第32話:静かなる庇護者
翠明の魔女。
趙大将軍が放ったその言葉は、帝都の民衆の憎悪を一点に収束させる、恐ろしい呪いとなった。
「魔女を殺せ!」
「帝都を返せ!」
戒厳令下にも関わらず、後宮の門前には、日を追うごとに多くの民衆が集まり、怒号を響かせるようになっていた。そして、その怒りの矛先が、ついに後宮の高い塀を乗り越えようとした、その時だった。
「――宰相閣下のお成りである! 皆、道を開けよ!」
甲高い声と共に、群衆が割れる。その中心を、一人の男が、数人の護衛だけを連れて、静かに歩いてくる。帝国宰相、季 浩然。彼の姿を認めると、あれほど荒れ狂っていた民衆が、水を打ったように静まり返った。
彼は、後宮の門前に立つと、集まった民衆一人一人の顔を見渡すかのように、ゆっくりと、そして威厳に満ちた声で言った。
「皆の怒り、悲しみ、もっともなことだ。だが、法治国家であるこの帝国において、私刑は断じて許されぬ!」
その声には、不思議な力があった。人々の興奮を鎮め、冷静さを取り戻させる、絶対的な説得力。
「帝国の秩序を乱した罪は、帝国の法によって、厳正に裁かれねばならぬ! ――翠明の王女、凛を、終身禁固刑に処す! 今後一切、冷宮より一歩も外に出ることを許さない!」
終身禁固。それは、死罪に次ぐ、最も重い罰。その厳罰に、民衆は静かに頷き、一人、また一人と、その場を去っていった。
***
その日の夜。宰相府の執務室で、沈は季 浩然と、二人きりで向き合っていた。
「沈。息災であったか」
「はっ。閣下におかれましても……」
「礼はよい」
宰相は、沈の言葉を遮ると、昼間の威厳が嘘のように、疲れた顔で深く息をついた。
「すまなかったな。あのような形で、彼女を裁かねばならなかったことを、許してほしい」
その言葉は、彼の本心からのものだと、沈には分かった。
「民衆の怒りを鎮めるには、あれが最善だった。だが、これは罰ではない」
宰相は、沈の目をまっすぐに見据えた。その瞳には、一点の曇りもない、誠実な光が宿っている。
「真犯人が見つかるまで、私が彼女を、あらゆるものから守ろう。民衆の憎悪からも、宮中の政争からも……そして、彼女自身の絶望からもだ」
「……閣下」
「今日の朝議、お前も見ていたであろう」と、宰相は、苦々しげに続けた。
「民が苦しむ中で、あの者たちは、自らの保身と派閥争いに明け暮れていた。あれが、この帝国の病巣なのだ。私は、それと戦っている」
その瞳に宿る、深い憂いと、しかし消えぬ正義の炎。それを見て、沈は、自らがこの人に仕える理由を、改めて確信した。
「何かあってはいけないからな。冷宮には、私の直属の者を、監視としてつけさせてもらう。表向きは監視だが、その実、彼女を害そうとする者から守るための、親衛隊だ。お前も、分かってくれるな?」
その言葉に、沈は、心の底から安堵と、そして、この国にまだ正義は残っていたのだという、熱い感動を覚えていた。
「……ありがたき、幸せにございます」
沈は、深々と、頭を下げた。
***
冷宮に戻ると、その入り口には、見慣れぬ、しかし精悍な顔つきの衛兵たちが、微動だにせず立っていた。彼らが、宰相閣下の……。
研究室の扉は、固く閉ざされたままだった。沈は、扉の前に控えていた、部下の李虎に、静かに声をかけた。宰相閣下から、冷宮の警備全般は、自分に一任すると言われている。
「李虎」
「はっ」
「宰相閣下より、直々の命令が下った。これより、凛殿を、この冷宮にて厳重に監視せよ。何人たりとも、許可なく近づけるな」
それは、公式の命令。だが、彼の真意は、別のところにあった。
沈は、李虎の目を、じっと見つめた。彼は、自分が最も信頼する部下の一人だ。言葉にしなくとも、自分の瞳の奥にあるものを、読み取ってくれるはずだ。
「……頼んだぞ」
その一言に、李虎は、全てを理解したように、力強く、一度だけ頷いた。
沈は、閉ざされた扉を、もう一度だけ見つめた。
今は、これでいい。今は、ただ、彼女がこれ以上傷つかぬよう、静かに守る。そして、必ず、真犯人を突き止め、彼女の潔白を証明する。
固い決意を胸に、彼は、帝国の深い闇へと、再び向き直った。




