第36話:帝国の不治の病
月明かりが差し込む、伽藍堂の研究室。砕かれた硝子の破片が、星屑のようにきらめいていた。私の復活を、仲間たちがそれぞれの形で受け止めてくれた、あの夜から数日が過ぎた。
部屋は、丁が黙々と片付けてくれたおかげで、以前の静寂を取り戻しつつあった。だが、壁に描かれた術式も、机に並んでいた道具もない、空っぽの空間。それは、今の私の術理が、敵に全く通用しないという現実を、無情に突きつけているかのようだった。
「……やはり、手詰まりですな」
執務室に戻った沈の元を訪れた楊 子敬が、重い溜息をついた。彼の前には、趙大将軍の不正を示すための、山のような資料が積まれている。だが、そのどれもが、決定的な証拠にはなり得なかった。
「軍部の記録は、完璧に隠滅されている。まるで、我々が調べることを見越していたかのように。これでは、朝議で太師殿が彼を弾劾したところで、のらりくらりとかわされるだけでしょう」
「ええ。私も、彼の息のかかった者たちを尋問しましたが、口を揃えて『存じ上げぬ』の一点張り。あまりにも、統制が取れすぎている」
沈は、苦々しげに呟いた。聡明な二人の男をもってしても、巨大な軍事組織が隠蔽した一つの罪を暴くことは、不可能に近い。
「凛殿の解析は、進んでいますか?」
「いえ……」沈は、冷宮の方角を見やり、静かに首を振った。
「彼女は、自身の術理を盗まれ、強化された敵の術を前に、糸口すら掴めていないご様子。我々が、何か新たな手がかりを掴まない限り、彼女も動けない」
打つ手がない。その重い現実が、部屋の空気を支配する。
「……一度、宰相閣下にご報告に上がります」
長い沈黙の後、沈が決意したように立ち上がった。
***
宰相府の執務室で、沈からの報告を受けた季 浩然は、その眉間に深い憂いの色を浮かべていた。
「そうか……。大将軍も、尻尾を掴ませぬか。さすがは、歴戦の猛将というべきか」
「はっ。我々の力不足、誠に申し訳ございません」
「いや、お前たちの働きは、見事という他ない。だが……」
宰相は、一度言葉を切り、厳しい表情で続けた。
「これ以上、軍部を刺激するのは、得策ではないかもしれぬ。下手に動けば、趙大将軍は、それを口実に、国内の不安を煽り、己の権力をさらに強めようとするだろう。そうなれば、この国は、内側から二つに割れてしまう。……今は、一度、引くべきかもしれん」
その言葉に、沈は、はっと顔を上げた。
「ですが、閣下! それでは、帝都の民を見殺しにしろと!? 真犯人を、このまま野放しにしろと!?」
「……分かっている!」
宰相が、珍しく声を荒らげた。
「だが、国が滅んでしまっては、正義も何もないのだ! ……だが、お前のその、決して諦めぬ目を見ると、私も、為政者として、最後の賭けをしてみたくなった」
宰相は、疲れたように笑うと、静かに立ち上がった。
「一度、私から陛下に現状をご報告し、ご聖断を仰ごう。お前も、同行するのだ、沈」
***
皇帝の私室は、玉座の間のような華美な装飾はなく、ただ、壁一面を埋め尽くす書物と、質実剛健な調度品だけが置かれていた。若き皇帝は、その鋭敏な瞳で、季 浩然の奏上を、一言も聞き漏らすまいとするかのように、静かに聞いていた。
「――以上が、現状の全てにございます、陛下」
宰相が、趙大将軍への強い疑いがあること、しかし確たる証拠はなく、これ以上の調査が国を二分しかねない危険性を、冷静に、しかし憂いを持って奏上し終えると、部屋には重い沈黙が落ちた。
皇帝は、しばらくの間、指で玉座の肘掛けを、こつ、こつ、と規則的に叩いていた。その表情からは、感情が読み取れない。だが、その瞳の奥では、激しい思考の嵐が吹き荒れているのが、沈には分かった。
「……つまり、こういうことか、季よ」
やがて、皇帝は静かに口を開いた。
