第43話:絆という名の術式
帝都が、瘴気で侵される中。古い演舞場を改装した研究室だけが、唯一、未来を紡ごうとする熱気に満ちていた。
床一面に広げられた、巨大な羊皮紙。その上に、私は、不眠不休で『龍脈調律ノ大陣』の設計図を描き続けていた。
だが、私の筆は、何度も、何度も、止まった。
「……違う。これでは、気の流れが、ここで澱んでしまう……!」
私は、描き上げたばかりの複雑な術式を、荒々しく墨で塗りつぶした。床には、同じようにして破り捨てられた、数え切れないほどの失敗作が散っている。
焦りが、私の心を蝕んでいた。 『天脈創元図』は、千年前の理想の形を示してはくれる。だが、現在の帝都の形は、あまりにも変わりすぎていた。水路は埋め立てられ、道は付け替えられ、龍脈そのものも、歪んでしまっている。
不完全な情報。歪んだ前提。その上で、破綻のない、完璧な調和を持つ術式を、限られた時間の中で生み出す。それは、神の御業にも等しい、不可能に近い挑戦だった。
「(……うつくしくない。あまりにも、計算外の揺らぎが多すぎる……!)」
私の精神は、すり減り、限界を迎えつつあった。
「……姫様」
不意に、静かな声がかけられた。顔を上げると、いつの間にか、丁が、水差しと、湯気の立つ簡素な饅頭を盆に乗せて、静かに立っていた。彼は何も言わず、ただ、私の傍らにそれを置くと、一礼して部屋の隅へと戻る。
その無言の気遣いが、ささくれだった私の心を、わずかに和らげた。
その時だった。研究室の重い扉が開き、二人の男が入ってきた。一人は、街の埃と、そして、死の匂いをまとった沈。もう一人は、書物の匂いが染みついた楊 子敬だった。
「凛殿、状況は?」
沈の声は、疲労でかすれていた。
「あまり、芳しくありません」私は、吐き捨てるように言った。
「この術式は、帝都全域の龍脈の流れを、同時に、かつ、調和を保ったまま制御しなければならない。一つの矛盾が、術全体の崩壊を招く。ですが、変数が、あまりにも多すぎる。全てを、私の頭脳だけで制御するには……限界が……」
そこまで言って、私は、はっと口をつぐんだ。自らの「不完全さ」を、他人の前で認めてしまった。かつての私であれば、決してあり得ないことだった。
だが、彼らは、それを嘲笑うでも、憐れむでもなく、ただ、真剣な眼差しで、床に広げられた巨大な設計図を、じっと見つめていた。
「……恐れながら、凛殿」と、沈がゆっくりと口を開いた。
「方術の理は、私には分かりません。ですが、法を司る官吏として、私は、条文の矛盾や、法の抜け穴を見つけ出すことだけを、仕事としてきました」
彼は、設計図の一点を、指し示した。
「例えば、ここの部分。この龍穴から取り込んだ気の流れは、この水路に沿って、こちらの魔石灯へと繋がっていますね。ですが、同時に、こちらの別の龍穴からの流れも、同じ魔石灯に、違う法則で干渉しようとしている。これは、まるで、一つの事案に対し、矛盾する二つの法が、同時に適用されようとしているかのようです。これでは、現場は混乱し、法そのものが、意味をなさなくなる」
彼の指摘に、私は、息をのんだ。 術理ではない。ただ、純粋な、法を司る者としての、完璧なまでの論理。
「……そして」と、今度は楊 子敬が、その箇所を覗き込んだ。
「その水路は、八十年前に起きた大火の後、再建された際に、流路が古地図とは僅かに異なっているはずです。その誤差は、術式に反映されておりますかな?」
私は、二人の言葉に、雷に打たれたような衝撃を受けた。 私は、気の流れのうつくしさに囚われるあまり、その流れが置かれた、現実の「制約」と「矛盾」を見落としていたのだ。
「……あなた方は、正しいです」
私は、素直に認めた。そして、二人の指摘に基づき、術式を修正していく。
その夜、私たちの、奇妙な共同作業が始まった。
私が、術式を描く。 沈が、その術式を、一つの巨大な「法典」として読み解き、その論理的な矛盾点を、冷静に指摘していく。
「ここの条文は、あまりに曖昧です。解釈の仕方によっては、全体の流れを阻害しかねない」
「ならば、ここに、例外規定を設けるための、補助術式を追加します」
そして、楊 子敬が、その術式が置かれる土地の、歴史的な変遷という、過去からの視点を与える。
「お待ちくだされ。その場所は、かつて処刑場があった土地。負の気が溜まる場所やもしれん。術式の属性を、少し変えた方が良いかもしれません」
「なるほど、設置する魔石の種類を変えましょう……」
三人の会話の間には、互いの専門性を、その知性を、心の底から認め合う、静かで、しかし、確かな信頼が、生まれていた。
それは、うつくしい調和とは、ほど遠いかもしれない。 だが、不完全な私たちが、互いの欠けた部分を補い合うその様は、決して、醜いものではなかった。




