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第38話:観星台の外科手術

禁室書庫(きんしつしょこ)から戻った(シェン)は、その足で、一直線に宰相府へと向かっていた。彼の心臓は、氷の塊のように冷たく、そして重かった。懐に収められた、あの観測記録の写しが、まるで鉛のように彼の全身を蝕んでいる。


宰相は、知っていた。

この国の、不治の病を。

そして、その上で、これまで、ずっと……。


「……閣下に、至急お目通りを願いたい」


宰相府の衛兵にそう告げた(シェン)の声は、自分でも驚くほど、硬く、乾いていた。


***


宰相・() 浩然(コウゼン)が彼を招き入れたのは、執務室ではなかった。宰相府の最も高い場所にある、彼の私的な観星台。円形の部屋の天井は、巨大な硝子張りになっており、そこからは、星々の海が、まるで手の届きそうなほど近くに見えた。


「見事だろう、(シェン)


宰相は、星空を見上げながら、穏やかな声で言った。その横顔は、いつものように、国の未来を憂う、賢者のそれにしか見えない。


「この星々の運行は、寸分の狂いもなく、完璧な調和を保っている。まさに、(リン)殿が追い求める『うつくしさ』そのものだ。だがな……我々が住まうこの大地は、そうではないのだよ」


彼は、ゆっくりと(シェン)へと向き直った。その瞳は、全てを見通しているかのように、深く、静かだった。


「君も、見たはずだ。禁室書庫(きんしつしょこ)で。この国に、未来はないという、絶望的な真実を」


(シェン)は、息をのんだ。やはり、宰相は、自分が何を知ったかを、正確に把握していた。


「……なぜ、黙っておられたのですか」


絞り出すような声だった。


「言えば、どうなる? 穏健であらせられる皇帝陛下はただ祈り、民は何も知らぬまま緩やかな滅びを受け入れるだけだ。……私は、それだけは許せなかった。たとえ魔王と罵られようと、この手で国を救う道を選ぶ。君には、私のこの孤独が分かるか、(シェン)よ」

「ですが、民に、真実を知らせることもなく……!」

「知らせてどうなる! 帝都が恐慌に陥り、国が内側から崩壊するだけだ! それこそ、お前が守ろうとしている『秩序』の、完全な死ではないのか?」


宰相の言葉は、冷たい刃のように、(シェン)の正義を切り刻んでいく。


「だが、私は違う。私は、その運命に抗う、唯一の方法を見つけ出したのだよ」


その言葉は、(シェン)がこれまで信じ、守ろうとしてきた法と秩序が、ただの延命措置に過ぎなかったという、残酷な事実を突きつけた。


「……唯一の、方法……? まさか、あの、市井の惨劇が、それだとでもおっしゃるのですか」


問いながら、(シェン)は、自らの声が震えているのを感じた。


「そうだ」


宰相は、あまりにも、あっさりと認めた。


「あれは、惨劇などではない。あれは、外科手術だ」

「……手術、ですと……?」

「そうだ」


彼は、星空の下、恐るべき計画の全貌を、静かに、しかし熱を込めて語り始めた。


「君たちが『瘴気(しょうき)』と呼ぶあれは、龍脈(りゅうみゃく)の病巣だ。大地に巣食い、国全体を緩やかな死へと導く、主悪の根源。それを、強制的に摘出し、焼き切り、全体の流れを再生させるための、唯一無二の『劇薬』なのだよ」


市井の惨劇は、帝都の地下に巣食う巨大な病巣を焼き払うための、計算され尽くした「手術」だった。民の犠牲は、帝国という巨大な患者を救うために支払われるべき、「代償」に過ぎないのだと、彼は断言した。


「……民の、命を……代償、だと……? あなたは、正気か!」


(シェン)は、愕然とした。彼の信じる正義が、音を立てて崩れていく。


「正気だとも。これまでで、最もな。(シェン)、お前とて、法を執行するにあたり、時に非情な判断を下さねばならぬことは知っているはずだ。一人の罪人を見逃せば、百人の民が危険に晒される。ならば、その一人を、法の名の下に断罪する。それと、何が違う?」

「違います! それは、法の下の正義です! あなたがやっていることは、ただの、無差別な……!」

「虐殺、か? 違うな。これは、救済だ」


宰相の声は、どこまでも、穏やかだった。


「無論、心は痛む。だが、外科手術に、痛みはつきものだ。そして、私はこれまでも、この帝国の各地で、幾度となく、この手術を執り行ってきた。そうしなければ、この国は、とうの昔に滅んでいたのだから」


その言葉に、(シェン)の脳裏に、ある男の、深い痛みを湛えた瞳が蘇った。(ヨウ) 子敬(シケイ)。彼が語った、故郷の悲劇。原因不明の奇病。次々と倒れていく村人たち。黒く枯れた大地。


「……まさか……」


(シェン)の声が、震えた。


「……まさか。では、(ヨウ)殿の故郷で起きたという、あの悲劇も……? 報告されていた、他のいくつかの村の壊滅もまた……!?」


「そうだ」


宰相は、彼の心を読み取ったかのように、静かに、そして無慈悲に、告げた。


「君の仲間……あの書庫の男の故郷もまた、この国を救うための、尊い犠牲の一つだったのだよ」


星々の光が、まるで意味を失ったかのように、冷たく、白々しく、観星台を照らしていた。


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