第40話:決別と希望の萌芽
星空の下、観星台に響いた宰相の言葉。それは、沈が信じてきた全ての正義と信頼を、根底から覆す、絶望的な宣告だった。
彼の世界が、完全に、砕け散った。
だが、その絶望の底で、一つの、決して消えない炎が燃え上がった。怒りだ。民の命を「代償」と呼び、友の故郷を「尊い犠牲」と断じる、その歪みきった正義に対する、絶対的な怒り。
「……断る」
沈の唇から、か細く、しかし、鋼のように強固な拒絶の言葉が漏れた。
「何?」
「私は、断ると言ったのです、閣下」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もはや尊敬の色はない。ただ、法と秩序の番人としての、揺るぎない決意だけが宿っていた。
「民の骸の上に立つ帝国など、私が守るべき国ではない! あなたの歩む道は、正義ではない。ただの、狂気だ!」
交渉は、決裂した。
宰相・季 浩然は、初めて、その穏やかな笑みを消した。その顔には、失望と、そして、憐れみが浮かんでいた。
「……そうか。残念だよ、沈。お前ならば、分かってくれると思っていたが」
彼は、観星台の壁に埋め込まれた、一つの魔石に、静かに手を触れた。
「だが、もう時間がないのだ。龍脈の病巣は、帝都の真下で、今にも破裂寸前のところまで膨れ上がっている。もはや、一刻の猶予もない」
彼の手の中で、魔石が禍々しい光を放ち始める。
「凛殿の協力が得られなかった以上、この手術は不完全なものとならざるを得ない。多少、犠牲が増えるやもしれぬな。だが、それでも、私はこの国を救う。この大術式の起動を、もはや誰にも止められはしない。お前の信じる正義とやらが、いかに無力か、その目で見るがいい」
宰相は、そう言うと、静かに衛兵に合図を送った。沈は、なすすべもなく両腕を掴まれ、観星台から荒々しく引きずり出される。
宰相府の固い石畳の上に、無様に放り出された沈が見上げた空は、すでに、その色を変え始めていた。帝都の各地から、いくつもの黒い気の柱が、陽炎のように立ち上っている。街のあちこちで、人々の悲鳴が上がり始めていた。
***
「――というわけだ」
古い演舞場の床に、沈は、これまでに起きたことの全てを、一言一句違えることなく語り終えた。真犯人は、宰相であること。帝都が、緩やかな死に向かっていること。そして、宰相が、その病巣を焼き切るために、帝都そのものを犠牲にする、「大手術」を開始したこと。
彼の言葉に、楊 子敬は血の気を失い、燕燕は唇を噛み締め、丁は、固く、固く、拳を握りしめていた。絶望が、私たちの間に、重くのしかかる。
その、沈黙を破ったのは、私の声だった。
「……なるほど。そういうこと、でしたか」
私は、床に広げた、一枚の巨大な羊皮紙の上に、最後の一本の線を、描き終えた。それは、私が『天脈創元図』から逆算して導き出した、「千年前の、帝都の理想の龍脈図」。
その最後のピースがはまった瞬間、私の頭の中で、全ての謎が、一つのうつくしい答えへと収束した。
私は、絶望に沈む仲間たちに向き直り、自らが復元した「本来の龍脈図」を広げた。
「宰相は、龍脈に巣食う、千年の『病巣』だと言って、都ごと焼き払おうとしています。ですが、原因は、もっと単純です」
私は、自らが算出した「理想の流路」と、現在の「ずれた流路」の差異を指し示した。
「龍脈が、長い年月をかけて、本来いるべき場所から、少しだけ、ずれてしまった。ただ、それだけです。宰相が『病巣』と呼ぶ『結節』とは、いわば、慢性的な脱臼に他なりません」
「……脱臼……? それが、単純だと……?」
沈が、信じられないといった顔で私を見る。
「ええ。少なくとも、都を焼き払うという、醜い外科手術よりは、遥かに単純で、うつくしい解法です」
私は、静かに続けた。
「宰相は、この根本的な『ずれ』に気づいてすらいません。彼が『病巣』と呼んでいるのは、あくまで『ずれ』によって生まれた気の澱み……長年かけて蓄積した巨大な『結節』に過ぎないのです。彼がやろうとしているのは、その『結節』だけを破壊するという、あまりに乱暴な対症療法。ですが……」
私は、楊 子敬の目を見た。
「あなたは、人の身体が脱臼した時、その腕を切り落としますか?」
「……いや。元の位置に戻す、『整復』を行う」
「その通りです。手術は、必要ありません。このズレを、本来あるべき場所へと戻す、『整復』をすればいいのです。そうすれば、龍脈は自らの力で、澱みを浄化し、調和を取り戻すはず。そして、この『天脈創元図』が、そのための正確な座標と手順を、千年後の私たちに、教えてくれています」
千年前の忘れられた都市計画図が、絶望を覆すための唯一の治療計画図――千年の時を超えた処方箋へと変わった、その瞬間だった。




