第35話:不完全な私たちの術式
侍女たちが去った後も、研究室には、彼女たちが残した温かい祈りのような空気が、満ちていた。私はしばらくの間、動けずにいた。私の手の中には、まだ、春蘭が握ってくれた、確かな温もりの残滓が残っている。
光。
彼女たちは、そう言った。
私の術は、殺戮の道具になった。私のうつくしさは、世界を醜くした。その事実は、脳に焼き付いて離れない。だが、この手の温もりもまた、私の術がもたらした、紛れもない、事実。
――『あなたのせいではない! あなたの術は、人々を救おうとした! それを悪用した者がいる、ただそれだけのことだ!』
あの時、私を必死に抱きしめながら叫んだ、沈の声が蘇る。論理的には、正しい。私の計算に、間違いはなかった。だが、現実に、私の術理が人々を苦しめた。その結果だけが、重く、重く、私の心を鎖で縛り付けていた。
――『術をうつくしいと感じる心、世界の調和を愛でる心こそが、その力を正しく導く、唯一の羅針盤なのだ』
父の言葉が、脳裏に響く。
今の私に、術をうつくしいと感じる資格はあるのだろうか。この手で、世界に醜い不調和を生み出してしまった、この私に。
私の視線が、床に散らばる瓦礫の山を彷徨う。砕かれた方石、破り捨てられた羊皮紙。自らの手で破壊した、私の世界の残骸。
その中で、ふと、一つのものが目に留まった。暖炉のそば、煤にまみれて転がっている、一本の細筆。あの日、私が炎に投げ込もうとし、沈が、その手を掴んで止めた、父の形見。
私は、まるで何かに導かれるように、その筆をゆっくりと拾い上げた。
――『この筆で、うつくしいものだけを描きなさい』
父は、そう言った。
「(もう、うつくしさのためではありません。私が、私の手で生み出してしまったこの醜い不協和音を、この手で終わらせる。これは探求ではない。……私の、贖罪です)」
私が捨てるべきだったのは、術ではない。完璧な調和以外を「醜い」と切り捨ててきた、私自身の、傲慢さだった。そして、この醜い不調和を、このまま放置することこそが、父の教えに、そして世界の理に、背を向ける行為なのではないか。
夜が更け、月明かりが、床に散らばる硝子の破片を、星屑のように照らし出す頃。私は、ゆっくりと立ち上がった。そして、固く閉ざされた扉を、自らの手で開いた。
扉の前には、沈と、燕燕、そして丁が、まるでずっとそこにいたかのように、静かに立っていた。
「……姫さん」
燕燕が、心配そうに私の顔を覗き込む。私が口を開くより先に、静かな声が、夜の冷たい空気を震わせた。
「……お帰りなさい、凛殿」
沈だった。彼の瞳には、咎めるような色はどこにもない。ただ、深い安堵と、私の苦しみを全て理解しているかのような、穏やかな光が宿っていた。
その、あまりに優しい声に、私の心の最後の氷壁が、音を立てて溶けていくのが分かった。
「……私の術は、完璧では、ありませんでした」
か細い、だが、確かな意志を込めた声だった。
「完璧な調和だけを求め、それ以外を醜いと切り捨ててきた。その傲慢さが、敵に利用される隙を与えたのです。ですが……」
私は、固く握りしめていた父の筆を、見つめた。
「ですが、私の術は、無価値ではなかった。目の前の命を救うこともできた。不完全で、うつくしくなくても……それは、確かに、光だった」
私は顔を上げ、彼らをまっすぐに見据えた。
「もう一度、戦います。ですが、私一人では、もう勝てません。あの夜、敵は、私の術理を盗み、さらに強化した。今頃、奴らの『生成炉』は、私の術理を取り込み、以前とは比較にならないほど、強固になっているはずです。もはや、力でねじ伏せることは、不可能でしょう」
私は、生まれて初めて、誰かに、心の底から助けを求めた。
「……これからは、あなたたちの力を、貸してください」
私の言葉に、沈は、静かに、しかし力強く頷いた。
「我々は、最初から、あなたと共に戦っているつもりでした。その思いは、今も、これからも、何一つ変わりません。あなたの知性は、我々にとっての光です。どうか、一人で抱え込まないでほしい」
「……ったりまえじゃないか!」
沈黙を破ったのは、燕燕の、涙で濡れた顔だった。だが、その口元は、獰猛なほどに、強く、うつくしく、吊り上がっていた。
「姫さんがやるってんなら、あたしたちは、どこまでだって付き合うさ! そうだろ、丁!」
彼女が、隣に立つ巨漢の腕を叩くと、丁は、いつもと同じ無表情のまま、しかし、その大きな体で、私を外の冷たい夜気から守るように、静かに一歩、前に出た。そして、重々しく、しかし、絶対的な忠誠を込めて、一言だけ、言った。
「……御意」
うつくしくはない。完璧でもない。だが、そこには、どんな完璧な術式よりも確かな、温かい絆が、確かに存在していた。




