第五話
時間の感覚が、ねじ切れてどこかへ消えてしまったかのようだった。
目の前に立つ、返り血を浴びた女騎士は、俺の知るルシア・エヴァレットではなかった。姿形は同じはずなのに、その内側から発せられる気配が、もはや全くの別物へと化していた。
彼女の鋼色の瞳の奥で爛々と燃えているのは、もはや闘志や勇敢さといった言葉で表現できるものではない。あれはもっと根源的で、純粋な破壊への衝動。目の前のものを、ただ壊し、砕き、その過程に歓びを見出すという、極めて原始的な本能の輝きだった。
『歯ごたえがあって、最高だぜ』
ルシアの言葉が、頭の中で何度も反響する。俺たちのパーティーのムードメーカーで、誰よりも快活で、仲間思いだった彼女の口から吐き出されたとは思えない、あまりにも彼女らしくない響きを伴って。俺は、彼女に何と声を返すべきなのか、分からなかった。かけるべき言葉が見つからない。大丈夫か、と問うべきか。しっかりしろ、と叱咤すべきか。だが、どんな言葉も、今の彼女には届かないだろうという絶望的な予感が、俺の喉を固く塞いでいた。
俺は、無言で後ずさった。一歩、また一歩と。彼女から距離を取らなければならない。理屈ではない。本能が、警鐘を鳴らしていた。今の彼女は、あの『錆びた騎士』どもと同じくらい、あるいはそれ以上に危険な存在だと。
その俺の動きを、ルシアは咎めなかった。彼女はまだ、先ほどの戦いの興奮の余韻に浸っているようだった。血走った目で周囲に散らばる残骸を見渡し、満足げに息をついている。その姿は、美食を堪能し終えた獣のようでもあった。
どこか、どこか安全な場所へ。
少しでも理性を保てる場所へ移動し、体勢を立て直さなければ。そう考えた、まさにその時だった。
ガギン。
先ほどと同じ、錆びた鉄が擦れる音が、今度は四方八方から聞こえてきた。一つではない。いくつもの音が、霧の奥深くで同時に発生し、不協和音となって俺たちの鼓膜を揺さぶる。
霧が、再び蠢き始めた。映画館の左右から、そして俺たちの背後から。まるで、この一帯の霧そのものが、あの異形の騎士たちを生成する巨大な子宮であるかのように。一体、二体、三体……その数は、先ほどとは比較にならない。十体、いや、二十体はいるかもしれない。ぞろぞろと、霧の中から現れるその光景は、悪夢以外の何物でもなかった。
完全な、包囲網。
俺たちの逃げ場は、どこにもない。
「……はっ、ははっ! なんだ、まだいたのか! 上等だ、かかってこいよ!」
絶望的な状況を前にして、ルシアは、歓喜の声を上げた。その瞳は、新たな獲物を見つけた狩人のように、ぎらぎらと輝いている。彼女は再び長剣を構え、その切っ先を、迫り来る騎士の群れへと向けた。
馬鹿な。この数を、一人で相手にするつもりか。いくら彼女が手練れの騎士だとしても、無謀すぎる。いや、今の彼女には、無謀という概念すら存在しないのかもしれない。ただ、目の前に戦うべき相手がいるという事実だけが、彼女を突き動かしているのだ。
俺にできることは何だ。魔導ライフルは、ただの鉄塊。俺が前に出たところで、彼女の足手まといになるだけだ。だが、このまま彼女を一人で戦わせるわけにはいかない。リーダーとして、仲間を死地に追いやることなど、断じてできるはずがない。
思考が焦げ付く。どうすればいい。この状況を打開する道は、どこにある。
その時、俺の視界の端に、あの古びた映画館の入り口が映った。
『天使座』
中が安全である保証はどこにもない。むしろ、この町の建物の中に、まともな場所など存在しないだろうということは、あの喫茶店での経験が証明している。だが、今はもう、選択肢など残されていなかった。あの騎士の群れと正面からぶつかるよりは、建物の中に逃げ込む方が、まだ生存の可能性は高いはずだ。
