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永遠の輪舞 〜異世界転生した俺は、真っ白な霧に閉ざされた日本の地方都市に迷い込んだ〜  作者: 速水静香


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第六話

 俺は、ただの傍観者だった。かつて仲間と呼んだ女騎士が、人の理解を超えた悪夢の具現に、歓喜の雄叫びを上げて斬りかかっていく。その光景を、俺は脈打つ肉塊の床に膝をついたまま、見ていることしかできなかった。俺の知る物理法則も、魔法という異世界の理さえも、ここでは何の役にも立たない。ここは、悪意と狂気だけが支配する、神に見捨てられた生物の体内だ。


 ルシアの剣戟は、もはや技ではなかった。ただ純粋な、破壊の衝動が形になったものだった。彼女の長剣が、名状しがたい化物の、粘液にまみれた肉を叩く。ぐちゃり、という湿った音が響き渡り、黒い体液が飛沫を上げた。化物は、苦悶の声を上げるでもなく、ただ無数の手足を振り回し、応戦する。その動きには、知性のかけらも感じられない。互いに、ただ目の前の存在を消し去りたいという本能だけで動いているかのようだった。

 赤黒い筋繊維でできた壁が、二者の闘争に呼応するように、より激しく脈動を始める。天井から垂れ下がる管からは、腐臭を放つ液体が、ぽたぽたと滴り落ち、俺のすぐそばに着弾して、じゅう、と床を焦がす音を立てた。この空間そのものが、二者の戦いを観戦し、興奮しているかのようだった。

 俺は、リーダーとして、何かしなければならなかったはずだ。ルシアを止めるべきか、それとも加勢すべきか。だが、俺の体は、意思とは無関係に、この場に縫い付けられたままだった。恐怖が、思考を鈍らせる。いや、それだけではない。俺の心のどこかで、この悍ましい光景から、目を逸らすことができないでいた。目の前で繰り広げられる、生命の尊厳を完全に無視した暴力の応酬に、ある種の倒錯的な魅力を感じてしまっている自分に、俺は気づいていた。天ヶ瀬蓮の狂気が、俺の内側で、静かに共鳴しているのだろうか。


 どれほどの時間が過ぎたのか。

 化物の動きが、不意に、鈍くなった。ルシアの容赦ない斬撃が、その不定形な体の核のような部分を捉えたのかもしれない。化物は、まるで空気が抜けていくように、その巨体を萎ませていく。表面に浮かび上がっていた苦悶の顔が、次々と粘液の中に沈んでいき、やがて、ただの黒い染みとなって、肉塊の床に広がった。

 戦いは、終わった。

 だが、勝利の凱歌はなかった。ただ、ルシアの荒い息遣いだけが、静かになった空間に響いている。彼女は、化物の残骸の上に立ち、その全身から、湯気のようなものを立ち昇らせていた。その姿は、もはや人の領域にはなかった。


 キィィィィィィィィン――――。


 再び、あの耳障りな金属音が、世界を劈いた。

 そして、唐突に、世界は、再びその姿を変えた。

 内臓をかき混ぜるような不快な浮遊感。


 視界が白く染まった。


 そして、気づいた時には、俺たちは再び、あの古びた映画館の観客席に座っていた。


 まるで、全てが悪夢だったとでも言うかのように。

 先ほどまで壁や床を覆っていた脈打つ肉塊は跡形もなく消え、元の、埃っぽくてカビ臭い、破れた布張りの座席がそこにあるだけだった。正面の巨大なスクリーンは、ただ沈黙を保ち、何も映してはいない。あの強烈な金属音も、世界の法則が書き換えられるような冒涜的な感覚も、今はもうない。ただ、全身にまとわりつくような疲労感と、あの向こうの世界の記憶がもたらす吐き気だけが、現実のものとして俺の中に残っていた。


 隣の席に、ルシアがぐったりと座っていた。あれほど荒れ狂っていたのが嘘のように、今は消耗しきった表情で、虚空をぼんやりと見つめている。返り血のように浴びていたはずの黒い液体は、綺麗に消え失せていた。だが、彼女の鎧に刻まれた無数の傷跡と、その瞳の奥に残る熱の残滓が、先ほどの出来事が決して夢ではなかったことを物語っている。


「……終わった、のか?」


 俺がかろうじて絞り出した声に、彼女はゆっくりと首を巡らせた。その動きはひどく緩慢で、まるで体の動かし方を忘れてしまったかのようだ。


「……ああ。終わった、みたいだな」


 その声には、先ほどの狂気的な高揚感は微塵も感じられなかった。ただ、深い疲労の色だけが滲んでいる。まるで、激しい熱に浮かされた後、ふと我に返った人間のようだった。彼女は、自分が何をしていたのか、覚えているのだろうか。俺は、それを尋ねるのが怖かった。あの、戦いに悦びを見出す彼女の姿を、俺は仲間としてどう受け止めればいいのか、答えが見つからなかったからだ。


