第34話:冷宮の訪問者と小さな光
世界から、光が消えた。
私が自らの魂を砕き、この伽藍堂の研究室に閉じこもってから、もう何度、太陽が昇り、沈んだだろうか。時間の感覚さえ、曖昧になっていた。
壁の術式は削り落とされ、床には砕かれた方石の破片と、破り捨てられた羊皮紙が散乱している。そこは、かつて私のうつくしい世界が存在した場所の、無残な墓標だった。
「凛殿」
固く閉ざされた扉の向こうから、聞き慣れた、静かな声がした。沈だ。宰相閣下の命令により、この冷宮の警備は彼に一任されている。彼が来れば、監視の兵も扉を開けざるを得ない。
ゆっくりと扉が開かれ、彼が部屋に入ってくる。私の惨状を見ても、彼の表情は変わらない。ただ、その瞳の奥に、深い痛みの色が浮かんでいた。
「あなたのせいではない。あなたの術は、人々を救おうとした。それを悪用した者がいる、ただそれだけのことです」
彼は、以前にも聞いた言葉を、静かに繰り返した。正しい。論理的には、完璧に正しい言葉だ。だが、その正しさが、今の私には、何の慰めにもならなかった。
私が何の反応も示さないのを見て、彼は小さく息をつくと、静かに部屋を去っていった。
次に現れたのは、燕燕だった。彼女は、部屋の惨状を見るなり、わなわなと肩を震わせた。
「……あんた、いつまでそうしてるつもりだい」
その声は、怒りに満ちていた。
「あたしがどれだけ外で、あんたの無実を訴えて回ってると思ってるんだ! 姫さんたちが、どれだけあんたを心配してるか、分かってるのかい!?」
彼女は私の肩を掴み、乱暴に揺さぶった。
「あんたが作った薬で、どれだけの子が助かったと思ってるんだ! それを、全部なかったことにするつもりかい! 答えておくれよ、姫さん!」
だが、私は答えない。人形のように、されるがままになっている私に、彼女は、諦めたように、そして泣きそうに顔を歪めると、乱暴に手を離して部屋を飛び出していった。
静寂が戻る。扉の外に、丁が、いつもと同じように食事の盆を置く、かすかな音だけがした。
***
次の日の午後。
再び、扉が開かれた。また、沈か。私は、壁に背をもたせ、膝を抱えたまま、顔を上げることさえしなかった。
「……凛殿」
彼の声。だが、一人ではない。彼の背後には、か細い息遣いが、一つではなかった。
「……あなたに、どうしても会いたいという者たちが」
促されるように、小さな影が、おずおずと部屋に入ってきた。その顔を見て、私の記憶の片隅が、わずかに反応した。後宮の侍女。確か、名は……。
「凛様……」
春蘭。瘴気の最初の犠牲者となり、私が不完全な丹薬で、かろうじて命を繋ぎとめた、あの侍女だった。そして、彼女の後ろには、同じように、私が丹薬を施した、見覚えのある顔、ない顔……十数人もの侍女たちが、不安げに、しかし、確かな意志を持って、そこに立っていた。
彼女たちは、部屋の惨状と、抜け殻のようになった私の姿を見て、息をのむ。
春蘭は、私の前に進み出ると、その場で深々とひざまずいた。そして、床に散らばる硝子の破片をものともせず、私の冷え切った手を取った。
その手は、驚くほど、温かかった。
「……姫様」
彼女の目から、大粒の涙が、はらはらと零れ落ちた。
「ありがとうございます……。あなたが、いなければ、私は、もう……」
「…………」
「外では、皆、姫様のことを魔女だと罵っています。でも、私たちは知っています。ここにいる、私たちは、知っています。あなたが、どれだけ多くの者たちを、あの原因不明の苦しみから救ってくださったか。みんな、口には出せないけれど、感謝しているんです。あなたこそが、私たちの……」
彼女は、嗚咽交じりに、言葉を絞り出した。彼女の後ろで、他の侍女たちも、静かに涙を流している。
「姫様は、私たちの、光です」
光。
その言葉が、私の心の、最も深い、凍てついた闇の底に、小さな波紋を広げた。
私の術は、殺戮の道具になった。
私のうつくしさは、世界を醜くした。
それは、紛れもない事実。
だが。
この手の温もりもまた、私の術がもたらした、紛れもない、事実。
完璧ではなかった。うつくしくもなかった。ただ、目の前の命を救いたい一心で組んだ、泥臭い、不完全な術。それが、こうして、私の手を取り、光だと言ってくれている。
無価値では、なかった……?
閉ざされた心の、分厚い氷の壁に、ほんの、ほんの僅かな亀裂が入る。そこから、一筋の、小さな、小さな光が差し込んだのを、私は、確かに感じていた。