「ルシア、こっちだ! 中へ入るぞ!」
俺は、ほとんど叫ぶようにして彼女の名を呼んだ。
ルシアは、一瞬だけ、不満げな表情で俺を振り返った。戦いの邪魔をされた、と言わんばかりの視線だ。だが、その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、かつての彼女の面影がよぎったように見えた。俺の言葉が、彼女の中に残る、最後の理性の欠片に届いたのかもしれない。
「……ちっ、仕方ないな!」
彼女は舌打ちをすると、一番近くまで迫っていた騎士の一体を力任せに斬り払い、俺の方へと駆け出した。その背後では、残りの騎士たちが、ぎこちない動きでじりじりと距離を詰めてきている。
俺たちは、映画館の入り口へと殺到した。そこには、重厚な木製の観音扉が、まるで俺たちを誘い込むかのように、半開きになっていた。俺が先に扉を押し開き、ルシアがその背後を守るようにして、二人で転がり込むように建物の中へと身を投じた。
そして、俺は全体重をかけて、背後の扉を閉めた。
ガチャン、という重い音がして、外の世界の音が、ぴたりと遮断される。扉一枚を隔てた向こう側で、騎士たちが扉を叩く、鈍い衝撃音が聞こえてきた。だが、この扉は見た目以上に頑丈なようで、びくともする気配はない。
「……ふう。どうにか、撒いたか」
俺は扉に背を預けたまま、その場にずるずると座り込んだ。全身から、どっと汗が噴き出す。安堵からか、手足が微かに痺れていた。
「なんだよレン、せっかく楽しんでたのによ」
「楽しんでる場合か! あの数を見ただろう、まともに戦って勝てる相手じゃ……」
不満げなルシアに言い返そうとして、俺は言葉を詰まらせた。
暗い。
建物の中は、ほとんど光のない、深い闇に沈んでいた。外の霧の世界があれほど白々としていたのが、嘘のようだ。かろうじて、壁際の低い位置に設置された、非常口を示す緑色の誘導灯だけが、ぼんやりと周囲を照らしている。その弱々しい光が、この空間の異常な広がりを、おぼろげに浮かび上がらせていた。
鼻をつくのは、古い埃の匂いと、湿った布が腐敗したような、甘ったるいカビの匂い。空気は重く澱み、呼吸をするたびに、肺の奥に不快な粒子が溜まっていくようだった。
俺たちのいる場所は、広いホールのようだった。正面には、チケット売り場と思われるカウンターがあり、その隣には、菓子や飲み物を売っていたであろう売店の残骸が見える。床には、色褪せた絨毯が敷かれているが、その上には、正体不明のゴミや、何かの染みが広がっていた。
静かだ。外の騎士たちの音も、いつの間にか聞こえなくなっている。まるで、この建物が、外界から完全に切り離された、独立した空間であるかのようだった。
不安が、再び鎌首をもたげる。
俺は立ち上がり、今入ってきたばかりの扉を、もう一度確認しようと手を伸ばした。
そして、指先が触れた瞬間、俺は息を止めた。
そこにあったのは、扉ではなかった。
冷たく、硬く、そして、継ぎ目一つない、ただの壁だった。
扉の取っ手も、蝶番も、鍵穴も、どこにもない。俺たちが通ってきたはずの入り口は、跡形もなく消え失せ、そこには、コンクリートか何かでできた、のっぺりとした無機質な平面が広がっているだけだった。
俺は、信じられない思いで、その壁を何度も叩いた。コン、コン、と乾いた音が、虚しく響き渡る。嘘だろ。そんな馬鹿なことがあるか。俺たちは、確かにここから入ってきたはずだ。
「どうした、レン?」
「……出口が、ない。壁になってる」
俺の言葉に、ルシアも壁に近づき、その表面を訝しげに撫でた。
