第八話
アスファルトを踏みしめる足音が、二つ。
一つは、規則正しく、一切の乱れもない、まるで機械が刻むような足音。もう一つは、地面に引きずられるように重く、どこか覚束ない、躊躇いを多分に含んだ足音。前者はシルヴィアのもの。後者は、俺のものだ。俺たちは、あの惨劇の舞台となった学校の屋上から、一言も交わすことなく、次なる目的地である『忌鳴町立病院』へと向かっていた。
俺の頭の中は、白く塗りつぶされていた。いや、正確には、白一色の中に、一つの鮮烈な光景だけが、何度も、何度も、繰り返し再生され続けていた。宙を舞うルシアの体。驚きに見開かれた彼女の瞳。そして、自らの剣にその身を貫かれ、霧の海へと消えていく、最後の瞬間。あの光景が、網膜の裏側に焼き付いて、瞼を閉じることさえ許してくれない。目を閉じれば、より鮮明に、あの絶望的なスローモーションが、俺の意識を支配するのだ。
どうして、助けられなかった。
どうして、止めることができなかった。
そんな、答えの出ない問いが、頭蓋の内側で、錆びついた刃物のように、俺の思考を無差別に傷つけ続ける。後悔という名の毒が、全身の血管を巡り、思考能力を麻痺させていく。俺が、リーダーとして、もっと早く、的確な手を打っていれば。シルヴィアに指摘される前に、俺が自ら、天ヶ瀬蓮の存在を打ち明けていれば。そうすれば、ルシアが狂気に呑まれることも、あんな形で命を落とすことも、なかったのではないか。
だが、全ては、詮無い仮定の話だ。現実は、変わらない。仲間は死んだ。そして、その原因の一端は、間違いなく俺にある。その事実だけが、揺るがしようのない重石となって、俺の背中にのしかかっていた。背負った魔導ライフルの物理的な重さなど、比較にもならないほどの、魂を押し潰すような重圧だった。
前を歩くシルヴィアは、一度も振り返らなかった。彼女の翡翠色の髪が、この色彩のない世界で、まるで道標のように、静かに揺れている。彼女の背中は、いつもと何も変わらない、理知と冷静さの象徴そのものだった。仲間が一人、壮絶な死を遂げたというのに、彼女の中では、それはすでに処理済みのデータと化しているのだろうか。『論理的な帰結』。彼女は、そう言った。その言葉の冷たさが、今もなお、俺の鼓膜の奥に氷の破片のように突き刺さっている。
怒りが、湧かないわけではなかった。どうして、そんなにも平然としていられるのだと、彼女の背中に向かって叫びたい衝動に、何度も駆られた。だが、それと同時に、俺は理解してもいた。彼女のその冷静さこそが、この狂った世界で理性を保つための、唯一の方法なのだと。悲しみに暮れ、罪悪感に苛まれ、足を止めてしまえば、俺たちは次の瞬間には、この町に呑み込まれてしまうだろう。だから彼女は、感情という名の重荷を、自ら切り捨てているのだ。前へ進むためだけに。その在り方は、あまりにも孤高で、そして、あまりにも悲痛なものに、俺の目には映った。
俺たちは、学校のある高台から坂道を下り、再び家々が密集する住宅街へと入っていた。どの家も、人の気配はなく、静まり返っている。まるで、巨大な墓地の中を歩いているかのようだった。この町全体が、誰かの、あるいは、何かの、巨大な墓標なのだとしたら。そう考えると、この息が詰まるような静寂にも、妙な納得がいった。
しばらく歩き続けた、その時だった。
霧の切れ間に、ぼんやりと、一つの人影が見えた。
俺とシルヴィアは、ほぼ同時に足を止めた。俺は反射的に魔導ライフルを握りしめ、シルヴィアはいつでも魔法を放てるように、指先をわずかに動かす。この町で出会うものが、友好的である可能性は、限りなく低い。だが、その人影は、俺たちに気づいても、攻撃を仕掛けてくる様子はなかった。ただ、その場に立ち尽くし、何かをしているようだった。
慎重に、距離を詰めていく。
やがて、その姿が、霧の中からゆっくりと輪郭を現した。
清らかな月光を思わせる、美しい銀色の髪。純白の、汚れ一つない法衣。その場に跪き、胸の前で固く両手を組み合わせ、天を仰いでいる。その姿は、まるで一枚の宗教画のように、この荒廃した世界の中で、あまりにも神聖で、場違いなほどの清らかさを放っていた。
