第24話:観測者
池の浄化作戦から、数日が過ぎた。後宮は、まるで悪夢から覚めたかのように、穏やかな日常を取り戻していた。侍女たちの間に囁かれていた不吉な噂も消え、庭園からは、妃嬪たちの楽しげな笑い声が聞こえてくる。
だが、私の心は晴れなかった。
新しい研究室――あの古い演舞場の床に広げた、浄化術式の残骸。そのうつくしいはずの幾何学模様を眺めながら、私は何度も、あの夜の違和感を反芻していた。
「(……なぜ、あの時、あのような真似を?)」敵の『核』が自壊する寸前、ほんの一瞬だけ、私の術式の流れを逆流させようとした。それは攻撃ではない。まるで、私の術の構造を確かめるかのような、冷たい『観測』の視線。その事実が、私の背筋を凍らせた。
そんな思考に沈んでいた、ある日の午後。研究室の重い扉が、静かにノックされた。
「凛殿、よろしいですかな」
沈の声。だが、いつもと違う。彼の背後に、もう一つ、穏やかで、しかし有無を言わせぬ威厳を秘めた気配があった。
扉を開けると、そこに立っていたのは、沈と、そして、柔和な笑みを浮かべた、一人の壮年の男だった。豪華だが、決して華美ではない、品の良い絹の官服。その顔は、私も見知っている。
帝国宰相、季 浩然その人だった。
「これは、宰相閣下……。このような場所に、一体、何のご用でしょうか」
私は驚きを悟られぬよう、冷静さを装って礼を取った。
「いや、なに。此度の功労者に、一言、礼を言っておきたくてな。沈に無理を言って、案内させてしまった」
彼は、まるで近所の好々爺のように人好きのする笑みを浮かべ、研究室の中へと足を踏み入れた。その目は、興味深そうに床の術式図や、壁に立てかけられた文献の山を見渡している。
「素晴らしい。これが、後宮を救った術か。なんと、うつくしい……」
彼は、心からの感嘆といった様子で、私の術式を賞賛した。
「姫君。あなたのその類稀なる知性と、何より、危険を顧みず人々を救おうとしたその勇気に、帝国宰相として、深く感謝する。法や秩序だけでは救えぬものがある。そのような闇に対し、光を灯す行いは、何よりも尊い」
彼の瞳の奥に、強い正義感の光が宿るのが見えた。
「本来であれば、大々的にその功績を称えるべきところだが、事が事ゆえ、こうして密にお訪ねすることしかできず、申し訳ない」
「……お心遣い、痛み入ります。ですが、私は、世界のうつくしい調和が保たれれば、それで満足ですので」
私の答えに、宰相は、ますます感心したように深く頷いた。
「欲なきことよ。だが、その無欲さこそが、あなたの術を、これほどまでにうつくしく磨き上げたのかもしれぬな。これからも、沈と共に、この帝国の光を守ってほしい。期待している」
彼は、私の肩を労わるように軽く叩くと、満足げな笑みを浮かべて帰っていった。最高権力者とは思えぬ、あまりに気さくで、心優しく、そして正義感に溢れた振る舞いだった。
***
宰相が去り、研究室に二人きりになると、沈はそれまでの儀礼的な表情を消し、険しい顔で一枚の羊皮紙を取り出した。
「凛殿。奇妙な報告が上がってきました」
それは、作戦当夜の、庭園周辺の警備記録だった。
「こちらを。作戦を実行した、まさにその時間。夜警の交代の際に、僅かな空白が生じています」
彼が指し示した箇所には、確かに、数分間の記録の途絶があった。
「これは、一体?」
「分かりません。担当者からは、『通常通りの引き継ぎを行った』との報告しか……。誰かの単純な記録違いか、あるいは……」
彼は、それ以上、言葉を続けなかった。だが、言わんとすることは、痛いほど分かった。
「……その間に、何者かが侵入した可能性がある、と」
「ええ。ですが、物証は何もない。ただ、記録に不備があった。それだけの、事実です」
官吏として、完璧な警備体制を敷いたはずの彼にとって、この僅かな綻びは、許しがたい失態なのだろう。その顔には、悔しさが滲んでいた。
だが、私の心に広がったのは、別の感情だった。
記録の、空白。
作戦の夜。
池のほとりで、何者かが、私たちの全てを観測していた……?
あの時、感じた、不気味な感覚。私の術式を探ろうとした、あの冷たい知性の片鱗。あれは、私の気のせいなどではなかった。
「……そう、ですか」
私は、ただそれだけを呟いた。だが、その声が、自分でも驚くほど、冷たく震えていた。
確たる証拠は何もない。だが、私の感じていた不安は、今、確信へと変わろうとしていた。
敵は、まだ、すぐそこにいる。そして、私たちの全てを、見ていたのだ。
そして、この時、私たちはまだ知らなかった。後宮を覆っていた瘴気が、帝都そのものを飲み込もうとする、巨大な悪意の、ほんの序章に過ぎなかったことを。