「本当だ……。おいおい、どうなってやがるんだ。私たち、ここに閉じ込められたってことか?」
その声には、さすがに焦りの色がにじんでいた。
そうだ。俺たちは、完全に閉じ込められたのだ。外の脅威から逃れるために飛び込んだこの場所は、安全な避難所などではなく、より悪質な、捕食者の胃袋のような、出口のない檻だった。
◇
絶望的な状況に、思考が麻痺しそうになる。
だが、ここで立ち止まっているわけにはいかない。他に、どこか出口があるかもしれない。俺たちは、この映画館の内部を探索するしか、道は残されていなかった。
俺は魔導ライフルを、ルシアは長剣を構え、警戒しながらホールの奥へと進んでいく。誘導灯の頼りない光だけを頼りに、闇の中を手探りで進む。やがて、正面に、観客席へと続くであろう、二つの通路が見えてきた。どちらへ進むべきか。逡巡したその時だった。
ブゥン、という低い唸りが、どこからともなく聞こえてきた。
それは、古い機械が、長い眠りから無理やり目覚めさせられた時のような、不吉な起動音だった。音は、前方の通路の奥から聞こえてくる。
そして、通路の先が、ぼうっと明るくなった。
それは、闇に慣れた目には痛いほどの、強い光だった。
俺とルシアは、顔を見合わせた。何が起きたのか。この廃墟同然の建物で、電力が供給されているとでもいうのか。
俺たちは、まるで蛾が光に誘われるように、その通路の奥へと、吸い寄せられるように歩を進めた。
通路を抜けた先は、巨大な空間だった。
そこは、この映画館の心臓部、上映室だった。傾斜した床に、無数の座席が整然と並んでいる。そのほとんどは、布が破れ、中の詰め物が醜くはみ出していた。そして、その視線の先、俺たちが立つ場所の正面には、巨大なスクリーンが、真っ白な光を放っていた。先ほどの起動音と光は、このスクリーンから発せられていたのだ。
あの喫茶店での出来事が、脳裏に鮮明に蘇る。電源の入っていないテレビ。そこに映し出された、悪夢の映像。嫌な予感が、全身の皮膚を逆撫でした。まさか、ここでも、また。
俺の予感は、最悪の形で的中した。
真っ白だったスクリーンに、ノイズが走る。ザーッという、耳慣れた不快な音。そして、砂嵐の向こう側に、像が結ばれ始めた。
森の中、輪になって踊る、無表情な子供たち。
あの忌まわしい、儀式の映像だった。
喫茶店の小さなブラウン管で見た時とは、比べ物にならない。この巨大なスクリーンに映し出された光景は、圧倒的なまでの存在感と、悪意を持って、俺たちの精神に直接叩きつけられた。子供たちの、感情の抜け落ちた動きの一つ一つが、不気味なまでに鮮明に見える。まるで、俺たちのためだけに、この悪夢が、特別に上映されているかのようだった。
キィィィィィィィィン――――。
その時、鼓膜を突き破るかのような、強烈な金属音が、空間全体を震わせた。
それは、俺たちがこの世界に迷い込む直前、あの奇妙なダンジョンの最奥で聞いた音と、全く同じものだった。
世界が、反転する。
その感覚は、言葉で表現できるものではなかった。視界がぐにゃりと歪み、平衡感覚が消失する。立っているはずの床が、まるで液状化したかのように足元から崩れていく。内臓が、直接掴まれてかき混ぜられるような、強烈な吐き気。俺は、その場に膝をついた。
何かが、変わる。この世界の、根本的な法則が、根こそぎ書き換えられていく。
数秒か、あるいは数分か。時間の感覚さえ失われた後、その冒涜的な変化は、ようやく収まった。
俺は、荒い息をつきながら、ゆっくりと顔を上げた。
そして、目の前に広がる光景に、言葉を失った。
そこは、もはや映画館ではなかった。
