第18話:観星の儀と翡翠の姫
その日、冷宮の静寂を破ったのは、豪奢な装束をまとった宦官の一団だった。彼らが丁重に差し出したのは、美しい料紙に認められた、一通の書状。
招待状ではない。
帝からの「勅命」だった。
「――観星の儀に参加せよ、ですか」
私は、その書状を指先で弾いた。年に一度、帝自らが天を祀り、国の安寧と五穀豊穣を祈る、後宮における最も神聖な儀式。
「馬鹿げています。天体の運行と国家の安寧に、論理的な因果関係など存在しない。ただの壮大な茶番です」
私が書状を屑籠に捨てようとするのを、燕燕が慌てて止めた。
「ちょっと、姫さん! あんた、これが帝の命令だって分かってんのかい!?」
「分かっています。だからこそ、非合理的で不愉快なのです」
そこへ、報告を聞きつけたのであろう沈が、険しい顔でやって来た。
「……お断りすることは、お勧めできません」
彼は、勅命の文面に目を落としながら、静かに言った。
「表向きは『翠明王国との友好の証』とありますが、これは帝の政治的な一手でしょう。王 徳太師と趙大将軍の緊張が高まる今、どの派閥にも属さない『異物』であるあなたを公の場に引きずり出すことで、各々の反応を探る狙いがあるのかもしれません」
「……ですが、ご案じなさいますな。儀式の間、いかなる者もあなたに指一本触れさせはしない。この沈が、命に代えても」
その言葉は、官吏としてではなく、一人の男としての誓いのように響いた。
「……つまり、私は観測対象として、あの醜い感情の渦の中に飛び込めと?」
「ご無礼を承知で申し上げます。これは、断れば翠明王国との関係にまで影響が及びかねない、極めて政治的な命令です」
沈の言葉に、私は深く、うつくしくないため息をついた。
だが、すぐに思考を切り替える。
「……仕方ありません。ならば、この茶番も利用させてもらいましょう。趙大将軍、王 徳太師……帝国の権力者たちが、無防備に集う唯一の場所。彼らの『気』の流れを直接観測できる、またとない機会です」
私の言葉に、沈がわずかに安堵の表情を浮かべた。
***
「さあさあ姫さん、こっちへおいで! 今夜、この後宮であんたよりうつくしい女がいたら、あたしは逆立ちで宮殿を一周してやるよ!」
祭事の夜。燕燕は、まるで自分の作品を仕上げる芸術家のように、目を輝かせていた。侍女のいない私のために、彼女がどこからか見繕ってきた衣装や化粧道具が、部屋に並べられている。
「香りは、甘すぎるものは非合理的で好みません」
「分かってるって。あんたのために、とっておきを用意したんだからさ」
燕燕が差し出したのは、小さな瑠璃の小瓶。蓋を開けると、ふわりと冷たく、澄み切った香りが立ち上った。
雪の中に凛と咲く、冬桔梗の香り。そして、その奥に微かに香る、清らかな白檀。私の知性と、孤高の魂を見透かしたかのような、完璧な調合だった。
「……この香りの組成式は、うつくしいですね」
私が初めて見せた興味の光に、燕燕は得意げに笑う。
やがて、全ての支度が終わった。
鏡の前に立った自分の姿に、私はわずかに目を見開いた。
夜空のように深い藍色の絹の衣は、私の黒髪と翡翠色の瞳を、鮮やかに引き立てている。体の線に沿って流れるような意匠は、豊かな胸の輪郭を拾いながらも、決して下品ではない、洗練された気品を漂わせていた。
「どうだい? これが、あたしの本気さ」
燕燕は、満足げに腕を組んだ。
「どうです、このうつくしさ!」
燕燕が胸を張る。
私は藍色の衣を鬱陶しげに眺めていたが、ふと視線を感じて顔を上げた。
そこにいた沈が、普段の無表情を忘れ、ただ呆然と私を見つめていた。その視線に、私の心臓がまた、あのうつくしくない音を立てた。
***
祭事の舞台は、後宮で最も空に近い場所、観星台。
古くから神聖な場所の一つとされ、常に清浄な気が満ちているという、特別な場所だ。
沈のエスコートで、私が観星台に足を踏み入れた瞬間――それまで満ちていた喧騒が、まるで嘘のように、ぴたりと止んだ。
居並ぶ妃たちの扇子の動きが止まる。
談笑していた文官たちの言葉が途切れる。
警備にあたっていた屈強な武官たちさえ、息を飲む。
全ての視線が、ただ一人、私にだけ注がれていた。
「……あれが、翠明の」
「なんと……天女とは、あれを言うのか」
囁きが、波紋のように広がっていく。
私の隣で、沈が眉間に深く皺を寄せているのが分かった。若い官吏が、うわついた顔で私に近づこうとするのを、彼はことごとく、氷の視線で射殺している。
「(沈が苛ついている?)」
非合理的で、興味深い反応だ。ただ、なぜか悪い気はしなかった。
私の視線は、やがて祭壇の最も高い場所へと向けられた。帝が座るであろう玉座のすぐ脇に控える、二人の重鎮。帝国の武の頂点である趙大将軍と、文官の筆頭である王 徳太師だ。
「(……見た目は威厳に満ちている。だが、あの将軍の気の流れは、まるで堰き止められた濁流のように淀んでいる。隣の太師からは、生命力そのものが希薄だ。……なんと醜い不協和音。この国の中心は、これほどまでに腐敗しているというのですか)」
***
やがて、帝が現れ、儀式が始まった。
帝が天に向かって厳かに祝詞を捧げる。それに応えるように、観星台に集った数百の人々の意識が、一つの方向へと収束していく。
その時だった。
私の隣に立つ沈が、かすかに身じろぎしたのに気づいた。彼の視線が、一瞬だけ、自身の懐へと落ちる。
帝の祈りが最高潮に達した瞬間、沈が私の袖を、気づかれぬよう、ごくわずかに引いた。彼の顔には、隠しきれない困惑の色が浮かんでいる。
私は、彼の視線が訴える意味を即座に理解した。
私も、彼の懐――そこに納められているはずの、私が渡した護身用の魔装具に意識を向けた。
「(……あの魔装具が、反応している?)」
先日、彼の身を案じて渡した、あの小さな円盤。あれに組み込まれた術式は、周囲の気の流れを感知して反応し、それに異常があれば持ち主の気を整えるというもの。
このような神聖な場所なら、清浄な気に触れ、心地よい微熱を帯びるはず。だが、今のあれは違う。まるで小さな太陽のように、熱と光を放っている。瘴気とは明らかに異なる、純粋で、しかしあまりに膨大な力の奔流。何か、想定外の現象が起きている。
「(……まさか人々の『祈り』か。非論理的な感情の奔流が、これほどの気の揺らぎを生むとは。醜いが、興味深い)」
私の翡翠色の瞳が、他の誰にも見えない現象を捉え、微かに細められた。
このうつくしくない後宮で、私はまた一つ、新たな研究対象を見つけてしまったようだった。




