第10話:井戸の底の不純物
井戸の底に広がる、底知れない闇。そこから漏れ出す、鼓膜を直接引っ掻くような不協和音に、私は思わず身構えた。
「凛殿、下がってください」
沈が私を庇うように前に立ち、腰の剣の柄に手をかける。その背中は、いかなる脅威からも私を守ろうとする、堅固な壁のようだった。だが、相手は剣で断ち切れるような存在ではない。
「無意味です。これは、物理的な脅威ではありません。あなたの剣では斬れませんよ」
「ですが、万が一ということがある。何が飛び出してくるか分からない」
「何も飛び出してはきません。これは、もっと静かで、陰湿な類の悪意です」
私は彼を制し、井戸に一歩近づいた。
「この闇の正体を、白日の下に引きずり出します。そうでなければ、何も始まらない」
沈は私の覚悟を察したのか、黙って頷くと、剣から手を離し、周囲の警戒を始めた。
「……人払いをしておきます。時間は稼ぎますが、あまり長くは無理です。日没までには、ここを立ち去らねば怪しまれる」
「十分です。うつくしい術式は、常に迅速なものですから」
彼の言葉を背に、私は方術の準備に取り掛かった。腰の道具入れから、数個の魔石と、水の属性を増幅させるための青い方石を取り出す。
井戸の縁、三方の等しい距離に、即席の術式陣を描いていく。目的は、井戸の底にある「何か」を、水と共に地上へ押し上げること。無理やり引き上げるような、うつくしくないやり方ではない。水の流れそのものを制御し、異物を洗い流す。それが、私のやり方だ。
「――清き流れよ、我が声に応え、深淵の淀みを天に示せ」
私が気を注ぎ込むと、術式陣が眩い青白い光を放った。井戸の底の水が、ごぽり、と不気味な泡を立てる。
次の瞬間、水は意思を持ったかのように渦を巻き始め、巨大な水柱となって井戸の中から噴き上がった。それは、天に昇る龍のような、荒々しくも、うつくしい光景だった。
水しぶきと共に、何かが地上に叩きつけられる。ごとり、と重い音を立てて転がったのは、泥にまみれた、黒水晶のような塊だった。大きさは、人の頭ほど。だが、ただの石ではない。表面には、まるで生き物の血管のように、禍々しい紋様が絶えず蠢き、明滅している。
自然界には、決して存在しない。人の悪意が、気の法則を捻じ曲げて作り出した、歪な構造物。
「これが、瘴気の源……」
私は、その呪物から放たれる、凝縮された悪意の気に、軽い吐き気を覚えた。完璧な世界の調和を破壊するためだけに存在する、醜い不純物。
「酷いな……。これほどの呪物、文献の中でしか見たことがない」
駆け寄ってきた沈も、その物体を前に顔を歪めている。
「これを、どうするのですか。破壊するべきでは?」
「いいえ。これは、敵の術理を知るための、唯一の手がかりです。破壊など、もってのほか。ですが……」
私は、その呪物から僅かに漏れ出す瘴気に目を細めた。
「これを冷宮に持ち帰るわけにはいきません。危険すぎます。解析するには、完全に隔離された、広い場所が必要です」
私の言葉に、沈は一度だけ頷くと、落ち着いた声で言った。
「それならば、手配は済んでいます。あなたが先日要求された、新しい研究室。覚えておいでですか?」
私は目を見開いた。
「後宮の北の端にある、古い演舞場です。今はもう使われておらず、訪れる者もいない。あなたの条件を、全て満たしているはずです」
「(私の要求を、先読みしていた? この男は、どこまで私の思考を計算しているのだ……?)」初めて感じる、私の計算の外側から来る感覚。それは、不愉快なはずなのに、なぜか心臓の鼓動を速めていた。
私は震える手で、懐から結界術式を書き込んだ札を取り出し、気を注ぎ込む。札は淡い光の膜となり、「核」と呼ぶべきこの呪物を覆い、その禍々しい気を一時的に封じ込めた。
「……運びます。手を貸してください」
「無論です」
沈は大きな布を取り出し、私が結界で封じた核を慎重に包み込む。二人でそれを運びながら、私たちは無言で、古い演舞場――私たちの新しい研究室への道を急いだ。
夜の闇に紛れて、私たちは帝国の最も深い病巣を、誰にも知られず持ち帰ったのだ。
演舞場に行くと、私はすぐにその中央に、以前よりも遥かに強力な多重結界術を展開し、その中に核を安置した。漏れ出す瘴気は、これで完全に遮断できるはずだ。
灯りの下で改めて見る核は、より一層、そのおぞましさを増していた。
これから、この醜い悪意の塊を、分析しなければならない。
それは、この帝国の闇の深さを、自らの手で解剖する作業に他ならなかった。