「出口を探そう」


 俺は、努めて事務的な口調で言った。この場所に、これ以上留まるべきではない。この映画館は、表と裏、二つの世界を繋ぐ扉のようなものなのかもしれない。だとしたら、いつまた、あの悪夢の世界へと引きずり込まれるか分かったものではない。

 ルシアは、無言で頷いた。立ち上がるその足取りは、ひどくおぼつかない。俺は彼女の肩を貸そうとして、一瞬ためらった。今の彼女に触れることに、本能的な抵抗があった。だが、リーダーとしての責任感が、その逡巡を打ち消した。俺は無言で彼女の腕を支え、二人でゆっくりと観客席を後にした。


 ホールへ戻ると、そこもまた、元の静かな廃墟の姿を取り戻していた。そして、俺たちが躍起になって探した出口――固く閉ざされていたはずの壁は、いつの間にか、元の重厚な木製の扉に戻っていた。まるで、俺たちの絶望を嘲笑うかのように。

 俺たちは、その扉を押し開け、外の白い世界へと、逃れるように足を踏み出した。



 再び、全身が湿った霧に覆われる。だが、不思議と不快感はなかった。あの、生命を冒涜するかのような有機的な内壁と、腐臭に満ちた空気に比べれば、この無機質で静寂な霧の世界は、むしろ安息の地とさえ思えた。


「おい。これから、どうする?」


 先に口を開いたのはルシアだった。その声は、まだ弱々しい。


「町の全体像を知りたい。ここがどんな場所で、どれくらいの広さがあるのか。それを把握しないことには、動きようがない。どこか、高い場所はないだろうか」


 俺は、霧の向こう、おぼろげに見える地形の起伏に目を向けた。この商店街を抜けた先に、緩やかな坂道が続いているのが分かる。その坂を上りきった先に、何か見晴らしの良い場所があるかもしれない。リーダーとして、俺は思考を切り替えなければならなかった。ルシアの変貌という個人的な問題は、今は一旦、心の奥に押し込める。優先すべきは、この状況を打開するための、冷静で合理的な判断だ。


「……あそこだ」


 俺は、坂の上にかすかに見える、四角い建物の影を指さした。霧で判然とはしないが、この町の他の建物に比べて、明らかに規模が大きい。そして、その場所には見覚えがあった。俺の前世の、知識としての記憶が、あれが学校の校舎であることを告げていた。学校という施設は、多くの場合、その地域の高台に建てられる。あそこの屋上に登れば、この忌鳴町の全体を見渡せるかもしれない。


「あの建物か。なるほどそれなりに高い建物だな」


 ルシアが、力なく呟いた。彼女の言葉に、俺は何も返さなかった。

 俺たちは、再び歩き始めた。目指すは、高台にそびえる学び舎の廃墟。道中、俺たちの間に会話はほとんどなかった。ルシアは、まだ先ほどの戦闘の記憶が整理できていないのか、あるいは、無意識のうちにその記憶から目を背けているのか、ただ黙って俺の後ろをついてくるだけだった。俺もまた、彼女にどう接すればいいのか分からず、言葉を発することができなかった。あの狂戦士としての彼女の姿は、俺たちの間に、見えない壁を作ってしまった。それは、この濃い霧よりも、ずっと厄介で、分厚い壁のように思えた。



 坂道を上るにつれて、徐々にその建物の全容が明らかになってきた。コンクリート造りの、三階建ての校舎。白く塗装された外壁はよく見ると、雨だれで汚れている。校門は錆びついて半開きになり、その先には、だだっ広い校庭が広がっている。まるで、巨大な墓石のようだった。ここで学んだであろう子供たちの、営みの記憶を弔うための。


 校舎の入り口、昇降口へと足を踏み入れる。そこには、何十もの下駄箱が整然と並んでいたが、そのほとんどは空だった。いくつかの区画に、埃をかぶったままの上履きが残されているのが、かえってこの場所の無人ぶりを際立たせている。床には、乾いた泥や枯れ葉が吹き溜まり、俺たちが一歩進むごとに、パサパサという乾いた音を立てた。

 ひどく、静かだった。外の霧の世界も静かだったが、この校舎の中の静寂は、また質が違う。それは、本来、子供たちの喧騒で満たされているべき空間が、その音を完全に失ってしまったことによって生まれる、空虚な沈黙だった。廊下の壁には、色褪せた習字や絵が、剥がれかけたまま残されている。その一つ一つが、かつてここに存在したはずの、当たり前の日常を雄弁に物語っていた。