「イリス……?」
俺の口から、かすれた声が漏れた。
その声に、彼女はゆっくりとこちらを振り返った。アメジストのように澄んだ紫色の瞳が、俺たちの姿を捉える。間違いない。俺たちのパーティーの、最後の仲間。その慈愛に満ちた癒しの力で、幾度となく俺たちの命を救ってくれた聖女、イリス・セイクレッドだった。
「レン様。シルヴィア様も。ご無事で、何よりでございます」
彼女は、穏やかな微笑みを浮かべると、ゆっくりと立ち上がった。その物腰は、いつもと何も変わらない。誰に対しても丁寧で、どこか儚げな雰囲気をまとっている。
「イリス、お前も無事だったのか! よかった……」
安堵感が、胸に広がった。ルシアを失った直後だからこそ、彼女の無事な姿は、俺のささくれだった心に、わずかな慰めをもたらしてくれた。だが、次の瞬間、俺はその安堵感が、すぐに別の、得体の知れない不安へと変わっていくのを感じた。
彼女の様子が、おかしい。
笑顔を浮かべてはいる。だが、彼女が先ほどまで跪いていた場所。その足元のアスファルトには、いくつものガラスの破片や、錆びついた釘などが散らばっていた。そんな場所に、彼女は、何の躊躇もなく、素肌の膝をついて祈りを捧げていたのだ。彼女の法衣の膝の部分は、わずかに擦り切れ、そこから血が滲んでいるのが見えた。
「イリス、その膝の怪我は……」
「ああ、これですか? お気になさらないでください。このような痛みは、神が私にお与えくださった、大いなる試練の一部。この試練を乗り越えた先にこそ、真の救済があると、私は信じておりますので」
彼女は、こともなげに、そう言った。その言葉を聞いた瞬間、俺の背筋を、冷たいものが走った。試練?救済?この、悪夢のような状況を、彼女は、そう捉えているというのか。
「彼女は、この惨状を、そう解釈した、ということか」
俺の隣で、シルヴィアが、分析するかのように、低い声で呟いた。
イリスは、シルヴィアの言葉に、にこりと微笑みかける。
「はい。初めは、私も戸惑いました。ですが、すぐに理解いたしました。この静寂に満ちた世界、人の営みが消え失せたこの町は、我々がこれまでの世界で犯してきた、数多の罪を洗い流すための、聖なる浄化の場でございます。神は、我々をお選びになられたのです。この試練を乗り越え、新たな世界へと至るための、先導者として」
その言葉は、あまりにも純粋で、一点の曇りもなかった。彼女は、心の底から、本気で、そう信じ込んでいる。彼女の純粋すぎる信仰心が、この異常な現実を、自らの理解できる物語へと、強制的に書き換えてしまっているのだ。それは、ルシアが狂気に逃げ込んだのとは、また別の形の、精神の崩壊だった。
「……そう」
シルヴィアは、それ以上、何も言わなかった。ただ、その黄金の瞳が、わずかに細められたのを、俺は見逃さなかった。彼女は、イリスの精神状態が、もはや正常ではないことを、瞬時に見抜いたのだ。
俺は、どうしようもない無力感に襲われた。
俺は、彼女に何と言葉をかければいいのか、分からなかった。それは違う、お前は間違っている、と否定したところで、今の彼女には、きっと届かないだろう。
「さあ、参りましょう。神が我々のために用意してくださった、次なる試練の場所へ」
イリスは、そう言うと、まるで俺たちを導くかのように、先に立って歩き始めた。
その足取りには、一切の迷いがない。
俺とシルヴィアは、顔を見合わせることもなく、ただ黙って、彼女の後ろに従うしかなかった。
◇
イリスが俺たちを導いた先は、やはり、シルヴィアが予測した通りの場所だった。
霧の向こうに、白く巨大な建物が、その姿を現す。数階建ての、近代的な建築物。正面玄関の上には、いくつかの文字が剥落してはいるが、かろうじて『忌鳴町立総合病院』と読み取れる看板が掲げられていた。建物の壁は、雨だれで黒ずみ、窓ガラスの多くは割れて、そこから黒い口を開けている。廃墟となってから、相当な年月が経過していることは、一目見ただけで分かった。
「ここが、我々の魂を試す、聖なる祭壇なのですね」
