第四話
思考が、ぬかるみにはまった車輪のように空転を続けていた。
天ヶ瀬蓮。
その三文字が、頭蓋の内側に刻印された焼きごてのように、じりじりと熱を発し続けている。
あの写真の男が、俺?
あの子供たちの不気味な踊りを見ていたのが、俺だというのか。
違う。そう叫びたいのに、声にならない。
俺はレン・ヴァルムントだ。仲間たちを率いるパーティーのリーダー。それ以外の何者でもないはずだ。
なのに、なぜ俺は、あの写真の男に、あの忌まわしい儀式のようなものに、言いようのない既視感を覚えるのだろう。
まるで、遠い昔に見て、そして忘れるようにと心の奥底に封じ込めた、悪夢の断片を無理やり見せつけられているような、そんな悍ましい感覚が全身を蝕んでいた。
俺は、あの公園から逃げるように立ち去った。
砂場に描かれた紋様も、そこにうち捨てられたランドセルも、全てが俺を責め立てているかのように見えて、一秒たりとも同じ場所に留まることができなかった。
再び、あてもない彷徨が始まる。一歩進むごとに、アスファルトに吸い付くようなブーツの底の音が、この静寂の中でやけに大きく意識に届く。それは、俺がまだここに存在しているという、唯一の証明だった。だが、その存在そのものが、今や不確かで、恐ろしいものへと変質してしまっていた。
俺は、本当に俺なのか。
あの記憶は、俺自身の、失われた記憶の深淵に沈んでいるのか。
仲間たちを探さなければならない。
その思いだけが、かろうじて俺の精神を繋ぎとめる最後の錨だった。ルシア、イリス、シルヴィア。彼女たちさえ無事なら、きっとこの悪夢にも立ち向かえるはずだ。俺がリーダーとして、しっかりしなければ。そう自分に言い聞かせても、一度植え付けられた疑念の種は、心の内でじわじわと根を張り、思考の養分を吸い上げていく。俺は、本当に彼女たちにとって、信頼できるリーダーのままでいられるのだろうか。俺という存在そのものが、彼女たちを脅かす脅威になるのではないか。そんな恐怖が、冷たい粘液のように背筋を伝った。
どれくらい歩き続けたのか。もはや時間の感覚は、この世界に降り立った時からずっと麻痺したままだ。相変わらず、視界は白く閉ざされ、世界の広がりを全く感じさせない。だが、その濃密な帳の向こうに、ぼんやりと、これまで見てきた住宅や商店とは少し毛色の違う、巨大な建物のシルエットが浮かび上がってきた。近づくにつれて、その全体像が徐々に明らかになる。
それは、古びた映画館だった。
建物の正面には、大きく『天使座』という、洒落た書体の金属製の文字が掲げられている。だが、そのいくつかは錆びて欠落し、本来の輝きは見る影もない。壁には、色褪せてしまった映画のポスターが、破れかけたまま張り付いていた。描かれているのは、屈強な肉体を持つ男や、ドレスをまとった女優。俺の前世の知識が、それが八十年、九十年代に流行した娯楽映画の広告であることを教えてくれる。しかし、それらの情報も、やはり実感の伴わない、辞書をなぞるような無味乾燥な知識でしかなかった。
その、廃墟と化した娯楽施設の前に、誰かが立っていた。
俺は咄嗟に身構え、背負っていた魔導ライフルを降ろして、いつでも動けるように体勢を低くする。この町で出会うものが、友好的である保証などどこにもない。喫茶店での経験が、俺の警戒心を極限まで高めていた。慎重に距離を詰め、霧の中に浮かぶその姿を注視する。
長い髪が、風もないのにわずかに揺れている。その色に、俺は見覚えがあった。燃え盛る炎のような、鮮烈な真紅。そして、その身にまとっているのは、見慣れた銀色の鎧。鍛え上げられたしなやかな体躯。間違いない。
「ルシア……?」
