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永遠の輪舞 〜異世界転生した俺は、真っ白な霧に閉ざされた日本の地方都市に迷い込んだ〜  作者: 速水静香


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第七話

 湿った風が、俺たちの間を音もなく吹き抜けていく。それは、この忌鳴町という閉ざされた世界で唯一、生きているかのように動くものだった。だが、その風にさえ、生命の温もりは感じられない。ただ、墓場を吹き抜ける気体のように、冷たく、そしてどこまでも空虚だった。俺の目の前で、二人の仲間が対峙している。いや、仲間、という言葉は、もはやこの状況を正確に表してはいなかった。一人は、燃え盛る憎悪をその鋼色の瞳にたたえ、抜き身の剣を構える狂戦士。もう一人は、目の前で剥き出しにされた殺意を前にしても、なお氷のような冷静さを保ち続ける、エルフの魔法使い。そして俺は、その二人の間に立ち尽くす、無力な傍観者だった。


「殺してやるよ!お前!」


 ルシアの口から吐き出された言葉は、もはや罵倒ですらなかった。それは、獲物を前にした捕食者が発する、純粋な闘争本能の咆哮。彼女の全身から立ち上る気配は、俺たちがかつて対峙してきたどんな魔物よりも濃密で、そして悪質だった。あれは、ただの闘志ではない。破壊という行為そのものへの、抑えがたい渇望。彼女の内側で、かろうじて保たれていた理性の防壁は、シルヴィアの冷徹な一言によって、跡形もなく砕け散ってしまったのだ。俺が、俺の前世が原因だという、その一言によって。


 シルヴィアは、動かない。ルシアが振りかざす長剣の切っ先が、寸分違わず彼女の喉元に向けられているというのに、その黄金の瞳には、恐れの色ひとつ浮かんでいなかった。まるで、興味深い観察対象を前にした研究者のように、彼女は目の前で狂気に染まっていくかつての仲間を、ただじっと見つめている。その泰然自若とした態度が、さらにルシアの神経を逆撫でしていることは、火を見るより明らかだった。


「今のあなたは正常じゃない」


 シルヴィアが、静かに問う。その声は、いつもと何ら変わらない、感情の抑揚を排した平坦なものだった。


「……っ!」


 その挑発ともとれる一言が、最後の引き金となった。ルシアは獣のような短い呻き声を上げると、屋上のコンクリートを強く蹴った。弾丸。そうとしか形容のしようがない、直線的な突撃だった。彼女とシルヴィアの間にあった数メートルの距離が、一瞬でゼロになる。振り下ろされた長剣は、この湿った空気そのものを断ち切るかのような鋭い風切り音を立てて、シルヴィアの頭上へと迫った。力任せの一撃。技も何もない、ただ対象を粉砕することだけを目的とした、暴力の塊。冒険者としての俺の経験が、あの直撃を受ければ、たとえシルヴィアがどれほどの魔術師であろうと、ひとたまりもないだろうと告げていた。


 だが。


 シルヴィアの身体が、ふっと消えた。そう見えた。実際には、彼女は最小限の動きで、ルシアの剣線から半歩だけ、横に身をずらしただけだった。轟音と共にルシアの剣が叩きつけられたコンクリートの床が、蜘蛛の巣状に砕け散り、破片が四方へと飛び散る。その衝撃波が俺の頬を撫でていく。空振りしたルシアの巨体が、勢い余って前のめりによろめいた。その、ほんの一瞬だけ生まれた硬直。シルヴィアは、その隙を見逃さなかった。彼女はよろめくルシアのすぐそばまで歩を進めると、その鎧の肘関節の、ほんのわずかな隙間に、まるで針を刺すかのように正確に、指先で軽く触れた。


「ぐっ……!?」


 ルシアの体から、力が抜けた。シルヴィアが触れたのは、おそらく神経が集中する箇所なのだろう。エルフの戦闘技術。それは、単なる魔法の行使だけではない。長い年月で培われた、人体構造への深い理解に基づいた、精密な体術をも含む。シルヴィアは、ルシアを傷つけることなく、その動きを一瞬だけ封じてみせた。