イリスは、その廃病院を前にして、うっとりとした表情で呟いた。彼女の目には、この荒れ果てた建物が、荘厳な神殿か何かに見えているのかもしれない。
正面の自動ドアは、動力を失って久しいようで、手でこじ開けなければならなかった。きしむ音を立てて開いた隙間から、内部の空気が、どっと流れ出してくる。それは、消毒液の匂いと、埃の匂い、そして、何か得体の知れないものが腐敗したような、甘ったるい匂いが混じり合った、ひどく不快なものだった。
俺たちは、中へと足を踏み入れた。
内部は、外の霧の世界とは打って変わって、薄暗い闇に沈んでいた。かろうじて、割れた窓から差し込む、ぼんやりとした白い光が、その空間の様子をおぼろげに浮かび上がらせている。広い待合室。受付カウンターには、カルテと思われる書類が散乱し、床には、ひっくり返った長椅子や、壊れた車椅子が、無残な姿で放置されていた。ここでもまた、突然、全ての人間が姿を消してしまったかのような、異様な光景が広がっていた。
「シルヴィア、何か……」
「静かに。気配を探っている」
俺が話しかけるのを、シルヴィアが手で制した。彼女は目を閉じ、全神経を集中させて、この建物が発する気配を読み取ろうとしている。彼女は魔術師であると同時に、エルフとしての優れた感知能力も持っている。この魔法が正常に機能しない世界でも、その能力の全てが失われたわけではないらしい。
数秒間の沈黙の後、彼女はゆっくりと目を開いた。
「……何もいない。生物の気配は、皆無。しかし、この建物は、生きている。ゆっくりと、呼吸をしているかのような、微かな律動を感じる」
「呼吸……?」
その言葉に、俺は言いようのない悪寒を覚えた。あの映画館での出来事が、脳裏をよぎる。建物が、生きている。それは、決して比喩などではないのかもしれない。
「ああ、感じます……。この場所を満たす、大いなる生命の息吹を……」
俺の不安をよそに、イリスは恍惚とした表情で、両手を広げた。彼女には、この不吉な律動が、神の御業と感じられているのだ。もはや、俺たちが見ている世界と、彼女が見ている世界は、全く別のものになってしまっている。
俺たちは、受付カウンターの奥にある通路へと、足を進めた。壁には、『内科』『外科』『レントゲン室』といったプレートが、埃をかぶったまま掲げられている。床に散らばったガラスの破片を踏まないように、慎重に進んでいく。一歩進むごとに、腐敗臭は強くなっていった。
俺たちが探しているのは、研究記録だ。だとすれば、それは、研究室のような場所に保管されている可能性が高い。俺たちは、手分けをせずに、一つの塊となって、その場所を探し始めた。この薄暗い廃墟で、一人で行動するのは、あまりにも危険すぎたからだ。
いくつかの診察室を通り過ぎ、俺たちは、廊下の突き当たりにある、ひときわ大きな両開きの扉を見つけた。扉の上には、『手術室』と書かれている。その扉の隙間から、ひときわ強い腐敗臭が漏れ出ていた。
「この奥か」
シルヴィアが呟いた。俺は、唾を飲み込んだ。この扉の向こうに、何か、ろくでもないものが待ち構えている。そんな予感が、強くした。
俺は、意を決して、その重い扉に手をかけた。ひやりとした、金属の感触。全体重をかけて、ゆっくりと押し開ける。
ギィィィ……と、錆びついた蝶番が、悲鳴のような音を立てた。
そして、俺たちの目の前に、その部屋の光景が、現れた。
そこは、広い手術室だった。中央には、ステンレス製の手術台がぽつんと置かれ、その上には、天井から伸びる無影灯が、巨大な昆虫の複眼のように、静かにこちらを見下ろしている。壁際には、麻酔器や、心電図のモニター、そして、用途の分からない様々な医療器具が、白い布をかぶせられたまま、整然と並んでいた。
異様なほどに、片付いている。待合室や廊下の荒れ果てた様子とは、全く違う。まるで、ついさっきまで、ここで誰かが手術を行っていたかのような、生々しい空気が漂っていた。そして、あの腐敗臭は、この部屋からではなく、さらに奥にある、もう一つの扉の向こうから、より強く漂ってきているようだった。薬品保管室か、あるいは、標本室か。
