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第三話

 どれだけ走っただろうか。

 肺が焼けつくように痛み、足は引きずるように重い。口の中に広がる血の味は、自分のものか、それともこの狂った世界の空気そのものに含まれているのか、判別もつかなかった。ただ、あの喫茶店から、あの電源の繋がっていないテレビが映し出す悪夢から、一秒でも遠くへ逃れたいという一心だけが、俺の体を突き動かしていた。ザーッという耳障りなノイズと、輪になって無感情に踊る子供たちの姿が、瞼の裏に焼き付いて離れない。あれは、ただの映像ではない。もっと冒涜的で、根源的な恐怖を伴う、呪いのような何かだ。理屈ではなく、魂がそう叫んでいた。


 息が続かなくなり、俺はついにアスファルトの上で膝に手をついた。ぜえ、はあ、と荒い呼吸が、静まり返った霧の中に虚しく響き渡る。魔導ライフルを握りしめたまま、どうにか顔を上げると、周囲の景色がゆっくりと視界に流れ込んできた。相変わらず、世界は乳白色の帳に閉ざされている。だが、先ほどまでとは少しだけ様子が違っていた。これまで俺が歩いてきたのは、家々が密集する住宅街だった。しかし、今は、視界の先にぼんやりと、いくつかの人工的な構造物の気配が感じられる。それは、建物というよりは、もっと開けた空間にある、何かだ。


 俺はふらつく足取りで、そちらの方へと歩を進めた。数メートルも歩かないうちに、霧の中に、赤く錆びついた鉄の柱が浮かび上がった。そこから鎖が垂れ下がり、その先には板状の座席がついている。ブランコだ。その隣には、奇妙な動物の形をした乗り物や、上下に動く板の遊具が見える。公園。俺の知識が、そう結論付けた。子供たちが遊ぶための、開かれた場所。しかし、そこに子供たちの姿はなく、歓声も聞こえない。聞こえるのは、俺自身の乱れた息遣いと、どこか遠くで、霧に湿った金属が軋むような、か細い音だけだった。


 俺は、まるで吸い寄せられるかのように、その公園へと足を踏み入れた。地面はアスファルトではなく、湿った土と、ところどころに生えた雑草に覆われている。足元がおぼつかない。あの喫茶店での出来事で、精神はひどく消耗していた。どこか、腰を下ろして少しでも休息を取れる場所はないか。そう思ってあたりを見回した時、公園の中央に設けられた、四角い木の枠で囲われた一角が目に入った。砂場だ。


 だが、その砂場は、異様だった。

 子供が城でも作って遊んだ跡があるわけではない。そこには、一本の棒のようなもので描かれたであろう、巨大で複雑な紋様が、砂場全体に広がっていた。それは、直線を主体とした幾何学的な図形だった。いくつもの円が重なり合い、それを貫くように鋭角な三角形が配置されている。俺が知る魔法陣の様式とは全く異なる。魔法陣というものは、術者の魔力を増幅させ、特定の事象を引き起こすための、いわば精密な回路図だ。その構成には厳格な法則性がある。しかし、目の前の紋様は、そうした理論的な美しさとは無縁の、どこか原始的で、禍々しいほどの執念のようなものが込められているように見えた。まるで、世界の理を捻じ曲げてでも、何かを呼び出そうとする、強い意志の表れのようだった。


 俺は、その紋様に引きつけられるように、ゆっくりと近づいた。

 誰が、何のために、こんなものを。

 新聞記事にあった、失踪した子供たちのことが、再び頭をよぎる。あの不気味な輪舞の映像と、この紋様は、無関係ではない。そんな確信めいた予感が、胸の内で渦を巻いていた。


 そして、俺は気づいた。

 その複雑な紋様が描かれた砂場のすぐ脇に、ぽつんと、何かが置かれていることに。


 それは、黒い革で作られた、古めかしい鞄だった。小学生が背負う、硬質な蓋のついた鞄。俺の知識は、それを『ランドセル』と呼んだ。それは、まるでついさっきまで誰かがそこにいたかのように、忘れ物として置かれていた。しかし、その表面には、この濃霧の中にあるにもかかわらず、水滴一つついていない。埃をかぶってはいるが、不自然なほどに乾いていた。この世界の物理法則が、ここでもまた、ねじれている。


 俺はしばらくの間、その鞄を遠巻きに眺めていた。

 触れるべきではない。直感がそう告げている。あのテレビと同じだ。関われば、またろくでもないことに巻き込まれる。だが、同時に、強い好奇心と、そして何よりも、この状況を打開するための手がかりがそこにあるかもしれないという、捨てきれない期待が俺をその場に縛り付けていた。仲間たちを探し出すためにも、この世界の謎を解かなければならない。そのためには、情報が必要だ。どんなに危険な情報だとしても。


