第14話:書庫の変わり者と二つの影
医務室の重い扉を閉め、沈は一度だけ天を仰いだ。彼の背後では、凛が己の術の限界と向き合い、帳簿の解読に没頭しているはずだ。彼女が内側からの解析を進めるのなら、自分は外側から、この事件の輪郭を捉えねばならない。覚悟を決め、彼は夜の闇の中を、宰相府へと向かった。
宰相、季 浩然の執務室の灯りは、まだ煌々とともっていた。
通された室内で、沈は、帝国で最も多忙な男が、言葉通り、山と積まれた羊皮紙の束に忙殺されているのを目の当たりにした。
宰相が目を通す書類のいくつかが、彼の目に留まる。
『西方辺境における小麦の不作と価格高騰に関する緊急報告』
『南部沿岸の塩害による作柄不良と民の動揺について』
近年、帝国全土で様々な問題が頻発している。その重圧が、彼の眉間に深い皺を刻ませているのだろう。
報告を受けた宰相は、ようやく顔を上げ、その深い瞳で沈を真っ直ぐに見据えた。
「……後宮内で、原因不明の衰弱病。そして、あの凛殿の術をもってしても、即座には解明できぬと」
「は。応急処置は施しましたが、予断を許しません。一刻も早く、根源を断つ必要があります」
季 浩然は、静かに頷いた。
「承知した。沈、そなたに全権を委ねる。宮内のいかなる場所への立ち入りも許可しよう。兵も、物資も、必要なものは全て私の名で動かすがよい」
「ははっ。……つきましては、一つ、お願いが」
「申してみよ」
「宮廷の特別書庫への立ち入り許可をいただきたく」
その言葉に、季 浩然はわずかに目を見開いた。そこが、帝国の最も深淵な知識――時には、禁忌とされる術の記録さえもが眠る場所だと知ればこその反応だった。
「……よかろう。許可する。だが、くれぐれも深入りはするな」
***
翌日、沈は、埃と古い紙の匂いが支配する静寂の空間に立っていた。特別書庫。うず高く積まれた書架の迷路は、帝国の歴史そのものだ。
「……おや? あなた様のような方が、このような場所に何の御用で?」
不意に、書架の陰からひょっこりと顔を出したのは、年の頃は四十代半ばだろうか、無精髭を生やし、官服を着崩した一人の男だった。書庫の主、楊 子敬である。
「近頃、宮中で奇妙な現象が起きておりまして。植物が広範囲に渡って枯死し、呪詛の可能性を調べているのです」
当たり障りのない説明をすると、楊 子敬の眠たげだった目が、急にきらりと光った。
「ほう、植物の枯死。それも広範囲に、ですか。それは……実に興味深い」
彼は沈の周りをぐるぐると歩き回り、何かを値踏みするように見つめてくる。
「その現象、古の『厭魅』の術に酷似しておりますな。ええ、土地そのものの生気を吸い上げ、呪詛の触媒とする外道の術です」
古文書にのみ記される禁術厭魅ーー彼は、こともなげに恐ろしい術の名を口にした。この男、ただの変わり者ではない。
「関連資料はこのあたりですが……いかんせん、古すぎて。どれも虫食いだらけでしてな」
楊 子敬が書庫の奥へと消えた後、沈の耳に、書庫の入り口近くで作業をしていた他の官吏たちのひそひそ話が届いた。
「また王 徳太師様が、趙大将軍の軍拡案を痛烈に批判しておられたそうだ。『国庫を私物化する気か』とな」
「大将軍も、黙ってはおられまい。近いうちに、また大きな波風が立つぞ」
太師と、大将軍。『文官の筆頭』と、『武官の頂点』。宮廷内に存在する、二つの巨大な対立の影。沈は、その存在を初めて肌で感じていた。
「お待たせいたしました」
戻ってきた楊 子敬が、数冊のぼろぼろになった文献を机に置く。「過去の地方誌に記されていた、類似の怪異に関する報告書の写しです。ほとんどが迷信の類として片付けられていますがね」
その拍子に、一冊の古い記録の間に挟まっていた羊皮紙が、はらりと床に落ちた。
「おっと。……これは、何かの図面ですな。私の専門外ですが」
楊 子敬が首を傾げながら拾い上げたそれを見て、沈も息を飲んだ。それは、およそ術式図には見えなかった。都市そのものを描いたかのような、恐ろしく精密で、壮麗な幾何学設計図。
「……奇妙ですな。先ほど申し上げた『厭魅』が、土地の理を歪めて生気を奪う術だとすれば、この図面は、まるでその逆。歪んだ理を正し、整えるためのもののように見える。私の専門外ではありますが、あるいは、何かの手がかりになるやもしれません。こちらも、どうぞお持ちください」
***
冷宮に戻り、資料を凛の前に広げると、彼女は帳簿の山から顔を上げた。
「これが、厭魅に関する文献……」
彼女はまず、楊 子敬が選び出した文献を手に取り、素早くページをめくっていく。その目は、真剣そのものだ。
「情報が古すぎますね。昔は祟りの一種として、祭壇に祈りを捧げて鎮めたという記述もあります。非論理的です。術式としての再現性も低い。ですが……ここに記された土地の汚染の進行の様相は、今回の件と確かに類似点が多い。参考にはなります」
一通り目を通した後、彼女はふと、机の隅に置かれた羊皮紙に目を留めた。
「……これは?」
「文献の間に。何かの図面のようです」
凛は、その図面を手に取ると、しばし無言で見入っていた。
「……術の図案ではありません。ですが……この幾何学的な調和は、合理的で、うつくしい」
ぽつりと漏れた呟き。彼女は、その図面を丁重に畳むと、帳簿の山の上にそっと置いた。
「ですが、今はそれよりもこちらです。これらの報告書から、過去の事例との共通点を洗い出しましょう」
彼女の意識は、すぐに目の前の文献へと戻っていった。




