第39話:究極の選択
星々の光が、まるで意味を失ったかのように、冷たく、白々しく、観星台を照らしていた。宰相の言葉が、沈の頭の中で、何度も、何度も反響する。
――『君の仲間……あの書庫の男の故郷もまた、この国を救うための、尊い犠牲の一つだったのだよ』
「……尊い、犠牲……?」
沈の唇から、か細く、乾いた声が漏れた。
「あなたは、あれを……あの、地獄を……! 正しいことだったと、そうおっしゃるのか!」
初めて、彼は、敬愛する上司に向かって、激情を露わにした。だが、宰相・季 浩然の表情は、穏やかなまま、変わらない。
「正しいかと問われれば、答えは否だ。だが、必要だったかと問われれば、答えは是だ」
彼は、静かにそれを認めた。
「私は、その罪により我が身が地獄の業火で焼かれようとも、構わん。あの村の犠牲があったからこそ、私は、龍脈の病巣を焼き切るための、完璧な手術を完成させることができた。彼らの死は、決して無駄ではなかった。この国を救うための、礎となったのだ」
その言葉に、沈は、激しい怒りと、そして、目の前の男が宿す、狂的なまでの覚悟を、同時に理解した。これは、悪ではない。悪であるならば、法で断罪できる。だが、彼の根底にあるのは、あまりにも純粋で、歪みきった「正義」なのだ。
「……ふざけるな……!」
沈は、歯を食いしばった。
「私が守ると誓った法は、民一人一人の命と、平穏な日常を守るためのものだ! あなたがやっていることは、ただの大量虐殺に他ならない!」
「その正義で、国が救えるのかね、沈よ」
宰相の問いは、氷のように冷たかった。
「お前の信じる法と秩序は、この緩やかに死にゆく国にとって、もはや鎮痛剤にすらならん。ただの、感傷だ。感傷に浸り、救えぬ民と共に、この国と心中するかね? それが、お前の正義か?」
「それでも、民の命を犠牲にするなどという道は、断じて……!」
「他に道があるとでも? お前は禁室書庫で、この国の状況を見たはずだ。あれを読んでもなお、他に道があると言うのなら、是非とも聞こうではないか」
宰相の言葉に、沈は唇を噛み締める。そうだ。道など、なかった。そこにあったのは、ただ、緩やかな死という、絶望的な未来だけだった。
彼は、ゆっくりと沈に歩み寄ると、その肩に、そっと手を置いた。それは、かつて、彼を科挙で見出し、ここまで引き上げてくれた、師の手そのものだった。
「だが、私には、この国を救う道が見える。そして、その道には、お前の力が必要なのだ、沈」
彼は、沈に、究極の選択を迫った。
「私の右腕となり、非情な神となって、この国を再生させるか。それとも、無力な正義を抱きしめたまま、この国と共に、緩やかな死を待つか。選ぶがいい」
それは、「悪」か「正義」かではない。「緩やかな死」か「犠牲を伴う再生」か。沈が信じてきたもの全てが、根底から覆される、絶望的な選択だった。
「……なぜ、私なのですか」
「お前が、誰よりもこの国を愛し、そして、誰よりも有能だからだ。そして……」
宰相は、そこで一度、言葉を切った。
「お前が、あの姫君の信頼を得ているからだ」
「……凛殿……?」
「そうだ。彼女の術は、私の計画を完成させるための、最後の鍵なのだよ」
宰相は、こともなげに告げた。
「私の術は、病巣を焼き切ることはできるが、あまりに非効率で、制御が難しい。だが、彼女は違う。彼女の術は、龍脈の力を、驚くほど高効率で、そして純粋な形で引き出すことができる。あの池の浄化の際、私の部下が、そのうつくしい術理を観測させてもらった」
彼の言葉に、沈は、背筋が凍るのを感じた。あの、警備記録の「空白」。あれもまた、宰相の……。
「彼女の『抽出術式』を逆用すれば、私の『劇薬』は、これまでとは比較にならぬほど、精密で、強力な『神のメス』と化す。最小限の犠牲で、最大限の効果を。それこそが、私が追い求める、完璧な外科手術だ」
彼は、星空を見上げ、まるで夢見るような目で言った。
「彼女にも、協力してもらう。いや、彼女は、協力せざるを得なくなる。この国を救うという、大義の前にな」
沈は、もはや、言葉を発することもできなかった。
自分が最も尊敬する男が、真の黒幕だった。
自分が守ろうとしてきた正義は、無力だった。
そして、自分が守るべき唯一の光である凛は、その男が最も欲する、最後の生贄だった。
彼の世界が、完全に、砕け散った。