俺たちが、その部屋に、完全に足を踏み入れた、その瞬間だった。
キィィィィィィィィン――――。
また、あの音だ。
鼓膜を直接、金属の針で突き刺すかのような、強烈な不快音。
そして、世界が、反転を始めた。
視界が、ぐにゃりと歪む。立っているはずの床の感覚が、急速に失われていく。内臓が、直接掴まれて裏返されるかのような、冒涜的な感覚。俺は、こみ上げてくる強烈な吐き気に、思わず口元を押さえた。
数秒にも、数時間にも感じられる、悪夢のような時間が過ぎ去る。
そして、変化は、終わった。
俺は、おそるおそる、顔を上げた。
そこは、もはや手術室ではなかった。
先ほどまで無機質なタイルが敷き詰められていたはずの床は、ぬめぬめとした粘液を絶えず滲ませる、巨大な横隔膜のようなものへと変わっていた。それは、ゆっくりと、だが確かに、上下に伸縮を繰り返している。呼吸。シルヴィアが言っていた、建物の律動の正体は、これだったのだ。壁は、皮膚を剥がされてむき出しになった、生々しい筋肉の繊維で覆われ、そこには、メスや注射針、骨を切るための鋸といった、錆びついた手術器具が、無数に、突き刺さっていた。まるで、この肉の壁を拷問でもするかのように。
天井からは、手術用の無影灯の代わりに、いくつもの、人間の眼球によく似た球体が、神経線維のような管でぶら下がっている。その瞳孔が、一斉に、ぎょろり、と俺たちの方を向いた。監視されている。この空間そのものに、俺たちは、異物として認識されているのだ。
空気は、鉄の錆びた匂いと、血液の生臭い匂い、そして、内臓が腐敗した匂いが混じり合った、吐き気を催すようなものに満ちていた。
病院が、そのおぞましい本性を、現したのだ。ここは、病を治す場所などではない。生命そのものを弄び、冒涜するための、巨大な実験場。悪夢の迷宮だった。
俺とシルヴィアが、その悍ましい光景を前に、言葉を失って立ち尽くしている、その横で。
「ああ……なんと、素晴らしい……」
イリスが、恍惚としたため息を漏らした。
彼女は、この地獄のような光景を前にして、恐怖するどころか、そのアメジスト色の瞳を、至上の喜びに輝かせていた。彼女は、ゆっくりと両手を広げ、天を、いや、天井からぶら下がる無数の眼球を、仰ぎ見た。
「見てください、レン様、シルヴィア様! 神の御業が、今、我々の目の前に! この脈打つ大地、この慈愛に満ちた眼差し! これこそ、我々を新たな世界へと導くための、奇跡の顕現に違いありません!」
彼女の口から紡ぎ出される言葉は、あまりにも、目の前の現実と乖離していた。脈打つ大地? 慈愛に満ちた眼差し? 彼女の目には、この冒涜的な空間が、本当に、神聖なものとして映っているのだ。彼女の精神は、もはや、完全に、こちらの世界から、切り離されてしまっていた。
「……末期症状」
シルヴィアが、冷たく、事実だけを告げた。その声に、イリスは、聖母のような微笑みを向ける。
「シルヴィア様。あなたにも、すぐに、お分かりになる時が来ます。この大いなる祝福の意味が」
もはや、会話は成立しない。
俺は、絶望的な気持ちで、目の前の二人の仲間を見つめた。一人は、この地獄を、神の奇跡と信じて疑わない。もう一人は、この地獄を、ただの分析対象として、冷静に観察している。
そして俺は、そのどちらにも、ついていくことができない。俺の心は、恐怖と、罪悪感と、そして、目の前で起こっていることへの、どうしようもない無力感によって、完全に引き裂かれていた。
しかし、すべきことがある。研究記録だ。
探すべき研究記録が、どこにあるのかということだ。
腐敗臭の元は、あの、奥の扉の向こうだ。
俺は、まるで、見えない糸に引かれるかのように、その扉へと、足を進めた。扉は、もはや金属製ではなかった。骨のようなものでできた、不気味なドアノブに手をかけると、ぬるりとした、不快な感触がした。
扉を開ける。
