第23話:不完全な調和
深夜の後宮庭園は、凍てつくような緊張感に支配されていた。沈が揃えた数々の方石が、月明かりを浴びて鈍い光を放っている。私は、池を取り囲むように描き上げた、人生で最も複雑な浄化術式の最終調整を行っていた。
「……準備、完了です」
私の静かな宣言に、沈と楊 子敬が息をのんだ。
「凛殿、本当にこれを一人で?」
沈が、案じるような目で私を見る。この術式は、井戸の時の数倍の気を要求する。常人であれば、起動した瞬間に意識を失ってもおかしくない。
「あなたの身に何かあっては、元も子もありません。我々にできることは?」
「問題ありません。私の計算は、常に完璧ですから。あなた方は、万が一、この帳を破って何者かが侵入した場合に備えてください」
「ですが、姫君」と、今度は楊 子敬が口を挟んだ。
「古の文献によれば、これほどの大規模な術の行使は、術者にも相応の代償を強いるとあります。どうか、ご無理だけは……」
私は術式の中核に立ち、深く、深く呼吸を整える。池の底に眠る、醜悪な『生成炉』。その全ての術理は、昨夜の「万象解析」によって、すでに私の頭脳に描き出されている。これから行うのは、そのうつくしくない数式を、対になるうつくしい数式で、完全に相殺するだけの、純粋な計算作業だ。
「――万象浄化、起動」
私の呟きと共に、術式陣がまばゆい光の奔流となった。池を囲むように配置された方石が、甲高い共鳴音を奏で、術式に描かれた線が、一本一本、命を宿したかのように光を放つ。
光は池の水面に収束し、静かだった水面が、まるで沸騰したかのように激しく波立ち始めた。
「ぐっ……!」
池の底から、おそろしく強大な抵抗が伝わってくる。敵の術式が、私の浄化の気を、内側から押し返そうとしているのだ。だが、その抵抗のパターンすら、私の計算の範囲内。
「(……抵抗が、弱い? いいえ、これは……)」
私は、敵の術式の構造に、ある決定的な欠陥があることに気づいた。龍脈から力を引き出す効率が、あまりにも悪い。うつくしくない。だからこそ、私は勝てる。
私はさらに気の出力を上げた。術式の光が、青白い輝きから、太陽のような黄金色へと変わる。私の術式は、敵の術式とは比較にならないほどの高効率で、周囲の龍脈から清浄な力を吸い上げ、それを浄化の奔流へと変換していく。
それは暴力的な光ではなかった。帝都という巨大な楽器を、再び正しい音階に調律するかのような、静かで、荘厳な音色。瘴気が奏でていた醜い不協和音が、一つ、また一つと、うつくしい和音へと上書きされていくのが、肌で感じられた。
次の瞬間、池の中心から、巨大な光の柱が天に向かって突き上がった。その光の中に、黒い影――池の底に沈んでいた「核」が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
――その、時だった。
「核」の抵抗が、ふつりと止んだ。そして、あり得ないことが起きた。
「(術式の流れが乱れる……!)」まるで、私の指揮する協奏曲に、無理やり不協和音をねじ込もうとする、別の指揮者がいるかのようだった。私は歯を食いしばり、指先に力を込める。
「(私の術を、醜く歪めることは許さない……!)」
全身の血の気が引いた。これは、侮辱だ。私の完璧な芸術を、この醜い存在が、土足で踏み荒らしている。
「――させるものですか……!」
私は、残っていた全ての気を、一気に術式へと注ぎ込んだ。許容量を超えた光が、爆発的に膨れ上がる。
甲高い断末魔のような音と共に、「核」は瘴気の糸を霧散させ、今度こそ完全に粉々に砕け散り、光の中に吸収されて消滅した。
光の柱が収束し、後には、静寂だけが残された。池の水は、以前と変わらず、月影を静かに映している。
「……終わった、のか……?」
沈の呆然とした声が、静寂に響いた。
「ええ。ひとまずは」
私は、膝に手をつき、荒い呼吸を整えながら、静かになった水面を見つめていた。
***
翌朝、後宮はささやかな、しかし確かな奇跡の報せに沸き立った。
庭園の池の鯉たちが、息を吹き返したのだ。
ここ数週間、原因不明のまま元気をなくし、水面近くを力なく漂うだけだった鯉たちが、今朝はまるで生まれたてのように、生き生きと泳ぎ回っている。その鱗は朝日を浴びて輝き、池全体に生命力が満ち溢れていた。
「まあ、素晴らしい!」
「天の御業だわ!」
池のほとりに集まった妃嬪や侍女たちは、口々に喜びの声を上げた。その光景を、私は少し離れた場所から、静かに眺めていた。
「見事なものですな、凛殿」と、隣に立つ楊 子敬が感嘆の息を漏らす。
「一夜にして、これほどの呪詛を浄化するとは」
「……ささやかな達成感は、あります」
私は、素直にそう答えた。人々が喜び、うつくしい日常が戻ってきた。それは、決して不快なことではない。
だが、私の心の中には、達成感とは別の、冷たい棘のような感情が残っていた。
昨夜の、あの感覚。
浄化はできた。だが、最後の最後で、私は計算を放棄し、ただ、より強大な力で、無理やりねじ伏せたに過ぎない。そして何より、あの瘴気の糸の、不気味な感触。私の術理を、理解もなく探ろうとした、あの冷たい知性の片鱗。
「(……私が浄化することすら、計算に入っていた……?)」
それは、私の求める「完璧」な調和ではなかった。
私の知らない術理。私の計算を超える知性。それを持つ何者かが、この帝国の闇に潜んでいる。
その事実は、私のうつくしい世界に、新たな、そしてより深い影を落としていた。