「無意味な攻撃。その程度の、感情に任せた大振りでは、私には届かない」


 淡々と、事実だけを告げる。それは、ルシアを諭すための言葉ではなかった。ただ、分析結果を口にしているだけだ。その無機質さが、再びルシアの怒りの炎に油を注いだ。


「黙れ……黙れぇっ!」


 麻痺していたはずの腕に、無理やり力を込めて、ルシアは肘を突き出すようにしてシルヴィアを振り払った。シルヴィアは、それを予測していたかのように、数歩後ろへ下がって距離を取る。体勢を立て直したルシアの瞳は、もはや憎悪を通り越し、純粋な殺意で赤黒く染まっていた。彼女は再び剣を構え直すと、今度は先ほどのような直線的な突撃ではなく、フェイントを織り交ぜながら、シルヴィアとの間合いを慎重に詰めていく。怒りで我を忘れてはいるが、騎士としての戦闘技術が、その体に染みついている。


 そこから先は、凄絶な攻防だった。ルシアが放つ、一撃一撃が必殺の威力を持つ斬撃の嵐。それを、シルヴィアはまるで舞踏を踊るかのように、優雅に、そして的確にいなし続ける。長剣が空を切る音、鎧の関節がきしむ音、そして、ルシアの荒々しい呼吸音だけが、静まり返った屋上に響き渡る。俺は、その二人を前にして、何もできなかった。魔導ライフルは、魔力がなければただの重い鉄の棒だ。近接戦闘において、俺が二人の間に割って入ったところで、瞬く間に斬り捨てられるか、あるいは邪魔になるだけだろう。


 リーダーとして、俺は何をすべきなんだ。二人を止めなければならない。仲間同士で殺し合うなど、あってはならないことだ。だが、どうやって? 言葉は、もはや狂気に囚われたルシアには届かない。そして、シルヴィアは、止めるまでもなく、自ら積極的にルシアを傷つけようとはしていない。彼女はただ、ルシアの攻撃を無力化し、その激情が燃え尽きるのを待っているかのようだった。だが、それはあまりにも危険な賭けだ。いつ、シルヴィアの回避が間に合わなくなるか、予測がつかない。


 俺の足は、まるでコンクリートに根を生やしてしまったかのように、その場から動かなかった。無力感。それは、この忌鳴町に来てから、ずっと俺の心を蝕み続けてきた感情だった。魔力が使えないこと。蘇る前世の記憶。そして、目の前で繰り広げられる、仲間たちの崩壊。その全てが、俺の精神を少しずつ、しかし確実に削り取っていく。俺は、本当にリーダー失格だ。仲間一人、救うことができない。それどころか、俺の存在そのものが、彼女たちを狂わせる原因となっている。シルヴィアの言葉が、呪いのように頭の中で反響していた。


 戦いは、膠着状態に陥っていた。ルシアの猛攻は、衰える気配を見せない。むしろ、攻撃が当たらないことへの焦りが、彼女の剣をさらに加速させている。だが、その分、一撃一撃の動きは大きくなり、隙も増えていた。シルヴィアは、その隙を突いて反撃することもできたはずだ。だが、彼女はそうしなかった。ただ、ひたすらに避け続ける。それは、彼女なりの、最後の慈悲だったのかもしれない。かつて仲間だった者に対して、その刃を向けたくないという、彼女の中に残された、最後の情。


 しかし、その情が、最悪の結果を招くことになった。


「おおおおおおおおおおっ!」


 ルシアが、天を仰いで咆哮した。それは、もはや人の声ではなかった。追い詰められた獣が、己の全てを賭けて放つ、最後の雄叫び。彼女は、持てる力の全てを、次の一撃に込めるつもりだった。長剣を両手で握りしめ、大きく振りかぶる。その動きは、あまりにも大きい。あまりにも、無防備。全身の筋肉が極限まで緊張し、鎧の下で盛り上がっているのが、遠目にも分かった。シルヴィアは、その一撃さえも、見切っていたはずだ。彼女は静かに、回避のための体勢を整えていた。


 その時だった。


 ルシアの足元で、何かが崩れた。彼女が踏みしめていたのは、屋上の床の、ひび割れが集中していた場所だった。彼女の渾身の踏み込みが、脆くなっていたコンクリートを完全に破壊したのだ。


 ガクン、とルシアの体が大きく傾ぐ。狙いを定めていたはずの剣の軌道が、大きく逸れた。それは、もはやシルヴィアに向かってすらいなかった。振り下ろされた剣は、虚空を薙ぎ払い、その莫大なエネルギーは、行き場を失ってルシア自身の体を、大きく、大きく、後方へと流した。


