第9話:小さな一歩と大きな闇
宰相・季 浩然という、この上なく強力な後ろ盾を得て、私と沈の調査は、新たな局面を迎えていた。翌日、私たちは早速、特別な許可証を手に、宮廷の奥深くにある古書庫へと向かった。
そこは、紙とインクの匂いが支配する、静寂の世界だった。太陽の光さえ届かぬ薄暗がりの中、天井まで届く書架が迷路のように立ち並び、帝都が建設されて以来の、あらゆる記録が眠っている。
「……すごい、ですね」
思わず、感嘆の声が漏れた。私の冷宮の書斎など、この海の前の砂粒にも等しい。世界の真理が、ここには凝縮されている。
「感心している暇はありません、凛殿。時間は有限です」
隣で沈が、冷静に私を促す。彼はすでに書庫の管理官に指示を出し、帝都の古い地図や、後宮一帯の土地の造成記録を次々と探し出していた。
「(全く、うつくしくない男。ですが……)」
彼の仕事ぶりは、私の美学とは違う意味で、完璧だった。私が求めるであろう情報を的確に理解し、膨大な紙の束の中から、淀みない動きで必要な資料だけを抜き出していく。その能力は、まさに天才的と言えた。
私たちは、埃をかぶった巨大な机に、何枚もの古い地図を広げた。百年前に描かれたもの、二百年前のもの、どれも貴重な帝国の記録だ。
「まず、私がこれまでに観測した瘴気の濃度分布と、あなたの報告にあった植物の枯死地点、池の汚染地点を、この最新の地図に重ね合わせます」
私は魔石の粉末を練り込んだ墨で、地図の写し上に点を打ち、汚染が広がっているであろう範囲を円で囲んでいく。
「円の中心……つまり発生源は、このあたり。後宮の北東、冷宮に近い、忘れられた一角です」
「北東……」
沈は、その場所が記された古い造成記録を、指でなぞった。
「この一帯は、後宮が拡張された際も、最後まで用途が決まらなかった土地のようです。記録によれば、特にこれといった特徴もない、ただの荒れ地だったと……」
「いいえ、あります」
私は、彼の言葉を遮った。私の目は、全ての地図に共通して描かれている、ある一点に釘付けになっていた。
「この紋様……術式的な意味合いを感じます」
私の指摘に、沈がすぐさま別の記録を紐解き、補足する。
「その時代の造成記録によれば、ここは祭壇があった場所だ」
私は、最も古い、二百年前の地図を指し示した。そこには、井戸の記号の横に、かすれた文字でこう記されていた。
「『龍穴』……?」
沈が、訝しげにその文字を読み上げる。
龍穴。それは、大地の生命線である龍脈の力が、地上に噴き出す特別な場所。清浄な気が満ち溢れる、いわば聖地のようなところだ。かつてはここに祭壇が設けられ、人々の祈りの場所となっていたらしい。
「聖地が、瘴気の発生源……? まさか、犯人は龍穴の力を悪用しているというのですか」
彼の声に、私は静かに頷いた。
「その可能性が極めて高い。清浄な力が集まる場所であるからこそ、それを反転させれば、最も強力な呪詛の拠点となり得る。なんと、うつくしくない行いでしょう」
「君の視点がなければただの記録で終わっていた」
沈の言葉に、私は素直に認めた。
「あなたこそ。その驚異的な情報処理能力がなければ、この結論にはたどり着けませんでした」
「(全く、うつくしくない男。だが、これほど信頼できる歯車は、他にない)」初めて、他者に対してそう思った。
「……急ぎましょう、凛殿」
私たちは書庫を後にし、夕暮れが迫る中、目的の井戸へと向かった。
***
井戸は、後宮の隅の、忘れ去られたような場所にひっそりと存在していた。石造りの井戸の周りには、不自然に植物が枯れ果て、空気が重く澱んでいる。ここに間違いない。
沈は懐から灯りを取り出し、井戸の縁から中を照らした。古びた井戸の底には、僅かに水が溜まっているのが見える。
「特に、変わった様子はないようですが……」
彼がそう呟いた、その時だった。
私の耳にだけ、微かな音が聞こえた。キィン、という、金属を引っ掻くような、耳障りな不協和音。それは、紛れもなく瘴気が放つ音だ。
そして、沈が持つ灯りの光が、不自然に揺らめいた。まるで、陽炎のように、井戸の底の空間そのものが歪んでいるかのようだ。
「……いえ。何かが、います」
私は井戸の底の暗闇を、じっと見つめた。
そこには、ただの水溜まりなどではなかった。
私たちの常識、そして想像を遥かに超える、巨大な闇。その入り口が、まるで深淵のように、ぽっかりと口を開けていた。
それは、私たちが踏み出した、真実への小さな一歩。そして同時に、この帝国を蝕む、底なしの闇へと足を踏み入れた、最初の瞬間でもあった。