「職員室を探そう。屋上へ出るための鍵が、そこにあるはずだ」


 俺の言葉に、ルシアはこくりと頷いた。俺たちは、一階の廊下を進んだ。きしむ床板の音だけが、やけに大きく響く。教室の中を覗くと、机と椅子が、まるで授業の途中で生徒たちが一斉に消えてしまったかのように、不規則な形で放置されていた。黒板には、計算の途中式のようなものが、薄れてはいるが、まだ残っている。この場所で、一体、何が起こったのか。連続児童失踪事件。その言葉が、再び頭をもたげる。


 やがて、俺たちは『職員室』と書かれたプレートが掲げられた扉を見つけた。ガラスがはめ込まれた引き戸だ。中の様子を窺うと、いくつもの事務机が並び、書類が山積みになっているのが見えた。ここも、人の気配はない。俺は、ゆっくりと扉に手をかけ、横に引いた。ガラガラと、ベアリングの壊れた車輪のような、耳障りな音がした。

 職員室の中も、外観と同様に、時間が止まったかのような空気に満ちていた。机の上には、飲みかけで中身が干からびたコーヒーカップや、灰皿に山盛りになった吸い殻が、そのままの形で残されている。壁にかけられた月間予定表の黒板には何も書かれていなかった。

 俺たちは、手分けして屋上の鍵を探し始めた。壁際に設置された、鍵を保管するための木製のボックス。その扉は開いており、ほとんどのフックは空だった。だが、一番隅のフックに、一本だけ、古びた鍵がぶら下がっているのを俺は見つけた。『屋上』と書かれた、黄ばんだプラスチックのタグがついている。


「あったぞ」


 俺がそう言って鍵を手に取った、その時だった。


「レン、これを……」


 ルシアが、部屋の隅にある、スチール製のキャビネットの前で、何かを手に取って俺を呼んだ。彼女の声には、戸惑いの色が浮かんでいる。俺は彼女の元へ歩み寄った。彼女が手にしていたのは、何枚もの紙をクリップで留めただけの、簡素な書類の束だった。表紙には、ボールペンで、こう書かれている。


 『輪舞祭計画書』


 輪舞。その単語を見た瞬間、俺の全身の皮膚が粟立った。あの、喫茶店のテレビで見た、無表情な子供たちの踊り。その記憶が、鮮明に蘇る。俺は、ルシアの手からひったくるようにして、その書類を受け取った。紙は湿気を吸って、少し波打っている。一枚目をめくると、そこには、この祭りの趣旨と思われる文章が、丁寧な手書きの文字で記されていた。


 『伝統ある忌鳴町の鎮守の祭り、『忌柱奉鎮祭』を、現代に即した形で復興させ、地域の活性化を図ることを目的とする。祭りの名は、子供たちの健やかな成長を願い、古来より伝わる輪舞にちなみ、『輪舞祭』と呼称する』


 表向きは、ごく普通の、地域振興のためのイベント企画書に見える。日程、会場、予算案。そのどれもが、詳細に記されていた。だが、ページをめくっていくうちに、俺はそこに、いくつもの不自然な記述が紛れ込んでいることに気づいた。


 『参加児童の選定については、特に感受性の強い者を優先的に選ぶこと』

 『祭りの本番に先立ち、児童には数回にわたる『精神統一の訓練』を実施する』

 『輪舞の振り付けは、古文書に基づき、寸分の違いなく正確に再現すること。特に、紋様の中心点における所作は、極めて重要である』


 精神統一の訓練。古文書。紋様。普通の地域の祭りにしては、あまりにも不穏な単語が並んでいた。これは、ただの祭りなどではない。もっと別の、何か冒涜的な儀式のための計画書だ。あの砂場に描かれていた、禍々しい幾何学模様。あれも、この儀式に関係するものに違いない。

 俺は、震える指で、最後のページをめくった。

 そこには、この計画の責任者として、一つの署名が記されていた。


 『天ヶ瀬 蓮』


 息が、止まった。

 まただ。また、この名前だ。俺の前世。俺が、この忌まわしい儀式を計画した張本人だという、動かぬ証拠だった。公園で見つけた写真だけではない。この詳細な計画書そのものが、俺の罪を告発していた。俺は、この町で、子供たちを使い、一体、何をしようとしていたというんだ。

 全身から、急速に力が抜けていく。手にした書類の束が、やけに重く感じられた。俺は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえた。


