第七話
ふと目が覚めた。意識が眠りから目を覚ましたかのように戻ってきた。
真っ白だ。
地面に仰向けに倒れていた体を起こし、周囲を見渡す。
頭がズキズキと脈打ち、思考がまとまらない。
さっきまで確かにダンジョンの中にいたはずなのに、気がつけば見知らぬ場所に横たわっていた。
石造りの通路も魔法陣も見当たらない。ここは間違いなく、ダンジョンなんかじゃない。
外にいる。でも周囲は真っ白な霧で視界不良。空が見えないほどの濃密さだ。
五メートル先も見通せないほどの霧で、地面をはうように動いている。
「ここは…どこだ?」
自分の声は空気に吸い込まれるようにすぐ消えていった。まるで音を吸収する何かが周囲にあるようだ。
辺りを囲むのは、白い霧と不自然な静寂だけ。
風の音も、鳥のさえずりも、人の話し声も聞こえない。
完全な無音ではなく、かすかに自分の鼓動と呼吸音が聞こえるだけの、奇妙な静けさ。
じっと周囲を確認すると、そこは日本の地方都市を思わせる建物が立ち並んでいた。
霧の中にぼんやりと浮かび上がる二階建ての家々。木造の家屋や小さな商店。電柱には複雑に絡まった電線が走り、街灯が点灯していないまま立っている。
驚いて地面を見ると、アスファルトで舗装されていた。
ヒビが入り、所々に雑草が生えた古いアスファルト。
これは石畳ではなく、明らかに前世の日本にあったものだ。
周囲には建物が立ち並んでいる。
軒先に看板が掛かった居酒屋、文字がかすれた標識を掲げた店、シャッターが半分下りた個人商店らしきもの。
どれも人気がなく、廃れた雰囲気を醸し出している。
建物の壁はどこか灰色がかり、色彩が薄れているように見える。
窓ガラスは曇っているか、内側からカーテンで覆われており、中の様子は窺えない。
日本の地方都市の風景。ここが一体どこなのか、頭が混乱する。
これまでいたのは魔法世界のはずなのに、今目の前には前世の記憶にある景色が広がっている。
心臓が早鐘を打ち始めた。俺は一体どこにいるのか。
なぜこんな場所に?
静謐のダンジョンで起こった出来事と、この場所は関係しているのか?
気持ちを落ち着かせるため、深呼吸を数回繰り返す。
パニックになっても状況は好転しない。まずは仲間たちを探さなければ。
「イリス!シルヴィア!ルシア!」
必死に叫んでも、返事はない。声が霧に飲み込まれてしまうようだった。
仲間たちの姿はどこにも見えない。
呼吸を整えながら、体を起こす。体は無事のようだが、頭に鈍い痛みが残っていた。
道を歩きながら周囲を観察する。
ここは商店街のようだ。
閉まったシャッター、古びた看板、薄暗いショーウィンドウ。すべてが灰色に色あせていた。
アーケードが頭上を覆っている。
その骨組みは錆びている。無人であるがゆえに、どこか不気味な印象を受けた。
まるで長い間放置されていたかのような荒廃感を感じる。
それでいて、不思議と清潔感もある。
埃は少なく、ゴミも見当たらない。
この街並みにどこか懐かしさを覚える。
もしかしたら、前世の記憶によるものだろうか。
だが具体的には何も思い出せない。ただぼんやりとした既視感だけが残る。
小さな本屋の前を通りかかると、ウィンドウに映った自分の姿が見えた。
いや、よく見ると自分ではない。
黒髪に黒い制服を着た少年が映っていた。俺じゃない誰かが映っているかのようだった。
細身の体に、疲れた表情の十代後半の少年。
学生服を着ていた。
その瞬間、頭の中で何かがはじけるような感覚があった。
「天ヶ瀬…蓮。」
口から自然と名前が漏れた。
前世の俺の名前だ。
何故今、この名前が明確に思い出されたのか。
五歳のとき以来、ずっと『前世では天ヶ瀬蓮という名前の日本人だった。』そう記憶していたが、それは事実を知っているという程度だった。
今この瞬間は、自分自身が確かに『天ヶ瀬蓮』だったという実感が湧き上がってきた。
目をこすり、もう一度見ると、そこには何の変哲もない俺の姿が映っていた。
「何だったんだ…。」
俺は混乱した。
幻だったのか、それとも…。
この場所が俺の記憶を呼び覚ましているのかもしれない。
確かにこの霧の中では、昼間でも幽霊が出てもおかしくはない。
俺は恐怖を覚えた。
最悪の場合は魔法で撃退することも考えたが、そもそも俺は魔法攻撃は得意ではない。
そして、武装したものは手元にはない。
精々が腰にある短剣しかない。
とはいえ、今のところはモンスターなどとは遭遇していない。
それにここは様子がおかしいとはいえ、平和な日本のはずだ。
俺は本屋を観察した。
その本屋のガラスからは、週刊漫画の雑誌が見えた。
それらの文字ははっきりとは読めず、霧がかかったようにぼやけている。
商店街を抜けると小さな広場に出た。ベンチが数脚と、枯れかけた低木が植えられている。
中央に朽ちた看板があり、かろうじて読める文字があった。
「忌鳴町。」
その名を口にした瞬間、激しい頭痛が走り、膝が震えた。
この名前に見覚えはないはずなのに、体が反応している。
何かを思い出そうとしているかのような感覚。
『天ヶ瀬蓮』『忌鳴町』――この二つに何か深い関係があるのだろう。
忌鳴町…なぜこの名前を聞いただけで頭痛がするのか。前世の記憶の一部なのだろうか。
それとも、何か別の力が働いているのか。
だとすれば『天ヶ瀬蓮』の記憶も少しずつ戻ってくるのかもしれない。
頭痛が和らぐのを待ち、再び歩き始めた。
この町から脱出する方法と仲間たちを見つけなければならなかったからだ。