第17話:後宮の薬師
あの日、私の研究室の扉に刻まれた醜悪な呪印は、沈の指示で即座に浄化され、物理的にも綺麗に拭われた。だが、私の領域を汚されたという事実は、消えない染みのように心の隅に残っている。
そして、奇妙な変化が起きていた。
私の研究室は、いつの間にか薬草の匂いが満ちる場所へと変わり果てていた。精密な術式図が広げられていた机の上には、今や乳鉢と乳棒、そして乾燥させた薬草の束が雑然と置かれている。
全ては、あの春蘭という侍女に、不完全な丹薬を施した一件から始まった。
「姫さん、ちょっといいかい」
ひょっこりと扉から顔をのぞかせたのは、燕燕だった。その背後には、青白い顔をした若い侍女が隠れるようにして立っている。
「また、ですか」
「そう言わないでおくれよ。ちいっとばかし、ご身分のあるお方付きの子でね。ここんとこ、原因も分からずふらふらするんだって。もう、姫さんしか頼れる人がいないんだよ」
私は大きなため息をついた。春蘭の容態が、私の作った応急処置の丹薬で一時的に持ち直したという噂が、水面下で静かに、しかし確実に広がっていたのだ。医官に診せても「手の施しようがない」と取り合ってくれない侍女たちが、最後の望みを託して私の元を訪れるようになっていた。
「私は医者ではありません。これは完璧な治療ではなく、ただの対症療法です。分かっていますね?」
ぶっきらぼうに言い放つと、燕燕は肩をすくめてみせた。
「そりゃ分かってるけどさ。でも、姫さんしか頼れる人がいないんだから仕方ないじゃないか」
彼女は、少し声を潜めて続ける。
「それに、今回はちいっとばかし厄介でね。この子をここに連れてくるよう、けしかけたお偉方がいるのさ」
「物好きな妃でもいたのですか」
「妃じゃないけど、まあ、似たようなもんだね。――暁蘭様さ」
その名に、私はわずかに眉をひそめた。気が強いことで有名な姫君。
「あのお方、侍女長にすごい剣幕で言ったらしいよ。『原因不明の病だか呪いだか知らないが、あたしの侍女に何かあれば許さない。あらゆる手を尽くして治せ』ってね。それで、この子の番だったってわけさ」
燕燕は、やれやれ、と首を振ってみせた。
私は何も答えず、黙々と乳鉢と薬草の準備を始めた。だが、一人で何人分もの薬を準備するのは、非効率で、うつくしくない。私は手を止め、呆然とこちらを見ている燕燕に顎をしゃくった。
「見ていても仕方ありません。あなたも手伝いなさい」
「ええっ、あたしがかい? でも、薬なんていじったこともないんだけど……」
「難しいことはさせません。ただ、潰すだけです。それくらいはできるでしょう」
私の有無を言わせぬ口調に、燕燕は一瞬ためらったが、やがて観念したように息をついた。
「……分かったよ。やればいいんだろ、やれば。……で、どうするんだい?」
「この薬草と、これ。比率は三対一です。乳鉢で、色がこの見本と同じになるまで、ひたすら細かくすり潰しなさい。後の、気を練り込む工程は私がやります」
私は手早く見本となる粉を少量作り、彼女の前に置いた。燕燕は、じっとそれを見つめると、覚悟を決めたように乳棒を手に取った。
***
数日後。研究室に、燕燕が以前とは違う、晴れやかな顔で一人の侍女を連れてきた。先日、暁蘭の侍女だと紹介された娘だった。彼女の頬には、血の気が戻っている。
「凛様……!」
侍女は、私の前に進み出ると、その場で深々とひざまずいた。
「本当に、ありがとうございました……! あんなに重かった身体が、嘘のように軽くなって……!」
彼女は、嗚咽交じりにそう言うと、何度も何度も、床に額をこすりつけた。
彼女の目からは、大粒の涙がはらはらと零れ落ちていた。
「……顔を上げなさい。言ったはずです。それは根本的な治療ではないと。瘴気の根源を断たなければ、いずれまた同じことになる」
私は、その姿から、ふいと目を逸らした。
「(……理屈に合わない。感謝という非論理的な感情が、なぜ私の思考を乱す? この胸の熱は、何なのでしょう。どの数式を用いても証明できない。うつくしくない。だが……決して、不快ではない。……なんと厄介な感情なのでしょうか)」
私は、自分の感情の変化に戸惑いながら、机の上で燕燕がどこか楽しげにすり潰している、薬草の粉をただ黙って見つめていた。