「おい、レン? どうしたんだ、顔色が悪いぞ」


 ルシアが、心配そうに俺の顔を覗き込む。彼女には、この書類に書かれた名前の意味が分からない。俺が、この町の悲劇の元凶であるかもしれないという事実を、彼女はまだ知らない。俺は、彼女に、仲間たちに、このことを、どう説明すればいいというんだ。

 俺は、何も答えられなかった。ただ、計画書の最後に記された、自分の名前だったはずのその署名を、呆然と見つめ続けることしかできなかった。それは、見覚えのない、他人の筆跡のはずなのに、なぜか、心の奥底で、ひどく馴染みのあるもののように感じられた。



 重い沈黙が、俺とルシアの間に横たわっていた。俺は、『輪舞祭計画書』を乱暴に懐へしまい込むと、何も言わずに職員室を出た。ルシアは、何も聞かずに、ただ黙って俺の後ろをついてきた。彼女なりに、俺がひどく動揺していることを察してくれているのだろう。だが、その沈黙が、かえって俺の罪悪感を増幅させた。


 階段を上り、三階の廊下を抜ける。その突き当たりに、屋上へと続く、錆びた鉄製の扉があった。鍵穴に、先ほど手に入れた鍵を差し込む。ぎこちない手つきで回すと、ガチャリと、重い金属音がした。錠は、外れた。

 俺は、扉に全体重をかけるようにして、それを押し開けた。

 ひやりとした、湿った空気が、顔に吹き付けてくる。

 屋上は、コンクリートがむき出しの、殺風景な空間だった。隅の方には、給水塔と思われる巨大なタンクが鎮座している。床のあちこちには水たまりができており、ひび割れたコンクリートの隙間からは、生命力の強い雑草が顔を覗かせていた。周囲は、金網のフェンスで囲まれているが、そのいくつかは腐食して大きな穴が開いていた。危険極まりない状態だ。


 俺は、フェンスの近くまで歩み寄り、眼下に広がる景色を見下ろした。

 言葉を失うほどの、光景だった。

 どこまでも、どこまでも、真っ白な霧の海が広がっている。その海の中に、ミニチュアの模型のように、家々の屋根や、電柱の先が、まるで小さな島の群れのように点在していた。俺たちが歩いてきた商店街も、あの映画館も、今いるこの学校さえも、全てがこの乳白色の海に沈んでいる。そして、その海の果ては、どこにも見えなかった。地平線も、水平線も存在しない。ただ、白。無限に続くかのような、絶対的な白が、この世界を支配していた。


 外部から完全に隔絶された、箱庭。

 否応なくそのように感じさせる風景だった。

 でも、もしそうだとすれば、俺たちは、この霧の檻から、脱出することなどできるのだろうか。


「……いた」


 不意に、背後から声がした。

 それは、俺のものでも、ルシアのものでもなかった。凛とした、どこか体温を感じさせない、静かな声。

 俺は、弾かれたように振り返った。


 そこに、一人の女性が立っていた。


 給水塔の壁に背を預けるようにして、彼女は静かにこちらを見ていた。美しい翡翠色の髪が、この色彩のない世界で、唯一鮮やかな色を放っているかのように見えた。そして、その全てを見通すかのような、黄金の瞳。感情を滅多に表に出さない、理知的な顔立ち。二百年以上の時を生きるという、エルフの末裔。

 俺たちのパーティーに所属する、失われた魔法さえも操る、最強の魔法使い。


「シルヴィア……!」


 俺は、思わず彼女の名前を叫んだ。仲間だ。これで、全員ではないが、三人揃った。安堵感が、胸に広が……らなかった。


 おかしい。彼女の様子が、いつもと違う。


 彼女の黄金の瞳は、再会の喜びなど微塵も映してはいなかった。その視線は、真っ直ぐに、俺だけに向けられている。それは、まるで得体の知れないものを観察するような、分析的で、そして、どこか冷たい光があった。


「シルヴィア!お前も無事だったのか!」


 俺の隣で、ルシアが安堵の声を上げた。だが、シルヴィアは、ルシアの方には一瞥もくれなかった。ただ、俺だけを、じっと見つめている。


「レン。いくつか質問がある。正直に答えることを要求する」


 彼女の口調は、いつも通りだった。要点のみを淡々と話す、独特な話し方。感情の起伏を感じさせない。だが、その言葉の奥に、普段とは違う、剣の切っ先のような鋭さが潜んでいるのを、俺は感じ取っていた。


