第12話:最初の犠牲者
私の完璧な世界が、音を立てて崩れ落ちた。研究室の床に両手をついたまま、私は呆然と目の前の「核」を見つめていた。解析不能。理解不能。それは、私の知性が初めて遭遇した、絶対的な壁だった。
「……顔を上げるのです、凛殿」
不意に、沈の静かな声が響いた。彼の言葉は、混乱の渦の中心にいる私を、無理やり引き上げるような力を持っていた。
「あなたの術が破れたわけではありません。あなたの物差しでは測れない、規格外の代物だったというだけのこと。ならば、新しい物差しを探すまでです」
その声には、不思議な説得力があった。敗北感に打ちひしがれていた私の心に、かすかな光が差し込む。そうだ、これは終わりではない。未知の始まりなのだ。私が、まだ知らない世界の理が、この醜い塊の向こうにある。
私が顔を上げ、何かを言い返そうとした、その時だった。
「――姫さん! 大変だよっ!!」
すさまじい勢いで研究室の扉が開き、燕燕が息を切らしながら転がり込んできた。その表情は血の気が引き、普段の陽気さは見る影もない。
「落ち着きなさい、燕燕。何があったのですか」
私が冷静さを取り繕って言うと、彼女はかぶりを振った。
「落ち着いてなんかいられないよ! 人が……侍女が、倒れたんだ!」
燕燕は、乱れた呼吸を整えようと必死に胸を押さえながら、堰を切ったように話し始めた。
「翡翠宮の春蘭って子がさ……さっき、務めの最中に、突然……ぷっつり糸が切れたみたいに倒れて……」
「病ですか?」
「それが、違うんだよ! 医者の先生も首をひねるばかりでさ……ただ、どんどん弱っていくって……まるで、生気を根こそぎ吸い取られてるみたいだって、みんなが……!」
生気を、吸い取られている。その言葉が、私の鼓膜を鋭く打った。
「それで、後宮は騒ぎに?」
「ああ! 『後宮の祟りだ』とか、『冷宮に潜む物の怪の仕業だ』とか、みんな好き勝手言ってるよ!」
「その侍女の他に、何か変わったことはありませんでしたか? 他の者たちの様子は?」
状況を正確に把握するため、私はさらに問いを重ねた。私の真剣な眼差しに、燕燕はこくりと頷く。
「ああ。下っ端の侍女たちが怯えてるのはもちろんだけど、妃嬪の方々も大騒ぎさ……。麗華様は真っ青な顔で震えてた。暁蘭様は『くだらない』って吐き捨ててたけど、袖を握る指が真っ白になってたから、内心穏やかじゃなかったはずだよ。白 靜様だけが、冷静に『何かできることはないかしら』って……」
言葉を失う私を、沈が厳しい目で見つめていた。彼もまた、事の重大さを正確に理解したのだろう。
「……おかしい」
私は、絞り出すように呟いた。
「おかしいです。あの『核』は、すでに井戸から取り除いた。瘴気の発生源は、もうないはず。夕暮れに回収してから、すでに数刻は経っているというのに……なぜ今になって被害者が……?」
疑問が、新たな恐怖を呼び覚ます。私と沈は、無言で視線を交わした。考えることは同じだった。
「……井戸を、もう一度確認します」
「無論です。私も参りましょう」
彼の力強い返答に、私は小さく頷いた。私たちは研究室を飛び出し、夜の闇に包まれた後宮を、あの忌ましい古井戸へと急いだ。
***
月明かりだけが頼りの暗がりの中、井戸の周辺だけが、まるで光も音も飲み込むかのように、一層深く、冷たく沈んでいる。腐った葉と、湿った土の匂いに混じって、微かに、あの金属のような異臭が漂っていた。
沈が松明に火を灯し、その揺れる炎が私たちの顔と、井戸の不気味な口を照らし出した。私たちは、息を飲んでその中を覗き込む。
井戸の底。
数時間前、私たちが「核」を回収した、その場所。
そこに、あったのだ。
以前のものより、一回りは小さい。だが、形も、放つ禍々しい気配も、紛れもなく同じもの。黒水晶のような塊が、まるで自ら増殖したかのように、再びそこに出現していた。
「……復元、している……?」
私の口から漏れたのは、呆然とした呟きだった。
あの「核」は、発生源などではなかった。あれ自体が、この現象の「結果」に過ぎなかったのだとしたら?
本当の根源は、もっと別の場所に。今もなお、この後宮のどこかで、生命を蝕む瘴気を吐き出し続けている。
事態は、私が想像していたよりも、遥かに深刻で、根深い。
私は、再生した「核」が放つうつくしくない光を睨みつけながら、自らの認識の甘さを噛み締めた。本当の戦いは、今、始まったばかりなのだと、悟った。