先ほどまで座席が並んでいた場所は、ぬめぬめとした粘液を滴らせる、巨大な肉塊のようなものに覆われている。それは、まるで生きているかのように、ゆっくりと、だが確かに脈打っていた。壁は、筋肉の繊維がむき出しになったような、赤黒い筋張ったものへと変貌し、そこには、錆びついた鉄板が、いくつも無秩序に突き刺さっている。天井からは、血管か腸のような、太い管が何本も垂れ下がり、その先から、澱んだ悪臭を放つ液体を、床に滴らせていた。
床も、壁も、天井も、全てが有機的な、生命を持った何かで構成されている。ここは、巨大な生物の、体内なのだ。
空気は、鉄の錆びた匂いと、腐肉の匂いが混じり合った、吐き気を催すようなものに変わっていた。呼吸をするだけで、肺が汚染されていくようだ。
『向こうの世界』
俺の脳裏に、その言葉が、不意に浮かび上がった。理由はない。だが、そうとしか表現のしようがない、悪夢を具現化したかのような、悍ましい空間だった。
前方のスクリーンだった場所は、今や、巨大な、開かれた傷口のようになっていた。その向こう側は、底の見えない闇が、ただ広がっている。
その闇の奥で、何かが、身じろぎした。
それは、ゆっくりと、傷口からこちら側へと這い出てきた。
『錆びた騎士』とは、全く違う。あれが、人の形を模した、無機的な恐怖の具現だとしたら、こいつは、生命そのものへの冒涜から生まれた、有機的な悪夢の塊だった。
定まった形がない。黒い粘液状の体は、絶えずその形を変え、あちこちから、骨と肉が入り混じったような、不格好な手足が、何本も突き出している。体の表面には、苦悶の表情を浮かべた、いくつもの人間の顔が、まるで腫瘍のように浮かび上がっては、沈んでいく。その一つ一つが、声にならない叫びを上げているように見えた。
あれは、一体、何なんだ。
俺の体は、恐怖で完全に縫い付けられていた。指一本、動かすことができない。逃げなければならないと頭では分かっているのに、足が、まるで地面に根を張ってしまったかのように、言うことを聞かない。
隣にいるルシアは、どうしている。
俺は、ぎこちない動きで、彼女の方に視線を向けた。
彼女も、俺と同じように、この悍ましい光景を前に、恐怖で固まっているはずだ。そう、思った。
だが。
彼女は、恐怖していなかった。
その瞳は、先ほどまでの狂気的な光とはまた違う、恍惚とした、至上の喜びに満ちた輝きを放っていた。その口元は、緩やかに弧を描き、笑みを浮かべている。
彼女は、この『向こうの世界』を、この悍ましい化物を、美しいとでも言うかのように、うっとりと見つめていた。
「……ああ……すごい……」
彼女の唇から、感嘆のため息のような声が漏れた。
「これだ……私が求めていたのは、これだ……!」
次の瞬間、彼女は、天を仰いで、雄叫びを上げた。
それは、恐怖を振り払うためのものではない。
喜びの、歓喜の、そして、完全なる覚醒を告げる、凱歌だった。
「うおおおおおおおおおおおっ!」
彼女の中の、理性のたがは、完全に外れた。
恐怖も、躊躇も、仲間を守るという使命感さえも、全てが焼き尽くされ、後には、純粋な破壊衝動だけが残った。
彼女は、もはや騎士ではない。
ただ、戦いと破壊だけを求める、狂戦士へと、完全に変貌を遂げていた。
彼女は、長剣を握りしめると、床を強く蹴った。
その矛先は、闇から這い出てきた、名状しがたい化物。
彼女は、その悪夢の化身に向かって、一切の迷いなく、突撃していった。
俺は、その背中を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
狂戦士と化した仲間が、悪夢の中で、更なる悪夢と、歓喜の舞を踊ろうとしていた。