俺の口から、かすれた声が漏れた。
その声に反応して、その人物がゆっくりとこちらを振り返る。鋼のような色の瞳が、俺の姿を捉えた。間違いない、俺たちのパーティーの先陣を切り、その豪剣で幾多の敵を屠ってきた女騎士、ルシア・エヴァレットその人だった。
「レン!」
彼女は俺の名前を叫ぶと、硬質な足音を立てて駆け寄ってきた。その表情には、安堵と、そしてそれだけではない、何か別の感情が色濃く浮かんでいる。俺はライフルの銃口を下げ、彼女の元へと歩み寄った。
「ルシア、無事だったのか! よかった……本当に……」
「お前こそ、無事で何よりだ。いきなりあんな眩しい光に包まれて、気づいたらこんな気味の悪い場所に一人で放り出されてたんだ。他の二人は見てないか?」
「いや、私もずっと一人だった。イリスとシルヴィアも、どこかにいるはずなんだが……」
再会を喜び合う。だが、その束の間、俺は彼女の様子にどこか違和感を覚えた。その瞳だ。安堵の色の中に、奇妙な光が明滅している。それは、追い詰められた獣のような、切迫した光。そして、その奥底には、まるで戦場にいるかのような、昂奮した熱が灯っているように見えた。鎧のあちこちには、新しい傷が刻まれ、その隙間からは、黒く粘り気のある液体が付着していた。血ではない。もっと異質な、何か。
「どうしたんだ、その傷は。それに、その液体は……」
「ああ、これか」
ルシアはこともなげに自分の鎧に視線を落とした。
「化物にやられた。この町、おかしいぞ。人がいやしない代わりに、変な奴らがうろついてやがる」
「化物?」
俺が聞き返した、その瞬間だった。
ガキン、という甲高い金属音が、俺たちの背後から聞こえてきた。それは、錆びついた鉄同士が擦れ合うような、耳障りで不快な音だった。俺とルシアは、弾かれたように音のした方へ振り返る。
霧が、蠢いた。
まるで、意思を持った生き物のように、その一部が盛り上がり、中から何かが姿を現そうとしていた。ゆっくりと、だが着実に、それは人の形を成していく。一体ではない。二体、三体……次々と、霧の中から異形の存在が生まれ出てくる。
それは、全身を赤茶けた錆に覆われた、騎士の姿をした何かだった。
ところどころ剥がれ落ちた鎧の隙間からは、人間の肉ではない、黒く変色した何かが見え隠れしている。関節の動きはぎこちなく、まるで出来の悪い操り人形のようだ。その手に握られているのは、刃こぼれのひどい長剣。兜の奥、顔があるべき場所は、ただの暗い空洞になっており、そこから、この世のものとは思えないほどの、深い怨念のような気配が放たれていた。
ルシアが言っていた化物は、こいつらのことか。
「来たか……『錆びた騎士』どもが……!」
ルシアが、歯を食いしばりながら低い声でうめいた。その横顔に浮かんでいたのは、純粋な恐怖だけではなかった。確かに怯えの色はある。だがそれ以上に、まるで待ち望んでいた獲物を前にした狩人のような、獰猛な闘争心が燃え上がっていた。
俺は魔導ライフルを構え直す。だが、分かっている。魔力がなければ、これはただの重い鉄の棒に過ぎない。俺にできるのは、せいぜいこれを鈍器として振るうことくらいだ。前衛であるルシアの負担を、少しでも減らさなければ。
「ルシア、こいつらと戦ったのか?何か弱点のようなものは……」
「分からん! ただ、硬い。だが、斬れない相手じゃない!」
言うが早いか、ルシアは腰の長剣を引き抜いた。磨き上げられた刀身が、この薄暗い世界で鈍い光を放つ。彼女は俺の前に立つと、まるで俺を庇うように、その広い背中を向けた。
「レン、お前は下がってろ。こいつらは、私がやる」
