第15話:軍靴の響き
凛が書庫の文献と格闘している間、沈は宰相から与えられた全権を以て、行動を開始していた。宰相の印が押された許可証を懐に、彼がまず向かったのは宮廷の最奥、内閣府と軍部の合同記録保管所だった。通常は彼の権限でも閲覧が制限される、帝国の機密が眠る場所だ。
重々しい鉄扉の前で、白髪の老宦官が二人、石像のように微動だにせず立っていた。沈の姿を認めると、その目が鋭く細められる。
「何用かな、殿中監殿。ここから先は、そなたの管轄ではないはずだが」
「宰相閣下より、特命を拝しております」
沈が懐から許可証を取り出し、宰相の印を見せると、老宦官の顔に初めて驚愕の色が浮かんだ。彼らは無言で道を空け、軋む音とともに、帝国の闇が眠る書庫への扉が開かれた。
中は、ひんやりとした空気と、古い紙と墨の匂いで満ちていた。沈は案内役の若い官吏に目的の期間を告げ、後宮内での工事や立ち入り禁止に関する全ての記録を要求する。
「……これだけ、ですかな?」
運ばれてきた記録の束は、想像していたよりも遥かに少なかった。沈は眉をひそめながら、一枚一枚に目を通していく。ほとんどは、壁の補修や庭の手入れといった、日常的なものばかりだ。
「おかしい。何かが、意図的に隠されている……?」
諦めかけた、その時。ある通達書の隅に押された、ごく小さな印が目に留まった。『軍部管轄』。そして、その下に、さらに小さな文字で『参照:内閣府・丙号・七十二番書庫』と記されている。
「……こちらへ」
沈は、埃をかぶった丙号書庫の奥へと官吏を導いた。鍵を開けさせ、薄暗い棚の奥から引きずり出した木箱の中、彼はついに一つの文書を発見する。それは、通常ではあり得ない形式を取っていた。
起案者は、軍部。承認印の欄には、宰相府の簡素な認印が隅に押されているだけで、決裁ルートを示すべき他の部署――殿中省や工部の印はどこにもなかった。まるで、軍部が独断で事を進め、宰相府には事後報告に近い形で形式的な承認だけを取り付けたかのような体裁だった。
『宮中防衛のための、特別演習』。
その名目で、後宮内、まさしくあの古井戸がある一帯での、大規模な「作業」が記録されていた。そして、記録の末尾に記された最高指揮官の名。
――趙大将軍。
書庫で耳にした、文官の長たる王 徳太師と対立する帝国の猛将。極秘裏に進められた軍事行動と、呪われた井戸。点と点が繋がり、おそろしく禍々しい輪郭を描き始める。
***
再び訪れた特別書庫は、相変わらず埃と静寂に満ちていた。書架の陰で、楊 子敬は鼻歌交じりに書物の整理をしている。
「楊殿、ご助言いただきたい儀が」
沈が声をかけると、楊 子敬は埃まみれの手を官服で拭いながら、興味深そうに振り返った。
「ほう。何か進展が?」
「ええ。あなたが口にされた『厭魅』、その手がかりとなりそうな事実が一つ」
沈は、極秘の軍事演習と、その指揮官が趙大将軍であったこと、そしてその承認形式が極めて異常であったことを、淡々と、しかし一言一句違えぬよう正確に伝えた。
全てを聞き終えた楊 子敬の表情から、飄々とした態度が消えた。
「……軍部、ですか。それも宰相府の正規の決裁を経ずして……これは、単なる呪詛の話では収まりませんな」
「と、申されますと?」
「『厭魅』は、広大な土地の気の流れを歪める大掛かりな術。個人の力でどうこうできるものではありません。もし実行者がいるとすれば、それは土地の測量や掘削を、誰にも怪しまれずに行えるだけの権限と組織力を持つ者……沈殿、あなたのその情報で、初めて可能性が絞り込めたのです。軍部、という可能性が」
彼の声には、知的な興奮の色が滲んでいた。
「沈殿」
楊 子敬は、初めて真剣な眼差しで沈を見据えた。
「これは、私の個人的な興味です。実に、知的好奇心をそそられる。もし、ご迷惑でなければ、この件、私も本格的に調査に協力させていただきたい」
それは、変わり者の官吏が口にするには、あまりに重い申し出だった。だが、彼の目には、ただの興味だけではない、何か別の、硬質な光が宿っているように見えた。
「……心強い限りです、楊殿」
沈は、深々と頭を下げた。
こうして、法と秩序を重んじる堅物の官吏と、知識の深淵を覗くことに喜びを見出す変わり者の学者は、帝国の闇に立ち向かうための、奇妙で、しかし確固たる協力関係を結んだのだった。




