第31話:砕かれた硝子
研究室の扉を固く閉ざしてから、どれほどの時間が経っただろうか。窓の外が白み始め、またうつくしくない朝が来たことを知る。
扉の向こうからは、今も時折、燕燕や丁の、私を案じる声が聞こえてくる。だが、その声は、分厚い壁に隔てられているかのように、私の心には届かない。
私は、床に散らばった羊皮紙の山の中に、ただ一人座り込んでいた。それは、私がこれまで生み出してきた、うつくしい術式の数々。世界の真理を解き明かすための、私の魂の欠片。
だが、今は、その全てが、おびただしい数の民を死の淵へと追いやった、醜悪な殺戮兵器の設計図にしか見えなかった。
私の指が、一枚の羊皮紙に描かれた、完璧な対数螺旋の曲線をなぞる。うつくしい。あまりにも、うつくしい。
――『見事だ、凛。この世界の万物は、全て斯くも麗しき数式で成り立っておるのだ』
不意に、脳裏に、遠い日の記憶が蘇った。まだ私が、翠明の王女として、父の傍らで術を学んでいた頃の記憶。
***
『父上。なぜ、術式はうつくしくなければならないのですか?』
幼い私がそう問いかけると、父は、玉座ではなく、私と同じ目線にまで膝を折って、優しく微笑んだ。彼の大きな、温かい手が、私の頭を撫でる。
『良い問いだ、凛。術とは、力だ。だがな、力そのものに、善悪はない。術をうつくしいと感じる心、世界の調和を愛でる心こそが、その力を正しく導く、唯一の羅針盤なのだ』
父は、私の小さな手に、一本の細筆を握らせた。それは、彼が若い頃から愛用していたという、特別な魔石で作られた筆だった。
『この筆で、うつくしいものだけを描きなさい。この世の真理を解き明かし、乱れた調和を正し、人々を幸福にするための術を。お前のその類稀なる才は、そのためにこそ天から与えられたのだから。……お前は、私の誇りだ』
父は、人望の厚い、偉大な王だった。そして、方術の師でもあった。完璧主義者で、私に誰よりも厳しい修練を課したが、その瞳の奥には、常に、私への深い愛情と信頼が満ちていた。人質としてこの帝国に送られることが決まった日、彼は玉座で、声を殺して泣いていた。
***
「……ああ……あ……」
喉の奥から、意味のない声が漏れた。温かい記憶は、残酷な刃となって、今の私を切り刻む。
父の教え。父の愛。父の誇り。
その全てを、私は、裏切った。
私の術が、人々を苦しめた。私のうつくしさが、世界に醜い不調和をもたらした。
「(父上、私は間違っていました。うつくしさは、世界を救いはしない。私の追い求めた調和は、ただ、より醜い不協和音を生み出すための餌でしかなかった……!)」
「……こんなもの……こんなもの……!」
私は、床に散らばっていた羊皮紙を、一枚、また一枚と、狂ったように破り捨て始めた。うつくしいはずの数式が、私の手の中で、醜い紙屑へと変わっていく。
壁に描いた、巨大な解析術式。その完璧な幾何学模様を、私は、涙で滲む目で睨みつけた。そして、近くにあった墨壺を掴むと、力任せに壁へと叩きつけた。
パリン、と乾いた音を立てて砕けた墨壺から、黒い染みが飛沫となって飛び散り、私の魂の結晶であるうつくしい術式を、無残に汚していく。
私は、壁に爪を立て、描かれた線を、一本、また一本と、血が滲むのも構わずに、削り落としていった。
机の上に置かれた、精密な方石の数々。私の芸術を生み出すための、大切な道具たち。それを、私は、床に叩きつけ、何度も、何度も、踵で踏みつけた。ぱきり、と硝子が砕けるような、乾いた音が響く。私の魂が、砕ける音だった。
そして、最後に、私の目は、机の上にただ一本残された、あの細筆を捉えた。父から贈られた、私の術の原点。私の誇り。
これを、壊せば。これを、捨て去れば。私は、もう……。
私が、震える手でその筆を掴み、暖炉の炎へと投げ込もうとした、まさにその瞬間。
その腕が、背後から、力強く掴まれた。
「――やめなさい!」
耳元で、沈の、悲痛な声が響いた。いつの間に、彼が。
驚きと、怒りと、絶望で、私はめちゃくちゃに腕を振り、彼を振り払おうとする。
「離して……! 離してください! こんなもの、全て……!」
「やめるんだ、凛殿!」
彼は、私の抵抗をものともせず、もう片方の腕も掴むと、私を無理やり自分の方へと向かせた。その瞳が、燃えるような真剣さで、私を射抜いている。初めて、彼に、触れられた。
「あなたのせいではない! あなたの術は、人々を救おうとした! それを悪用した者がいる、ただそれだけのことだ!」
「違います!」
私は、子供のように叫んだ。
「私の術が、人々を苦しめた! 私のうつくしさが、この世界を……醜くした!」
糸が、切れた。
彼の腕の中で、私は、生まれて初めて、声を上げて泣いた。
扉の前では、燕燕と丁が、息をのんで立ち尽くしていた。
「……もう、やめます」
私は、彼の胸に顔を埋めたまま、虚ろな声で呟いた。
「もう、二度と、術は使いません。私のうつくしさは、この世界を……醜くするだけだから……」
「ああ、今はそれでいい。ですが、あなたの術は決して醜くなどない。もし、あなたに罪があるというのなら、その罪は私が背負いましょう。だから、あなた自身を否定することだけは、おやめなさい」
頬を伝う、熱い雫。それが、涙なのだと気づくのに、しばらくの時間が、かかった。