「大将軍を追い詰めれば、国が割れる。だが、見逃せば、帝都の民を苦しめた大罪人が、のうのうと生き永らえる。どちらに転んでも、朕の、そしてこの国の敗北、というわけだな」
「……陛下の、ご心痛、お察しいたします」
「よせ」
皇帝は、宰相の言葉を手で制した。そして、その視線を、傍らに控える沈へと移した。
「沈よ。そなたは、どう思う」
「……恐れながら、申し上げます」沈は、深々と頭を下げた。
「どのような理由があろうとも、法を曲げ、民を苦しめた罪が見逃されることがあってはなりません。それは、この国の秩序の、死を意味します」
その、あまりにまっすぐな答えに、皇帝は、ふっと、口元だけで笑った。
「……そうか。そうだな。」
皇帝は、立ち上がると、窓の外、闇に沈む帝都の街並みを見下ろした。
「季よ。そなたの言うことも、分かる。だが、この度の件、もはや小手先の政争で収まる問題ではないと、朕は思う。腐った枝葉を切り落とすだけでは、足りぬ。根に巣食う病を、完全に抉り出さねば、この国に未来はない」
彼は、振り返ると、決然とした声で言った。
「沈に、勅命を下す。そなたに、国家最高機密が眠る『禁室書庫』への、立ち入りを許可する」
「へ、陛下!?」
その、あまりに予想外の言葉に、宰相が、初めて驚愕の声を上げた。
「趙の罪を探すのではない」と、皇帝は続けた。
「この国を蝕む、病の『正体』そのものを、見つけ出してまいれ。そなたの、その曇りなき忠義の目をもってな」
***
禁室書庫。それは、帝国の光と闇、その全てが記録された、禁断の場所。皇帝の勅命がなければ、宰相ですら、足を踏み入れることは許されない。
重々しい扉の先で、沈は、まず、趙大将軍の『術式兵器』に関する全ての記録を要求した。
だが、そこに記されていたのは、あまりにも稚拙な、子供の空想のような計画ばかり。これでは、あの瘴気を生み出すことなど、到底不可能だ。
「(……違う。奴ではない。だとしたら、一体、誰が……?)」
凛の言葉が、脳裏に蘇る。『敵は、龍脈そのものに干渉している』。
そうだ。術式兵器ではない。もっと根源的な何か。沈は、書庫の管理官に、新たな要求を突きつけた。
「この国が始まって以来の、『龍脈』に関する、全ての観測記録を」
やがて、彼の前に、一つの古びた木箱が、厳重な封印と共に運び込まれた。『国家安寧に関する重要観測記録』。
封印を解き、中の羊皮紙を一枚、また一枚と、めくっていく。そこに記されていたのは、帝都の地下を流れる龍脈の、過去数十年間にわたる、精密な観測記録だった。
そして、最後のページに記された、結論。
――『帝都の龍脈は、原因不明の汚染により、緩やかな死に向かっている。数十年以内に予想される龍脈の完全な枯渇、あるいは暴走は、帝国全土に大飢饉や魔物の大量発生といった、壊滅的な厄災をもたらすであろう。』
国が、緩やかな死に向かっている。
その、あまりにも絶望的な真実を前に、沈は、言葉を失った。
彼は、震える指で、報告書の末尾に記された、この観測を行った調査団の名簿に、目を落とした。そこには、帝国が誇る、最高の学者たちの名が並んでいた。
そして、その一番最後に記されていた、補佐官としての、一つの名。
――季 浩然。
彼は、愕然とした。
宰相は、知っていたのだ。この国の、不治の病を。
そして、その上で、これまで、ずっと……。
沈の世界が、音を立てて崩れ始めた。
***
その頃、宰相府近くの最も高い場所にある観星台で、季 浩然は一人、闇に沈む帝都を見下ろしていた。その手は、冷たい手すりを強く握りしめている。
街の灯りは、まるで夜空からこぼれ落ちた星々のように、無数に瞬いている。民の営みの光。彼が、全てを賭して守ろうとしているもの。
月光が、その横顔を冷ややかに照らし出す。そこに浮かんでいたのは、沈が知る穏やかな為政者のそれではない。国の不治の病をその双肩に背負い、非情の選択を迫られた男の、深い苦悩と、揺るがぬ覚悟を刻んだ表情だった。