その先は、小さな部屋だった。壁も床も、他の場所と同様に、生々しい肉塊で覆われている。そして、部屋の中央に、ぽつんと、一つの机が置かれていた。それは、錆びついた鉄と、人の骨を組み合わせて作られたかのような、ひどく悪趣味なデザインをしていた。
その机の上に、一冊の、分厚いノートが、開かれたまま、置かれていた。
黒い革の表紙。使い込まれて、角は擦り切れている。
俺は、吸い寄せられるように、そのノートに近づいた。
ページには、インクで、びっしりと、文字が書き込まれていた。それは、ひどく知的で、冷静な筆跡だった。だが、そこに書かれている内容は、その筆跡とは裏腹に、正気の人間が書いたものとは、到底思えないものだった。
『被験体D(七歳・男児)への薬物T-3投与実験。十回目の投与にて、精神の境界が融解する兆候を観測。異界との同調率、12パーセント上昇。脳波に異常なパターンを検出。これは、期待できる結果だ』
『被験体F(六歳・女児)の抵抗が激しい。鎮静剤の量を増やす。彼女の感受性の高さは、御霊代としての素質が極めて高いことを示唆している。多少、肉体に負荷がかかろうと、実験は続行するべきだ』
『忌柱奉鎮祭の準備は、順調に進んでいる。子供たちの精神は、もはや個としては機能していない。彼らは、偉大なる『万象帰一』を達成するための、優秀な御霊代となるだろう。自我という名の、醜い病から解放され、一つの完全な調和の中へと溶け合う。それこそが、究極の救済なのだ』
被験体。投与。同調率。御霊代。
そして、万象帰一。
そこには、俺が、天ヶ瀬蓮が、この忌鳴町で、何をしようとしていたのか、その全てが、詳細に、そして、極めて客観的な筆致で、記録されていた。
失踪した子供たち。彼らは、誘拐されたのではない。この、狂気的な思想を実現するために、集められ、そして、非人道的な実験の材料として、使い潰されたのだ。
その記録が掛かれたノート。その開かれていたページの最後。
そこには、この記録をつけた者の署名が記されていた。
『天ヶ瀬 蓮』
俺は、その名前を見た瞬間、膝から崩れ落ちた。
全身から、力が抜けていく。
呼吸の仕方も、忘れてしまったかのようだった。視界が、白く、点滅する。
罪。
それは、もはや、観念的な言葉ではなかった。
このノートに記された一つ一つの文字が、俺が背負うべき、具体的な罪の形だった。
俺が、絶望の底で、意識さえ失いかけている、その隣で。
「……ああ……! これ、だったのですね……!」
イリスが、歓喜に打ち震える声を、上げた。
彼女は、俺の肩越しに、その研究記録を覗き込むと、その両目から、大粒の涙を、はらはらと、流し始めた。
だが、それは、悲しみの涙ではなかった。
感動の涙だった。
「素晴らしい……! なんて、崇高な計画なのでしょう! 全ての人々を、苦しみから解放し、一つの大いなる魂へと導く……! これこそが、神が望んでおられた、真の救済の形だったのですね! 天ヶ瀬蓮様は、神の意志を代行する、偉大な預言者だったのです!」
彼女は、そのノートを、まるで聖典であるかのように、両手で、恭しく、持ち上げた。そして、そのページに、自らの額を、こすりつけるようにして、むせび泣き始めた。
俺は、その光景を、ただ、呆然と見上げていた。
絶望に沈む、罪人。
その罪を、祝福と信じ、歓喜に咽ぶ、狂信者。
「……狂信者」
不意に、背後から、静かな声がした。
シルヴィアだった。
彼女は、いつの間にか、部屋の入り口に立っていた。その黄金の瞳は、俺と、そしてイリスを、まるで、汚物でも見るかのような、冷たい光で見下ろしていた。
「あなたたちとは、もう、一緒には行けない」
その言葉は、訣別の宣言だった。
「一人は、ただの抜け殻。もう一人は、狂気に魂を売り渡した、哀れな人形。どちらにも、未来はない」
彼女は、俺たちに背を向けた。
「私は、私一人で、この世界の理を解き明かし、そして、この狂った場所から、脱出する」
それが、彼女が俺たちにかけた、最後の言葉だった。
シルヴィアは、一度も振り返ることなく、脈打つ肉の廊下の闇の中へと、その姿を消していった。
後に残されたのは、絶望に打ちひしがれる俺と、恍惚と涙を流し続ける、イリスだけだった。




