第33話:標的の痕跡
世界から、光が消えた。
凛が自らの魂を砕き、冷宮の奥深くに閉じこもってから、数日が過ぎた。彼女のいない世界で、しかし、物語は止まることなく、真実へと向かって、無情に突き進んでいた。
沈の執務室は、今や作戦司令部と化していた。宰相から与えられた全権を以て、彼は帝国のあらゆる記録を洗い出し、楊 子敬がその膨大な情報の中から、関連する可能性のあるものを、驚異的な速度で選り分けていく。
「……沈殿、こちらを」
山のような人事記録の中から、一枚の羊皮紙を抜き出したのは、楊 子敬だった。それは、先の池の浄化作戦の夜、庭園一帯の警備計画を立案した担当官の経歴書だった。
「この男……。三年前に、趙大将軍の推薦を受けて、異例の昇進を遂げていますな」
その言葉に、別の資料を調べていた沈が、顔を上げた。
「……警備記録の、あの不自然な『空白』。あれが、もし意図的に作られた、観測者のための隙だったとすれば……?」
「ええ。その可能性が、極めて高くなりました」
沈は、机の上に広げた、別の極秘文書を指し示した。それは、彼が宰相の権限を以て、軍部の武器開発局から取り寄せたものだった。
「こちらにも、興味深い記述がありました。趙大将軍は、半年前、『龍脈の力を利用した、広域殲滅型の新型術式兵器』の開発を皇帝に上奏し、却下されている」
「なんと……!」
楊 子敬が、そのおそるべき兵器の名に目を見開く。
「却下された理由は、『非人道的であり、帝都の安寧を脅かす危険性が高すぎる』。上奏を却下するよう、皇帝陛下に進言したのは、季 浩然宰相閣下と、そして、王 徳太師でした」
動機と、機会。二つのピースが、不気味に組み合わさる。だが、まだ足りない。沈は、思考を巡らせた。
「ですが、楊殿。趙大将軍は、武人ではあっても、方術師ではない。これほど大規模な『厭魅』を、彼一人で操れるとは、到底思えませんが」
その問いに、楊 子敬は、まるで待ちかねていたかのように、一冊の古い書物を開いた。
「ええ。私も、それがずっと疑問でした。ですが、今、繋がったのです」
彼が指し示したのは、帝国の古い氏族の来歴を記した、一節だった。
「『厭魅』の術は、元々、古代の西方の民が、敵地の地脈を断ち、軍を弱体化させるために用いた兵法の一種。そして、その術を帝国に持ち込み、最も発展させた一族こそが……西方の守護を任されていた、武門の趙氏。――趙大将軍の、ご先祖です」
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
宰相と太師という、政敵。
彼らへの憎悪。
却下された、非人道的な兵器開発計画。
後宮での、極秘の「演習」。
凛の術を観測するための、息のかかった部下。
そして、一族に伝わる、禁断の術。
全てのピースが、一つの醜悪な絵を完成させた。
「……まさか。全ての証拠が、あの男を指し示している、と……?」
楊 子敬が、絞り出すような声で言った。その声には、長年の復讐の標的を見つけたかもしれないという興奮と、帝国の重鎮が犯した罪の重さへの、深い戦慄が入り混じっていた。
「ええ。あまりにも、揃いすぎている」
沈は、静かに、しかし重い口調で頷いた。彼らの前には、あまりにも完璧な、一つの醜悪な可能性が広がっていた。
「ですが、これらは全て状況証拠。あれほどの男を裁くには、憶測だけでは足りません」
「ええ。ですが、我々が次に進むべき道は、定まった。我々は、趙大将軍が、この一連の事件の黒幕であるという『仮説』に基づき、決定的な物証を探し出す。それが、私の責務です」
二人の間に、新たな決意の炎が燃え上がる。彼らは、標的を追い詰めるべく、その証拠探しに奔走し始めた。
***
その頃。
冷宮の、光の差さない奥深く。
全ての術式が消し去られ、全ての道具が砕かれた、伽藍堂の研究室。その床の上に、凛は、ただ一人座っていた。
壁に背をもたせ、膝を抱え、その間に顔を埋めている。
扉の外からは、宰相がつけたという、物々しい監視の兵たちの気配がする。だが、そんなものは、どうでもよかった。
もう、何も聞こえない。
何も、感じない。
何も、考えたくない。
うつくしいものを、愛していた。
世界の調和を、信じていた。
その全てが、砕け散った。
私の世界は、もう、どこにもない。
物語は、最も深い絶望の底へと、静かに、静かに、沈んでいった。




