第27話:市井の悲鳴
茶会での一件以来、私の元には、姫君たちが入れ代わり立ち代わり訪れるようになっていた。彼女たちが持ち込むのは、侍女たちの些細な体調不良の相談や、後宮内のうつくしくない人間関係の愚痴。そして、私が淹れる、うつくしい法則に基づいて配合された薬草茶だった。
非論理的で、無駄の多い時間。だが、不思議と不快ではなかった。
「(……これもまた、一つの調和、なのでしょうか)」
そんな、これまで考えたこともなかったような思考が、私の頭をよぎるようにもなっていた。
その日も、私は新しい研究室で、華玲が持ってきてくれた珍しい茶葉の成分分析をしていた。穏やかな昼下がり。世界の調和は、保たれているように見えた。
――その、瞬間まで。
***
帝都の中心街にある大広場は、活気に満ち溢れていた。行き交う人々の賑やかな声、呼び込みの威勢のいい掛け声、香辛料の食欲をそそる香り。そこには、帝都の平和と繁栄を象徴する、うつくしい日常の光景が広がっていた。
広場の中央にある噴水の縁に座っていた母親が、ぐずる幼子に果物を手渡す。子供が笑い、母親も笑う。
その時だった。
キィン、という、誰もいないはずの空中で、金属を無理やり引き裂くような、甲高い不協和音が鳴り響いた。
広場にいた全ての人間が、何事かと一斉に空を見上げる。だが、空はどこまでも青く、雲一つない。
次の瞬間、噴水が、ごぽり、と一度だけ、不味そうな音を立てて泡立った。そして、その中心から、陽炎のような、黒い歪みが立ち上った。
それは、瞬く間に膨張した。黒い靄ではない。空間そのものが、醜く、黒く、淀んでいく。それは、後宮の井戸や池で感じたものとは比較にならない、圧倒的な密度の悪意。
最初に異変に気づいたのは、鳥だった。空を飛んでいた鳥たちが、まるで糸の切れた凧のように、次々と広場の石畳に叩きつけられていく。
そして、悪夢は、人間を襲った。
「きゃっ……!」
最初に悲鳴を上げたのは、噴水のそばにいた母親だった。だが、その悲鳴はすぐに途切れる。彼女は、我が子を抱きしめたまま、まるで眠るように、その場に崩れ落ちた。
それを皮切りに、悪夢の連鎖が始まった。
「う……ぁ……」
「助け……」
商人たちが、客たちが、衛兵たちが、次々と、声もなく倒れていく。まるで、目に見えない巨大な手に、生気そのものを根こそぎ抜き取られていくかのように。
数分後。あれほど活気に満ちていた大広場は、不気味な沈黙に支配されていた。そこには、折り重なるように倒れた、数千もの民の姿だけがあった。
やがて、遠くから聞こえてきた笛の音を合図に、武装した兵士たちが、広場へと雪崩れ込んできた。彼らは、その凄惨な光景に一瞬息をのむが、すぐに指揮官の怒号で我に返る。
「広場を封鎖しろ!」
「生存者を運び出せ!」
「医官を呼べ、一人でも多く掻き集めろ!」
兵士たちは、倒れた人々を一人、また一人と、必死の形相で担架に乗せ、広場の外へと運び出していく。その動きに、死者を弔うような静けさはない。まだ助かる命を、一刻も早くこの呪われた場所から救い出そうとする、焦燥と必死さだけがあった。
***
「――何だって!?」
殿中省の執務室で、沈は報告に訪れた部下の胸ぐらを、掴まんばかりの勢いで問い詰めていた。
「中心街の広場で、民が数千人規模で……意識不明だと……!?」
「は、はい! 医官の報告によれば、皆、脈も呼吸も極限まで弱まっており、このままでは……時間の問題かと……! すでに軍部が出動し、広場は完全に封鎖。帝都全域に、戒厳令が敷かれました!」
戒厳令。その言葉の重みに、沈は絶句した。
彼の脳裏に、あの黒水晶の塊――『核』がよぎる。まさか。あれと、同じものが。だが、規模が、あまりにも違いすぎる。
彼は、すぐさま執務室を飛び出した。向かう先は一つしかない。
***
研究室の扉が、壊れんばかりの勢いで叩かれた。私が扉を開けると、そこには、血の気の引いた、見たこともないほど追い詰められた表情の沈が立っていた。
「凛殿……! 大変なことに……!」
彼から語られた帝都の惨状に、私は言葉を失った。
数千、もの民が、一瞬で、昏睡状態に。
私の脳が、そのうつくしくない現実の処理を、拒絶する。
「……あり、えません……」
私がようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど、か細く震えていた。
「後宮の瘴気の濃度、そして術式の規模から計算して、これほどの被害をもたらすには、あの池の『生成炉』の、少なくとも百倍以上の出力が必要です。そんな術式、人間が構築できるはずが……!」
だが、現実に、それは起きたのだ。
束の間の平穏は、砕け散った。後宮という小さな盤面で繰り広げられていた私たちの戦いは、今、帝都そのものを巻き込む、未曾有の大災厄へと姿を変えた。
私は、自分の手が、カタカタと震えているのに、初めて気づいた。それは、恐怖ではない。
私の知らない術理。私の計算を、常識を、そして世界の調和を、遥かに超えた、醜悪な何か。
それに対する、術士としての、純粋な戦慄だった。




