ」


彼は、祭壇に置かれた、術式の中核をなす巨大な黒水晶の魔石(ませき)に、そっと手を置いた。そして、自らの()を、静かに、しかし深く、流し込み始めた。


「我が()を以て、命じる。外科手術の障害となる、その小さな『感染源』を、排除せよ」


***


「……これで、全部だ!」


帝都の西、陶器市場の薄暗い倉庫の奥で、燕燕(エンエン)は、汗と埃にまみれた顔で、しかし満足げに呟いた。彼女の目の前には、最後の希少な方石(ほうせき)が、鈍い光を放っている。瘴気(しょうき)が渦巻く帝都の裏社会を駆け回り、駆け引きと、脅迫と、そして、なけなしの金で、ついに彼女は、(リン)が要求した全ての触媒を揃えたのだ。


「姫さんの元へ戻るぞ! これがなけりゃ、何も始まらない!」


彼女は、ずっしりと重い方石(ほうせき)の袋を背負い直し、護衛の李虎(リコ)たちと共に、後宮への帰路を急いだ。


路地の角を曲がり、比較的瘴気(しょうき)の薄い、開けた通りに出た、その時だった。


空気が、変わった。

先ほどまでの喧騒が、嘘のように消え失せ、不気味な静寂が、あたりを支配する。


「……なんだ……?」


傭兵の一人が、訝しげに呟いた、その瞬間。

前方の闇の中から、ぬるり、と、黒い何かが姿を現した。


それは、獣の形をしていた。だが、生き物ではない。凝縮された瘴気(しょうき)そのものが、宰相の術によって、仮初めの形を与えられた、悪意の塊。その体は、まるで墨汁のように黒く、決まった形を持たずに、絶えず蠢いている。


「――化け物だ!」


李虎(リコ)が叫び、剣を抜く。だが、遅かった。


瘴気(しょうき)の獣は、音もなく、地を滑るようにして襲いかかってきた。傭兵の一人が、その黒い体に触れられた途端、悲鳴を上げる間もなく、まるで生気(せいき)を吸い尽くされたかのように、その場に崩れ落ちた。


「くそっ!」


李虎(リコ)たちが斬りかかるが、刃は、まるで水飴を斬るかのように、手応えなく獣の体を通り抜けるだけ。そして、斬られたはずの体は、すぐに元通りに再生してしまう。


「こいつ……物理的な攻撃が、効かないのか……!」


絶望的な戦力差。一人、また一人と、仲間たちが倒れていく。


燕燕(エンエン)様! お逃げください!」


李虎(リコ)が、血を吐きながら叫んだ。だが、燕燕(エンエン)の足は、恐怖で縫い付けられたかのように、動かなかった。


獣の、実体のない目が、彼女の背負う方石(ほうせき)の袋を、じっと捉えている。最初から、狙いは、これだったのだ。


もはや、これまでか。

彼女が、ぎゅっと目を閉じた、その時だった。


「――そこの化け物! こっちだ!」


路地の両側から、いくつもの声が響き渡った。見ると、そこには、松明や、農具、粗末な棍棒を手にした、数え切れないほどの人々が、鬼の形相で瘴気(しょうき)の獣を睨みつけていた。


商人、職人、物乞い、遊女。帝都の裏社会で、これまで彼女が、その情報と、義侠心で助けてきた、名もなき人々。


燕燕(エンエン)に、指一本、触れさせてたまるか!」

「恩知らずの化け物が! この街から出ていきやごれ!」


彼らは、自らの危険を顧みず、獣の前に立ちはだかり、盾となった。その数の力に、さすがの獣も、一瞬、動きを止める。


「……あんたたち……何やってるんだい、馬鹿野郎ども! 死にたいのか!」掠れた声でそう叫ぶと、片目の男が不敵に笑った。


「へっ、あんたにだけ、いい格好はさせられねえんでな!」


その、ほんの僅かな隙をついて、李虎(リコ)が叫んだ。


「今です、燕燕(エンエン)様! 行ってください!」


燕燕(エンエン)は、一度だけ、自分を守るために集まってくれた人々の顔を見渡すと, 涙を振り切り、再び、闇の中を走り出した。


背負った方石(ほうせき)の重みが、今は、彼らの命と、帝都の未来の重みのように感じられた。


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