その声には、紛れもない仲間を思う意志があった。だが、それと同時に、俺には聞こえた。彼女の声の奥底に潜む、戦いそのものへの渇望のような響きが。
錆びた騎士たちが、一斉に動き出す。その足取りは不安定で、一歩ごとに体全体がぐらついている。しかし、その歩みは確実に、俺たちとの距離を詰めてきていた。一体が、錆びた剣を振り上げる。その動きは緩慢で、お世辞にも手練れの剣士の動きとは言えなかった。
だが、その一撃が持つであろう質量と、兜の奥の暗闇から放たれる純粋な殺意は、冒険者としての俺の本能に、危険信号を鳴らしていた。
最初に動いたのは、ルシアだった。
彼女は床を強く蹴り、弾丸のように前方へと飛び出した。その動きは、恐怖に駆られた者のそれではない。むしろ、自ら積極的に死地へと飛び込んでいくような、勇猛果敢な突撃だった。
一番近くにいた騎士が振り下ろした錆びた剣を、ルシアは最小限の動きでいなす。キィン、と耳障りな音を立てて二振りの剣が火花を散らした。ルシアは受け流した勢いをそのまま利用し、体を回転させると、流れるような動作で敵の胴体へと、力強い横薙ぎの一閃を叩き込んだ。
ゴウッ、という重い打撃音がした。
騎士の分厚い鎧が、大きくへこみ、その衝撃で体勢が大きくぐらつく。だが、それだけだった。致命傷には至っていない。やはり、相当な頑強さを持っているらしい。
騎士は体勢を立て直すと、再び無機質な動きで剣を振り上げてくる。それに対し、ルシアは一度距離を取ると、深く息を吸い込んだ。彼女の瞳に、先ほどよりもさらに強い光が灯る。それは、恐怖を押し殺そうとする決意の光だった。
「おおおおおっ!」
雄叫びと共に、彼女は再び踏み込んだ。今度の一撃は、先ほどとは比べ物にならないほどの速度と重さを兼ね備えていた。剣の軌跡が、白い霧の中に一瞬だけ銀色の線を描く。
ガッ、と肉を断つ音とは違う、硬い何かを無理やりこじ開けるような鈍い音がした。
ルシアの剣は、騎士の兜を、その付け根から断ち割っていた。首を失った胴体が、数秒間、その場に立ち尽くした後、がしゃん、という大きな音を立ててアスファルトの上に崩れ落ちた。鎧の破片が、あたりに散らばる。
一体を仕留めた。だが、休む暇はない。残りの二体が、左右から挟み込むようにしてルシアに迫っていた。
俺は、ただそれを見ていることしかできなかった。魔導ライフルを握りしめる手に、汗がにじむ。無力感が、胃の腑に冷たい石となって沈んでいく。仲間が命を懸けて戦っているというのに、俺はその後ろで、ただ成り行きを見守ることしかできない。こんな屈辱は、冒険者になって以来、初めてのことだった。
リーダーが、これでは示しがつかない。何か、何かできることはないのか。
思考を巡らせるが、有効な手立ては何一つ思い浮かばなかった。この世界は、俺たちが生きてきた世界の法則から、あまりにもかけ離れすぎている。
その間にも、ルシアの戦いは続いていた。
彼女は、まるで舞うように二体の騎士の攻撃をさばき続ける。その剣戟は、恐怖に駆られながらも、仲間を守るために戦う、勇敢な騎士のそれだった。俺の知っている、ルシア・エヴァレットの戦い方だ。必死に、そして懸命に、彼女は俺を守ろうとしてくれていた。
だが、その戦いの中で、俺は見てしまった。
彼女が、敵の硬い装甲を断ち、その肉体を破壊した瞬間。
彼女の口元が、ほんのわずかに、吊り上がったのを。
それは、歓喜の表情だった。
恐怖に歪むのではなく、苦痛に耐えるのでもなく、ただ純粋な、破壊という行為から生まれる喜びに、彼女の表情が染め上げられていく。
ぞわり、と全身の皮膚が粟立った。
なんだ、今のは。見間違いか? いや、違う。確かに彼女は、笑みを浮かべた。