「質問……?」

「第一。この場所、この町に見覚えは?あなたの記憶の中に、これと合致する情報はないか?」

「それは……」


 俺は言葉に詰まった。俺の前世の故郷。その知識はある。だが、それをどう説明すればいい。


「第二。天ヶ瀬蓮。この名前に心当たりは?」


 その名前を、彼女の口から聞かされた瞬間、俺の思考は完全に停止した。

 なぜ。なぜ、シルヴィアがその名前を知っている。俺は、誰にも話していない。ルシアでさえ、知らないはずだ。


「……どうして、その名前を」

「私がここに来てから、ずっと聞こえていた。霧の中から、繰り返し、繰り返し。まるで、この世界そのものが、その名を囁いている。そして、私なりに調査し、結論に到達した」


 シルヴィアは、給水塔の壁からゆっくりと身を離すと、一歩、俺の方へと踏み出した。その動きには、一切の無駄がない。


「この忌鳴町という空間。魔法が正常に発動せず、法則が捻じ曲げられている、この異常な世界の成立。そして、そこにいる、ルシア・エヴァレットの精神的変容」


 彼女は、そこで初めて、ルシアの方に視線を向けた。その視線は、医者が患者を診るような、極めて客観的なものだった。


「全ての原因は、あなたにある」


 静かな、だが、有無を言わせぬ断定だった。

 屋上の、湿った空気が、凍り付いた。


「何……だと……?」


 俺の喉から、かすれた声が漏れた。


「正確には、あなたの前世。天ヶ瀬蓮、という存在に。この世界は、奴の記憶、あるいは何かの意志。その精神が具現化したもの。それが、私の立てた仮説。そして、ほぼ確信に近い」


 シルヴィアは、淡々と続けた。その言葉の一つ一つが、見えない刃となって、俺の胸に突き刺さる。彼女は、俺が必死に目を背けようとしていた真実の核心を、いとも容易く、そして的確に、抉り出してきた。


「待てよ、シルヴィア」


 その、張り詰めた空気を破ったのは、ルシアだった。彼女は、俺の前に立つようにして、シルヴィアとの間に割って入った。その顔には、先ほどまでの虚脱した様子は消え、怒りと困惑の色が浮かんでいる。


「お前、何を言ってるんだ。レンが原因だ?ふざけるのも大概にしろ!こいつは、私たちのリーダーだぞ!」

「事実を述べたまで。感情的な反論は、無意味」

「事実だと? お前は、レンが私たちをこんな目に遭わせたって言うのか!?」


 ルシアの声が、荒々しくなる。彼女の瞳の奥で、再び、あの危険な光が明滅し始めていた。まずい。このままでは。


「直接の原因ではない。だが、全ての引き金であることは、間違いない。彼の中に眠る『何か』が、この世界を構築し、私たちをここに呼び寄せた」

「黙れ!」


 ルシアが、吠えた。


「レンを侮辱するな!」


 その言葉が、引き金だった。

 ルシアの中の、かろうじて保たれていた理性の糸が、ぷつりと、音を立てて切れた。彼女の全身から、凄まじい闘気が立ち上る。それは、もはや人間が発するそれではない。傷つけられた縄張りを守ろうとする、獣の怒りそのものだった。

 彼女にとって、レンという存在は、この狂った世界で、自分を繋ぎとめる最後の拠り所だったのかもしれない。そのリーダーが、仲間であるはずのシルヴィアに、原因だと糾弾される。その事実が、彼女の精神の最後の防衛線を、いとも簡単に破壊してしまった。


 カチャリ、と音がして、ルシアは腰の長剣に手をかけた。

 その鋼色の瞳は、もはやシルヴィアを仲間として見てはいなかった。ただ、排除すべき『敵』として、認識している。


「シルヴィア……今すぐ、今の言葉を取り消せ。さもなくば……」

「無駄な警告。私は、私の分析結果を変えるつもりはない」


 シルヴィアは、ルシアの殺気を真っ向から受け止めても、全く動じなかった。彼女の黄金の瞳は、氷のように冷たく、目の前で牙を剥く狂戦士を、ただ冷静に観察している。


「……そうかよ」


 ルシアの口元が、醜く吊り上がった。

 それは、映画館で俺が見た、あの歓喜の笑みとは違う。純粋な、殺意に満ちた、獰猛な笑みだった。


「なら、お前から先に始末してやる!このエルフ野郎!」


 次の瞬間、ルシアは、磨き上げられた長剣を抜き放った。

 その銀色の切っ先は、霧深い空の下で、鈍く、そして不吉な光を放つ。

 狂戦士と化した彼女は、仲間であるはずのシルヴィアに対して、その殺意に満ちた剣を、真っ直ぐに向けた。

 俺は、その二人の間に立ち尽くしたまま、声を発することさえできずにいた。

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