第22話:池の浄化作戦
数日後の夜、後宮庭園は、月さえも気圧されるかのような深い静寂に包まれていた。昼間の華やかさが嘘のように、人の気配は完全に消えている。
「……完璧ですね」
池のほとり、柳の木の陰で、私は沈の仕事ぶりに静かな感嘆の声を漏らした。
「念のため、念を入れました」と、闇に溶け込むような黒衣をまとった彼が、低い声で答える。
「表向きは『鯉の疫病調査のため、今夜は庭園への立ち入りを禁ずる』という通達を、私の名で各所に流してあります。警備の者たちも、信頼できる者だけを選び、通常より遥かに広い範囲を巡回させている。この池に近づく者は、誰もいません」
彼の言葉通り、遠くで松明の光が動いているのが見えるが、それは我々のいる場所を意図的に避けるように、計算された経路をたどっていた。
「では、こちらも始めるとしましょうか」
私たちの背後で、楊 子敬が地面に手早く羊皮紙を広げ、懐から取り出した携帯用の墨壺と筆で、円を描くように術式を描き始めた。彼の専門ではないのだろう、その筆致は私のものほど洗練されてはいないが、淀みなく、確かな知識に裏打ちされている。いくつかの要点に小さな魔石を配置すると、彼は中央に指を触れ、短く気を流し込んだ。
「気を遮断する、即席の『帳』です。完璧ではありませんが、これで術の発動を探知される危険は、いくらか減らせるでしょう」
術式が淡い光を放ち、私たちの周囲の空気が、まるで一枚の薄い水の膜で覆われたように、わずかに揺らいだ。
これで、準備は整った。私は水際まで進み出ると、懐から、あの白磁の板を取り出した。携帯用に改良した、「汚染源探査術式」。
板を水面にかざし、微量の気を流し込む。直後、術式に描かれた線が、これまで見たこともないほど激しく明滅し、濁った赤黒い光を放った。
「……酷い。井戸の時とは、比較になりません。間違いなく、ここが『生成炉』です」
「ですが、解析は可能なのですか?」
沈が、的確な問いを投げかける。
「以前、井戸の『核』は、あなたの術をもってしても解読不能だったはずですが」
彼の言葉に、私は静かに頷いた。
「ええ。あの時は、不可能でした。あれは『出口』、つまり術の結果だけがそこにあったからです。原因のない結果は、私の計算では読み解けません」
私の声に、熱がこもる。
「ですが、ここは違う。ここは『生成炉』。術の原因そのものです。どれほど醜く歪んでいようと、そこには必ず術理が存在する。そして、術理が存在する以上、それを打ち消す完璧な解も、必ず存在するのです」
「姫君、この部分はなぜこのような複雑な構造に?」
楊 子敬が、私が描き出した浄化術式の青写真を覗き込み、問いを発した。
「良い質問です。これは、ただ穢れを消すのではなく、乱れた気の流れを『調律』するためのもの。いわば、帝都という巨大な楽器の弦を、正しい音に合わせるようなものです」
私は懐から、新たな羊皮紙と魔石の墨を取り出すと、その場に膝をつき、あの時と同じ、巨大な解析術式――「万象解析」を描き始めた。
「楊殿、古の『厭魅』において、このような『生成炉』を無力化する際の定石は?」
「……記録によれば、二つ。一つは、術の心臓部を、より強大な力で物理的に叩き潰す。ですが、これは暴走の危険が最も高い」
彼は、私が描く術式図を覗き込みながら、記憶の糸をたぐるように言った。
「もう一つは、術式の流れに、対極の性質を持つ清浄な気を流し込み、循環を内側から破壊する、いわば『解毒』です。ですが、そのためには、敵の術の構造を、完全に理解している必要がある……」
「……結構です。ならば、選ぶべき道は一つ」
私は描き上げた術式陣の要所に、月華晶や玄影石といった、最高純度の方石を配置していく。そして、中心に指を置き、深く呼吸を整えた。
「――万象解析、起動」
私の呟きと共に、術式陣がまばゆい光を放った。光の幾何学模様が立体的に浮かび上がり、池の水面を覆っていく。
あの時とは、違う。術式は、拒絶されることなく、池の底の闇へと深く、深く潜っていく。私の意識もまた、術式と同期し、敵の術理の深淵を覗き込んだ。
「(……なるほど。こういうことでしたか。なんと、うつくしくない……)」
渦巻く瘴気の中心で、池の底の龍穴そのものを利用した、おそろしくも緻密な術式が、まるで生き物のように脈打っているのが見えた。
やがて、解析の光が収束し、私の脳内に、敵の術式の完全な設計図が描き出された。
私は目を開け、傍らの羊皮紙に、それを打ち消すための、完璧な対になる浄化術式の青写真を描き上げた。
「この術式ならば、可能です。ですが、起動には、井戸の時の数倍の気と、それを精密に制御するための、複数の方石が必要です」
私は、必要な方石の種類と数を、羊皮紙の隅に書き出した。
「沈、これを、夜が明けるまでに揃えられますか」
私の問いに、彼はリストを一瞥すると、迷いなく頷いた。
「……承知しました。必ず」
彼の瞳には、困難な要求に対する当惑ではなく、仲間からの信頼に応えようとする、強い意志の光が宿っていた。
私たちは、一旦、音もなくその場を撤収した。後に残されたのは、静寂を取り戻した、ただの庭園の池だけ。
だが、水面下では、帝国の闇が、今も静かに脈打っている。そして、私たちの戦いは、今、まさに始まろうとしていた。




