第13話:不完全な救済
月明かりの下、古井戸の縁に立ち尽くす私たちの間に、重い沈黙が落ちていた。再生した「核」が放つ、うつくしくない光。それは、私の知性と、これまでの常識を嘲笑っているかのようだった。
「……行きましょう、凛殿」
先に沈黙を破ったのは、沈だった。彼の声は、夜の冷気を含んでなお、揺るぎない。
「ここにいても、答えは出ないでしょう。まずは、被害者の状態をこの目で確認するべきです」
「……ええ。そう、ですね」
彼の言う通りだ。今は、目の前の理解不能な現象に心を囚われている場合ではない。すでに、人の命が失われかけているのだから。
私たちは、即席で核に封印術を施し、後宮の片隅に設けられた医務室へと向かった。道中、すれ違う夜警の宦官たちが、怯えたように私たちから視線を逸らす。噂は、もう後宮の隅々にまで広がっているのだろう。
医務室には、薬草を煎じる独特の匂いが立ち込めていた。侍女――春蘭は、一番奥の寝台に静かに横たわっていた。診察にあたっていた老医官が、沈の姿を認め、深々と頭を下げる。
「沈様……。手の施しようがございません。脈も呼吸も、か細くなる一方で……」
悔しそうに顔を歪める医官に、沈は静かに頷き、私に道を開けた。私は、寝台のそばへと歩み寄る。
燕燕の話では、まだ年若い娘のはずだった。だが、そこにいたのは、まるで老婆のように生気を失った、色のない抜け殻だった。浅く、かろうじて上下する胸元だけが、彼女がまだ生きていることを示している。
「……少し、診させてもらいます」
私は懐から、手のひらほどの白磁の板を取り出した。その表面には、魔石の粉末を混ぜた特殊な墨で、極めて精密な探査術式――「汚染源探査術式」を携帯用に改良したものが描かれている。
私はその板を春蘭の身体にかざし、術式の中核にそっと指を触れ、微量の気を流し込んだ。術式に描かれた線が、うつくしい青白い光を放ち始める。
直後、その光が激しく乱れた。まるで嵐の中の炎のように、明滅を繰り返し、不快な濁った赤紫色へと変色する。
「……これは……」
濃い。濃すぎる。あの古井戸で感じたものとは比較にならないほど、濃密な瘴気が、彼女の全身を蝕んでいた。内側から、生命そのものを喰い荒らすように。
「(なるほど。植物とは反応速度が違う。気の消耗率も桁違いだ。これは、貴重な情報です……ただ……)」
そう思考した直後、脳裏に父の声が響いた。
『民を慈しめ』と。
「(……思考の邪魔です。今は分析に集中を)」
「何か、分かりましたか」
「ええ……。彼女の体内は、濃い瘴気に満たされています。ですが、特定の臓器に留まってはいない。全身に、霧のように……」
これでは、外科的な術式で穢れを摘出することは不可能だ。解毒の丹薬を練るにしても、配合を特定するための時間が足りない。どうする。どうすれば、この目の前で消えかけている命を、私の「うつくしい」術で救える?
思考が、焦りだけを空回りさせる。その間にも、春蘭の呼吸は、ますます浅くなっていく。
「(……間に合わない)」
完璧な答えを導き出す前に、彼女が死ぬ。
その事実に、全身の血の気が引いた。術式とは、世界の理を解き明かし、再構成するうつくしい芸術のはずだ。それなのに、今、私の術は、一つの命を前にして、あまりにも無力だった。
「医官」
私は、絞り出すような声で言った。
「気を補う効能のある薬草を。それから、乳鉢と乳棒を貸していただけますか」
「は、はあ……しかし、そのようなものでは……」
「応急処置です。時間を稼ぐしかありません」
私の有無を言わせぬ気迫に、医官は弾かれたように薬棚へと向かった。受け取った数種類の薬草と、予備の魔石の小片を乳鉢に入れると、私はそこに己の気を練り込みながら、一心不乱にすり潰していく。
「……不純物だらけの、応急処置です」
私は、隣で固唾を飲んで見守っていた沈に、吐き捨てるように言った。
「私の美学が、こんな醜い妥協を許すなどありえない。ですが、目の前で消えゆく命がある以上、今回だけは、この醜さを受け入れましょう」
やがて、指先ほどの大きさの、いびつな丸薬が一つ出来上がった。
「これを……。すぐに飲ませてください。根本的な治療にはなりませんが、少しだけ、生気を繋ぎ止められるはずです」
医官が、半信半疑といった面持ちで丸薬を受け取り、水で溶いて春蘭の口元へと運ぶ。すると、ほんのわずかだが、死人のようだった彼女の頬に、かすかな血の気が差した。呼吸も、心なしか深くなったように見える。
「おお……!」
医官が、驚きの声を上げた。
根源さえ断てば、この命はまだ救えるはずだ。だが、私の心は、それでも鉛のように重かった。
一時しのぎだ。不完全な救済だ。彼女を蝕む本当の苦しみを取り除いたわけではない。ただ、死を先延ばしにしただけ。
これが、今の私の術の限界。
「原因究明のためにも被害者の詳細な情報が必要です。侍女の勤務記録や食事の帳簿を取り寄せましょう」
私は冷静を装い、指示を出した。しかし、人の命を前にして、完璧な答えを出せない現実。私は、自らの無力さに、ただ静かに打ちひしがれていた。