その瞬間を境に、彼女の剣筋が、明らかに変化した。
それまでは、敵の攻撃を受け流し、隙を突いて的確に反撃するという、防御を主体とした理知的な戦い方だった。だが、今の彼女は違う。敵の攻撃を、避けるのではなく、自らの剣で弾き飛ばし、力でねじ伏せようとしている。一撃一撃が、より重く、より荒々しくなっていく。それはもはや、守るための剣ではない。ただ、目の前の敵を破壊することだけを目的とした、暴力の塊だった。
「ははっ……はははははっ!」
乾いた笑い声が、彼女の口から漏れ出した。
その声は、この静まり返ったゴーストタウンに、不気味にこだました。俺は、自分の耳を疑った。あの、誰よりも仲間思いで、パーティーのムードメーカーだった快活なルシアが、今、敵を斬り刻みながら、歓喜の声を上げている。
恐怖は、どこかへ消え失せていた。
彼女の瞳に浮かんでいた怯えの色は、戦闘の高揚感へと完全に塗り替えられ、その奥では、狂気的な光が爛々と輝いていた。
一体の騎士の腕を斬り飛ばし、返す刀で胴体を真二つにする。黒い液体が噴水のように吹き出し、彼女の真紅の髪と、銀色の鎧をまだらに染め上げた。だが、彼女はそれを拭おうともせず、恍惚とした表情で、返り血を浴びていた。
「もっと、もっとだ……! これじゃあ、足りない!」
最後の一体を、彼女は嬲るように、少しずつ追い詰めていく。剣で鎧を剥がし、中の醜い肉をえぐり、その苦しむ様を、心底楽しんでいるかのように見つめている。
俺は、目の前で繰り広げられる光景が、信じられなかった。
あれは、本当にルシアなのか。
俺の知っている彼女は、こんな戦い方をする人間ではなかったはずだ。彼女は、没落した家の再興のために、武勲を立てることに固執していた。戦いは、彼女にとって目的を達成するための手段であり、決して目的そのものではなかったはずだ。
だが、今の彼女は、戦うという行為そのものに、純粋な喜びを見出しているようにしか見えない。
この町が、彼女を変えてしまったのか。
この忌鳴町という異常な環境が、彼女の内面に潜んでいた、破壊への渇望とでもいうべき本性を、無理やり引きずり出してしまったのではないか。
俺は、錆びた騎士たちに向けられていたものとは、全く質の違う、底冷えのするような恐怖を感じていた。目の前で、信じていた仲間が、全くの別人に変貌していく。その過程を、ただ無力に見ていることしかできない。その事実は、どんな強力な魔物と対峙するよりも、俺の精神を深く削り取っていった。
やがて、最後の一体が、彼女の容赦ない剣撃の前に、ただの鉄屑と肉片の山と化した。
戦いは、終わった。
あたりには、破壊された騎士たちの残骸が、無残な姿で転がっている。
その中央に、ルシアは立っていた。
肩で大きく息をしながら、その表情は、疲労ではなく、至上の喜びに満たされている。その瞳は、血走っており、焦点が合っていない。彼女は、まだ戦いの興奮から抜け出せていないのだ。
「ルシア……もう、終わりだ」
俺は、ためらいがちに、彼女に声をかけた。
彼女は、ゆっくりと、ぎこちない動きでこちらを振り返る。その顔にべったりと付着した黒い液体が、まるで不気味な化粧のように見えた。
「……ああ、レンか。見たか? 私の戦いを。こいつら、歯ごたえがあって、最高だぜ」
その言葉は、俺の胸に、冷たい杭のように突き刺さった。
もはや、彼女の中から、恐怖という感情は抜け落ちてしまっている。代わりにそこを満たしているのは、より強い刺激を、より激しい戦いを求める、危険な渇望だけだった。
俺は、返り血に濡れたまま恍惚と笑う彼女の姿から、目をそらすことができなかった。




