第16話:夜の警告
冷宮の朝は、静寂と共に訪れる。だが、その静寂は、私の研究室の中では意味をなさなかった。夜を徹して読み込んだ文献の束が、机の上に無秩序な山を築いている。私はその山から顔を上げ、凝り固まった首をゆっくりと回した。
思考の靄が、晴れつつあった。沈が持ち帰った文献――各地の怪異を記した報告書は、どれも迷信と断じられてはいたが、そこに共通する記述がいくつかあった。
『土地が痩せ、草木が枯れる』『源泉が涸れる』『家畜が次々と倒れる』……。
そして、それらの現象が起きる前には決まって、何らかの大規模な「土木工事」や「陣地の設営」が行われていたという記録。全てが、あの『厭魅』という術の様相と、そして趙大将軍が行ったという極秘の「演習」に、不気味なほど符合する。
「(……だが、術式が分からない)」
文献に残された呪詛の図案は、どれも粗雑で、再現性が低い。うつくしくない。こんな曖昧な術理で、後宮を覆うほどの大規模な現象を引き起こせるとは思えない。何か、決定的な要素が欠けている。まるで、複雑な数式の、最も重要な項がごっそりと抜け落ちているかのような、不快な感覚。
気分転換に冷たい空気でも吸おうと、私は研究室の扉へと向かった。
そして――扉を開けた瞬間、足を止めた。
鼻をつく、生臭い血の匂い。
扉に、一羽の黒い鳥の死骸が、太い釘で無残に打ち付けられていた。だらりと垂れ下がった首、虚ろに開かれた目。その腹は裂かれ、流れ出した血が、扉を禍々しく濡らしている。
それだけではなかった。鳥の死骸を中心に、その血に魔石の粉末を混ぜ込んだのであろう、鈍く、濁った光を放つ深紅の線で、呪印が描かれていた。それは術式と呼ぶのもおぞましい、ただ憎悪だけを叩きつけたような、醜悪な図形だった。
「…………」
私の顔から、表情が消えた。恐怖はない。驚きもない。ただ、絶対零度の怒りが、私の心の奥底から静かに、しかし激しく湧き上がってくる。
完璧であるべき、私の領域。うつくしい術理と、静寂だけで満たされるべき、私の世界。
それを、こんなにも醜く、不合理で、愚かしいやり方で汚した者がいる。
私は、ゆっくりと扉に近づくと、呪印を構成する線に指を触れようとした。
「――おやめください、凛殿」
背後からかけられた、鋭く、低い声。いつの間にか、沈がそこに立っていた。彼の傍らには、体格の良い武官――李虎が控えている。
沈は鳥の死骸と呪印を一瞥すると、その視線をすぐに私へと移した。彼の目には、隠しようのない険しい光と、私の身を案じる色が浮かんでいる。
「これは、一体……」
「……見てください、沈」
私は、呪印から目を離さずに言った。その声は、氷のように冷え切っていた。
「なんと、うつくしくないのでしょう。気の流れは乱雑で、構成には一貫性がない。ただ、対象への害意だけを肥大化させた、術と呼ぶのもおこがましい、ただの汚物です」
「術、なのですか、これは。どのような効力が?」
「効力、と呼べるほどの代物ではありません」
私は吐き捨てるように言った。
「この呪印は、周囲の気の流れを強制的に澱ませ、乱すだけのもの。術式の精密な制御を、根本から阻害するための、極めて原始的で、野蛮な術です。私の研究室の前でこれ見よがしに展開するとは……悪趣味な嫌がらせですね。私の術に対する、明確な当てつけです」
「ですが、これは明確な警告だ。我々の調査が、核心に近づいているという証拠でもある」
沈は、冷静に状況を分析する。だが私は、そんなことはどうでもいいとでも言うように、続けた。
「警告? いいえ、これは侮辱です。私の世界に対する、許しがたい冒涜です」
怒りの後、私は指でそっと呪印の術式をなぞった。
「(……なるほど。これは単なる脅しではない。私の術を正確に理解した上での、術を使った『対話』のつもりですか。なんと不愉快で、なんと……腹立たしい挑戦状でしょう)」
私はきつく拳を握りしめていた。その白い指先が、血の気を失っていく。これまで私が見せたことのない、激しい怒りの発露だった。
沈は、そんな私の姿を静かに見つめた後、傍らに控える部下へと向き直った。
「李虎」
「はっ」
李虎が一歩前に進み出る。沈の声は、周囲に響かぬよう、極限まで低く抑えられていた。
「冷宮の見回りを、密かに強化しろ。人員を倍に増やし、決して誰にも気づかれるな。不審な者を見かけた際は、決して声をかけず、即刻、私に報告を」
「……御意」
李虎は短く応えると、音もなく一礼し、闇に溶けるようにその場を去った。
沈は、再び私へと視線を戻す。
静寂が落ちる。彼の視線は、まだ怒りに燃える私の翡翠色の瞳を、まっすぐに捉えていた。
「凛殿。敵の狙いは、あなたを恐怖させ、調査から手を引かせることにあるのでしょう。どうか、ご自身の身の安全を第一に」
「私の心配は不要です」
私は、彼の言葉を遮った。
「それよりも、あなたです」
私は懐から、手のひらに収まるほど小さな、平たい円盤状の魔石を取り出した。表面には、私が彫り込んだ精密な術式が、光を反射してきらめいている。
それを、沈の前に突き出した。
「……これは?」
訝しげに尋ねる彼に、私はそっぽを向きながら答える。私の頬が、自分でも気づかぬうちに、わずかに熱を持っているのを感じたくなかった。
「勘違いしないでください。これは、あなたのためではありません。私のための、合理的な保険です」
「……保険?」
「ええ。あなたが無事でいることは、私の調査を円滑に進める上で必要不可欠な条件。あなたが倒れれば、私の研究計画に遅滞が生じる。それは、うつくしくない」
私は一息にそう言うと、魔石を彼の手に押し付けた。
「周囲の気の流れを感知して整え、瘴気の影響を和らげる術式を組み込んであります。気休め程度ですが、無いよりはましでしょう。あくまで、私の研究のための保険です」
沈は、手のひらの中の魔石を見つめた。まだ、私の手の温もりが、かすかに残っている。
彼の胸に、これまで感じたことのない、温かい感情がゆっくりと広がっていく。
研究のための合理的な保険。私はそう言った。だが、その言葉の裏にある、不器用で、しかし真っ直ぐな気遣いを、彼が読み取れないはずがなかった。
「……かたじけない」
絞り出すような彼の感謝の言葉に、私は首を振る。
「礼を言われる筋合いはありません。これは……保険ですから」
沈は、その魔石を懐にしまうと、深く、一度だけ頷いた。
「……どうか、ご無理はなさらずに」
その言葉を残し、彼は静かに去っていった。
一人残された私は、改めて扉の前に広がる醜悪な光景を睨みつけた。
「(……保険。そうです、これは保険です。あの男という駒が失われれば、私の計画に遅滞が生じる。ただ、それだけのこと。……それだけ、のはずなのに。なぜ、私の心臓は、これほどまでにうつくしくない不協和音を奏でるのでしょう)」




