第30話:翠明の魔女
第30話:翠明の魔女
朝議での趙大将軍の絶叫は、乾いた草原に放たれた一本の松明だった。恐慌に陥っていた帝都の民衆は、その分かりやすい「敵」の姿に、瞬く間に飛びついた。
噂は、帝都の隅々まで、病のように広がっていく。
「聞いたか? あの災厄は、やっぱり呪いだったらしい」
「ああ。犯人は、後宮にいるっていうじゃないか」
「翠明から来た、人質の姫だそうだ。あの女が、帝都を滅ぼすために、邪悪な術を使ったんだとよ!」
酒場でも、市場でも、人々は声を潜め、しかし確信に満ちた口調で、その名を口にした。凛。誰もその顔さえ見たことのない、冷宮の魔女。
後宮の池を浄化したという、かつての「奇跡」の噂も、今や彼女が犯人であることの、動かぬ証拠へと姿を変えていた。
「池を浄化したのも、自分の術の力を試すためだったんだ」
「あの女の術と、広場を襲った呪いの気配が、よく似ていたらしいぞ」
真実のかけらに、悪意と恐怖が塗り固められ、巨大な嘘が作り上げられていく。
***
その毒は、当然、後宮の高い塀をも乗り越えた。
いつもの涼亭に集まった姫君たちの間には、以前のような和やかな雰囲気はなく、重苦しい沈黙が漂っていた。
「まあ、恐ろしい……! やはり、あの女は魔女だったのですわ!」
沈黙を破ったのは、扇で口元を覆いながら、震える声で言った麗華だった。彼女の瞳は、恐怖に濡れている。
「馬鹿馬鹿しい! 誰がそんな戯言を信じるものか!」
その言葉を一笑に付したのは、暁蘭だった。彼女は、苛立たしげに卓を叩く。
「ですが、麗華様のおっしゃることも分かりますわ」と、月華が静かに口を開いた。
「帝都を襲った悲劇は、それほどまでに人々の心を蝕んでいる。何か、分かりやすい原因を求めてしまうのも、無理からぬこと」
「だが、だからといって、凛を犯人だと決めつけるのは筋が通らない!」暁蘭は、納得できないとばかりに反論する。
「思い出してみろ! あの茶会での一件を! あの女は、たった一鉢の牡丹のために、あれほど真剣に術を組んでくれたんだぞ! あんな奴が、数千もの民を害するような真似をするものか!」
「わたくしも、そう思います」と、白 靜が、小さな声で、しかしはっきりと付け加えた。
「あの時の凛様の瞳は、ただ、うつくしいものを愛で、不調和を正そうとしていただけ……。あそこに、悪意など一片もありませんでした」
「ええ。それに、皆様、お忘れですか?」月華は、一同を見渡しながら、冷静に続けた。
「この噂の火元は、一体誰でしたか? 朝議で凛様の名を叫んだのは、王 徳太師に追い詰められていた、趙大将軍その人ですわ。あまりに、都合が良すぎるとは思いませんこと?」
その言葉に、姫君たちははっと息をのんだ。そう、これは単なる噂話ではない。帝国の権力闘争そのものなのだ。
「……では、凛様は、嵌められたと……?」
華玲の問いに、月華は静かに頷いた。
「ええ。おそらくは。……私たちは、見て見ぬふりをしてはなりません。あの方の術がなければ、この後宮は、今も瘴気に蝕まれたままだったのですから」
彼女の言葉に、姫君たちの間に、新たな決意が生まれた。
***
その日、私の研究室の扉は、一日中、固く閉ざされていた。
扉の外から、聞き慣れた声が、何度も、何度も、悲痛に呼びかけてくる。
「姫さん! 聞いてるんだろ!? 開けておくれよ!」
燕燕の声だ。
「外の連中が言ってることなんて、全部でたらめさ! あたしが分かってる! あんたが、そんなことするはずないって、あたしが一番よく知ってるじゃないか!」
扉の向こう側で、何かがごとり、と音を立てる。
「……姫様」
今度は、丁の、いつもと変わらぬ、しかし、どこか感情を押し殺したような低い声がした。
「食事が、冷めます。せめて、これだけでも……」
「(燕燕の声がする。丁の声がする。心配してくれている。分かっている。だが、私のこの手は、あの醜い兵器を生み出す手伝いをしてしまった。この手で、どうして扉を開けられるというのですか……)」
私は自分の両手を見つめ、ただ震えることしかできなかった。
扉一枚を隔てた世界で、私を「魔女」と罵る声が、幻聴のように聞こえる。
だが、彼らは間違っている。
私は、魔女などではない。
私は、ただの、愚か者だ。
自らの術が、史上最悪の醜い道具へと作り変えられてしまったことに、打ちひしがれることしかできない、無力で、愚かな……。
私は、研究室の床に散らばった術式の残骸を、ただ虚ろな目で見つめていた。