 数分間の葛藤の末、俺は覚悟を決め、その鞄の前に屈み込んだ。革はひび割れ、金属の留め具は錆びついている。俺はためらいがちに指を伸ばし、その留め具に触れた。パチン、という乾いた音が、やけに大きく空間に広がった。ゆっくりと蓋を開けると、中から、カビと古い紙の匂いが立ち上った。


 中には、数冊の教科書と、ノートが乱雑に詰め込まれていた。そのどれもが、黄ばんでページの角が折れ曲がっている。俺は、その中から一番上にあった国語の教科書を、慎重に手に取った。表紙をめくると、最初のページの見開きに、持ち主の名前を記入する欄があった。そこには、子供の、たどたどしいながらも、力強い筆跡で、名前が書かれていた。


 『天ヶ瀬』


 その姓を目にした瞬間、俺の思考が、一瞬、白く染まった。

 天ヶ瀬。それは、俺が『レン・ヴァルムント』として転生する前の、俺自身の姓だったはずだ。天ヶ瀬蓮。その知識は、感情を伴わないデータとして、確かに俺の頭の中に存在している。だが、それはあくまで知識であり、俺自身の実感とは程遠いものだった。しかし、今、目の前に、その姓が、物的な証拠として突きつけられている。


 偶然か? この忌鳴町に、天ヶ瀬という姓を持つ子供がいただけなのか?


 俺は、他の教科書も手に取り、名前の欄を確認した。算数、理科、社会。その全てに、同じ筆跡で『天ヶ瀬』とだけ書かれていた。下の名前は、どこにもない。


 俺は、鞄の奥底に、教科書とは違う、一枚の硬い紙片が入っているのに気づいた。指先で慎重につまみ出すと、それは一枚の写真だった。セピア色に変色した、古い写真だ。角は丸くすり減り、表面には細かな傷が無数についている。


 そこに写っていた光景を見て、俺は呼吸を忘れた。


 鬱蒼とした森の中、注連縄が張られた巨大な岩の前で、一人の男が、こちらを見据えて立っていた。男は、黒い袴に白い上衣という、神職の者が着るような伝統的な衣装を身につけている。その顔立ちは、写真の劣化ではっきりとは分からない。だが、その佇まい、その雰囲気から、俺は直感した。間違いない。あの喫茶店のテレビに映っていた、子供たちの輪舞と一緒にいたのは、この男だと。


 写真の中の男は、表情に乏しく、その目がどこを見ているのかも定かではない。だが、その姿からは、ある種の揺るぎない信念のようなものが、静かに発散されているように感じられた。

 なぜ、こんな写真が、子供の鞄の中に。疑問が頭を占める中、俺は無意識に、その写真を裏返した。


 裏面には、インクが滲んだ、細いペンで書かれた文字があった。


 『忌柱奉鎮祭いばしらほうちんさい準備 昭和六十三年』


 そして、その下に、署名のように、一つの名前が記されていた。


 『天ヶ瀬 蓮』


 その三つの文字が、俺の網膜を焼いた。


 天ヶ瀬蓮。あまがせ、れん。前世の名前。知識としてだけ存在していたその名前が、今、確かな質量を持って、俺の目の前に現れた。それは、偶然の一致などという生易しいものではない。この写真は、この鞄は、この場所は、明確な意志を持って、俺をここに導いたのだ。


 全身から、急速に血の気が引いていくのが分かった。手足の先が氷のように冷たくなり、指一本動かすことができない。写真の中の男。天ヶ瀬蓮。それが、俺だというのか。俺自身の前世の姿だというのか。


 違う。俺はレン・ヴァルムントだ。ブリタニア帝国の辺境伯の次男で、パーティーを率いる冒険者だ。天ヶ瀬蓮としての記憶はない。俺の記憶にあるのは、科学や物理の法則、歴史の知識だけだ。個人的な体験も、感情も、何一つ思い出せない。だから、これは何かの間違いだ。俺は、そう必死に自分に言い聞かせようとした。


 だが、心の奥底で、一つの声が聞こえる。お前は、知っていたはずだ、と。この町の名前を聞いた時の、あの不快な感触。喫茶店のテレビが映し出した光景への、生理的な嫌悪感。それらは全て、お前の魂が、失われた記憶の断片に反応していた証拠なのだ、と。


 答えの出ない問いと、拭い去ることのできない恐怖が、俺の精神を蝕んでいく。俺は誰なんだ。俺は、なぜここにいるのだ。


 手にした写真が、まるで呪いの札のように重く感じられた。俺はそれを鞄の中に投げ戻し、よろよろと立ち上がった。そして、砂場の異様な紋様と、そこに置かれた古い鞄を、もう一度だけ振り返る。


 そこは、俺の失われた過去の、墓標のように見えた。


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