 そこには、腐食して久しい、鉄製のフェンスがあった。


 俺の視界が、スローモーションになった。


 体勢を崩したルシアの背中が、赤茶けた錆に覆われた金網に叩きつけられる。バギン、という乾いた破壊音がした。人間の膂力と、鋼鉄の鎧の質量を、老朽化した柵が支えられるはずもなかった。いとも簡単に、フェンスは破れた。まるで、巨大な獣が食い破ったかのように、大きな穴が空く。


 そして、ルシアの体は、宙に投げ出された。


 三階建ての校舎の、屋上から。


 下には、どこまでも続く、真っ白な霧の海が広がっている。


 彼女の鋼色の瞳が、一瞬だけ、俺の方を向いた。その目に映っていたのは、もはや狂気でも、憎悪でもなかった。ただ、純粋な驚きと、そして、自分が今、何をしているのかを、ようやく理解したかのような、ほんのかすかな後悔の色。


「……あ」


 彼女の唇から、小さな声が漏れた。


 落下していく。その、重力に引かれて落ちていく体。振り回していた長剣は、まだ彼女の手に握られたままだった。そして、落下する体のバランスが崩れ、その手の中で、剣の向きが変わった。切っ先が、上を向く。まるで、自らの主の体を、迎え入れるかのように。


 ぐさり、と鈍い音がした。それは、実際に聞こえた音ではないのかもしれない。俺の頭の中で、そう聞こえただけなのかもしれない。


 彼女の胸の中央、銀色の胸当ての、ちょうど心臓があるあたりに、彼女自身が握る長剣の切っ先が、深々と、根元まで、突き立っていた。


 血は、流れなかった。ただ、その傷口から、鎧の隙間から、黒い霧のようなものが、もわりと噴き出しただけだった。


 彼女の体は、ゆっくりと回転しながら、白い霧の海の中へと、吸い込まれるように消えていった。


 水面に石を投げ込んだ時のように、霧がわずかに揺らめいた。


 だが、すぐに、その揺らめきも消え失せ、後には、何も変わらない、静かな白い海が広がっているだけだった。


 音が消えた。


 風の音も、自分の呼吸の音さえも、聞こえない。世界から、全ての音が奪い去られてしまったかのような、絶対的な沈黙が、屋上を支配した。俺は、ただ、ルシアが消えていった場所を、呆然と見つめていた。フェンスに空いた、醜い形の穴。その向こうに広がる、何も映さない、白。


 死んだ。


 ルシアが死んだ。


 仲間が死んだ。


 俺の目の前で。


 その事実を、俺の頭は、理解することを拒絶していた。今、目の前で起こったことが、現実の出来事だとは、どうしても思えなかった。悪い夢だ。きっと、そうだ。あの映画館で見た、悪夢の続きなのだ。だから、すぐに目が覚める。そうすれば、ルシアはまた、いつものように豪快に笑って、俺の肩を叩いてくれるはずだ。


 だが、いくら待っても、夢から覚める気配はなかった。頬を撫でる湿った空気の感触も、足元に広がる砕けたコンクリートの破片も、全てが生々しい現実感を伴って、俺の五感に突き刺さってくる。


 絶望。


 その、ありきたりな言葉が、これほどまでに重い質量を持って、俺の全身にのしかかってきたことは、今だかつて一度もなかった。胃の腑の底に、氷の塊が生まれたかのように、体の芯から冷えていく。手足の先から、感覚が失われていく。俺は、その場に膝から崩れ落ちた。背負っていた魔導ライフルが、がしゃり、と無機質な音を立てる。


「……う……あ……」


 喉から、意味をなさない声が漏れた。叫びたいのに、声にならない。泣きたいのに、涙も出ない。俺の感情は、完全に麻痺してしまっていた。ただ、目の前の光景が、焼き付いたフィルムのように、網膜から離れない。落下していくルシア。彼女の驚いたような顔。そして、自らの剣に貫かれる、その瞬間。その映像が、何度も、何度も、頭の中で繰り返される。


 どうして、こんなことに。


 どうして、止められなかった。


 俺が、もっとしっかりしていれば。俺が、リーダーとして、もっと的確な判断を下せていれば。シルヴィアが、俺を糾弾する前に、俺が、自分の口から、前世のことを話していれば。何か、何か、違う結果があったのではないか。


 後悔と自責の念が、黒い奔流となって、俺の心を飲み込んでいく。


 そうだ。


 結局、俺のせいだ。


 ルシアは、死なずに済んだんだ。



 どれほどの時間、そうしていたのだろうか。時間の感覚は、とうに失われていた。俺はただ、うなだれたまま、コンクリートの冷たい床を見つめ続けていた。


「レン」


 不意に、名前を呼ばれた。


 顔を上げると、そこにシルヴィアが立っていた。彼女は、フェンスの穴から下を覗き込み、何かを確認していたようだったが、今はもう、こちらに視線を戻していた。その黄金の瞳は、相変わらず、何の感情も映してはいなかった。まるで、今の惨劇など、最初からなかったかのように、静かだった。


「……なんだ」


 俺は、かろうじて、それだけを答えた。声は、ひどくかすれていた。


「感傷に浸るのは、合理的ではない。彼女の死は、悲劇。だが、予測可能な結末の一つ」


 冷たい。


 その言葉は、あまりにも、冷たかった。まるで、壊れた道具を前にして、その破損原因を分析するかのような口調。俺は、腹の底から、激しい怒りがこみ上げてくるのを感じた。


「予測可能、だと……? お前は、こうなることが分かっていたっていうのか!」


 俺は、彼女に向かって叫んだ。


「ルシアは、死んだんだぞ! 俺たちの仲間が、目の前で! それなのに、お前は……!」


「感情的な発言は、状況を悪化させるだけ。事実を述べたまで。彼女の精神的変容は、この状況によるもの。それが自らを破壊するに至った。論理的な帰結」


「論理……だと……?」


 信じられなかった。仲間が死んだというのに、このエルフは、それをただの論理と、事実として処理しようとしている。彼女の中に、悲しみという感情は、存在しないのか。


 だが、シルヴィアは、俺の怒りを意に介する様子もなく、淡々と続けた。


「我々が、今、優先すべきことは、彼女の死を悼むことではない。この町の真相を解明し、生存の道を探ること。それが、生き残った者の義務」


「……」


 俺は、何も言い返せなかった。彼女の言っていることは、正論だったからだ。リーダーとして、俺が考えなければならないのは、まさにそのことのはずだった。だが、今の俺の心は、とてもではないが、そんな冷静な思考ができる状態にはなかった。


 シルヴィアは、そんな俺の様子を、値踏みするように一瞥すると、静かに言った。


「さらなる情報が必要。この学校で見つかった『輪舞祭計画書』。あれだけでは、断片的すぎる。その計画、より具体的な内容。特に、天ヶ瀬蓮が何をしようとしていたのか。その思想の核心に触れるものが、どこかに残されているはず」


 彼女は、まるでチェスの次の手を読むかのように、思考を進めていた。


「計画書には、参加児童の『精神統一の訓練』という記述があった。そして、その選定基準は、『感受性の強い者』。これは、医学的、あるいは薬学的なアプローチがあったことを示唆している。だとすれば、その記録が残されている可能性が高い場所は、一つしかない」


 彼女は、霧の海の、ある一点を指さした。


「町立病院。次に向かうべきは、あそこ」


 病院。


 その言葉に、俺の脳裏を、あの忌まわしい『向こうの世界』の光景がよぎった。脈打つ肉塊の壁。腐臭を放つ空気。あの映画館がそうであったように、この町の主要な施設は、例外なく、あの悪夢の世界と繋がっているのかもしれない。


 行きたくない。


 もう、あんな悍ましいものは、見たくない。


 だが、俺に、それを拒否する権利など、あるのだろうか。ルシアの死の責任の一端は、間違いなく俺にある。だとしたら、俺には、この町の真相から、天ヶ瀬蓮の罪から、目を背けることなど、許されないはずだ。


 俺は、ゆっくりと立ち上がった。足が、まだわずかに震えている。魔導ライフルを背負い直すと、その無機質な重さが、ずしりと肩に食い込んだ。


「……分かった」


 俺は、それだけを答えるのが、精一杯だった。


 シルヴィアは、小さく頷くと、俺に背を向け、屋上の出口へと、迷いのない足取りで歩き始めた。


 俺は、最後にもう一度だけ、ルシアが消えていった場所を見た。


 フェンスに空いた穴は、まるで、この狂った世界が、俺たちを嘲笑うために開けた、巨大な口のように見えた。


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