第二話
どれほどの時間、この乳白色の海を漂流しただろうか。時間の感覚はとうに麻痺していた。
一歩、また一歩と湿ったアスファルトを踏みしめるたびに、靴底が粘つくような音を立てる。
それが、この静寂すぎる世界で唯一、俺の存在を証明する音だった。背負った魔導ライフルの硬質な感触だけが、俺が何者であるかの最後の砦であるかのように、意識の片隅にぶら下がっている。
思考はまとまらず、ただ歩くという行為だけが、目的もなく繰り返される。仲間たちの姿を求めて、何度もあたりに目を凝らしたが、視界を遮る濃密な霧は、無慈悲に世界のすべてを覆い隠していた。
ルシア、イリス、シルヴィア。
彼女たちの名を呼ぶ。返事は、もちろんない。
その事実が、冷たい石のように胃の腑に沈んでいく。
俺は本当に一人きりになってしまったのだろうか。そんな弱音が頭をもたげるたびに、俺はかぶりを振ってそれを追い払った。
リーダーが、こんなことでどうする。仲間を見つけ出すんだ。
そして、この不可解な状況を打開する。それだけが、今の俺にできる全てだった。
歩き続けるうちに、空腹と渇きがじわじわと体力を削っていく。
冒険者としての訓練である程度の飢餓には耐性があるが、精神的な消耗がそれに拍車をかけていた。
◇
不意に、霧の向こうに、ぼんやりとした灯りが見えた。
それは、これまで時折見かけた自動販売機の無機的な光とは異なり、どこか温かみのある、弱々しい橙色の光だった。
人の気配か?
俺は即座に身構え、魔導ライフルを背中から下ろすと、慎重にその光へと歩を進めた。
希望と警戒が胸の中でせめぎ合う。もし人がいるのなら、情報を得られるかもしれない。だが、この霧に包まれた世界で、無防備に明かりを灯している存在が、友好的である保証はどこにもない。
光に近づくにつれて、一つの建物の姿が霧の中からゆっくりと姿を現した。
それは、古びた喫茶店だった。焦げ茶色の木材で造られた壁、色褪せた緑色の屋根。軒先には、『喫茶 コーヒーパラダイス』と、色あせた看板が掲げられている。店の正面には、食品サンプルが並べられたガラスケースがあったが、中のナポリタンやクリームソーダの模型は、色も薄れてしまっている。
店の入り口である木製の扉は、数センチほど開いており、その隙間から、あの橙色の光が漏れ出ていた。
俺は扉の前で足を止め、中の様子を窺った。
物音一つしない。人の話し声も、食器の触れ合う音も聞こえない。ただ、静寂があるだけだ。罠である可能性も捨てきれない。
しかし、このまま霧の中を彷徨い続けるよりは、店内に入ったほうが良いだろう。
俺は意を固め、ライフルの銃口を前に向けたまま、軋む音を立てないようにゆっくりと扉を押し開け、中へと足を踏み入れた。
カラン、とドアベルが乾いた音を立てた。その音さえも、すぐに店内の濃密な沈黙に吸い込まれていく。
内部は、外観から想像した通り、時代がかった空気に満ちていた。
使い込まれて黒光りする木のカウンター、破れた赤いビロード張りの椅子、壁にかかった振り子式の柱時計。
そして、鼻をつくのは、古い木の匂いと、微かな珈琲の残り香、そして、澱んだ雰囲気だった。
ここも、誰もいない。客も、店主の姿も見当たらなかった。
綺麗に片付いてはいるため、ここには生活の気配というものが全く感じられない。
俺は店の隅にあるテーブル席に、用心深く腰を下ろした。ひとまず、霧から逃れられただけでも、精神的にはいくらかましだった。
バックパックから水筒を取り出し、残りの水を一口だけ含んで乾いた喉を潤す。
これからどうするべきか。情報を集めるにしても、その手がかりが何一つない。
途方に暮れかけたその時、ふと、カウンターの端に置かれた新聞の束が目に入った。
俺は席を立ち、その新聞に近づいた。何部も重ねられたそれは、全体的に黄ばんでおり、紙の端は脆く崩れかけている。一番上にあった一部を、慎重に手に取って広げた。そこに印刷された日付を見て、俺はわずかに目を見張った。今から二十年以上も前の日付だ。こんな古い新聞が、なぜ店のカウンターに無造作に置かれているのだろう。
紙面に目を通していくと、社会情勢やテレビ番組の広告など、俺の『知識』にはあるが、実感の伴わない情報が並んでいる。その中で、一つの記事が、俺の注意を引きつけた。それは、社会面の片隅に追いやられた、小さな三段記事だった。
『忌鳴町連続児童失踪事件、捜査は暗礁に』
その見出しを目にした瞬間、俺の頭の奥で、何かが軋むような音がした。知らないはずの地名。だが、その響きは、心の奥底に沈殿していた澱を、ゆっくりと掻き混ぜるような、不快な感触を伴っていた。忌み、鳴く、町。その字面が持つ不吉さが、じわりと肌にまとわりついてくる。俺は、記事の本文に目を走らせた。
『……今月に入り、忌鳴町内で発生している連続児童失踪事件は、依然として解決の糸口が見えないままである。先月二十五日に、町内の公園で遊んでいたA君(当時七歳)が忽然と姿を消して以来、行方不明となった児童は、これで五人目となる。警察は、何者かによる連続誘拐事件の可能性が高いと見て捜査本部を設置し、聞き込みや検問を続けているが、いずれの現場にも有力な物証や目撃情報は残されておらず、捜査は難航している。失踪した児童たちに共通点は見られず、犯人像の特定には至っていない。相次ぐ子供の失踪に、町の住民たちの間には、深刻な不安が広がっており……』
俺は記事から顔を上げた。この町の名は、忌鳴町。そして、二十年以上前に、ここでは子供たちが次々と姿を消すという、痛ましい事件が起きていた。偶然だろうか。いや、この世界で起こることに、偶然などないのかもしれない。この場所は、この町は、過去の悲劇の上に成り立っているのだろうか。俺たちが迷い込んだことと、この事件は、何か関係があるのか。
思考に沈み込んでいた、その時だった。
ジジ……ッ。
静まり返っていた店内に、不意に、ノイズが走った。俺ははっとして音のした方へ視線を向ける。それは、店の隅に置かれた、旧式のブラウン管テレビから発せられていた。今まで、ただの置物としか認識していなかった、家具調の木枠に収まった年代物のテレビだ。その画面が、暗闇の中でぼんやりと光を発し始めた。
砂嵐。ザーッという耳障りな音と共に、白と黒の無数の点が、画面の中で激しく蠢いている。なぜ? 誰もいないこの店で、誰がテレビをつけたというんだ。俺は魔導ライフルを握りしめ、ゆっくりとテレビに近づいた。
砂嵐の向こう側で、何かの像が結ばれようとしていた。それは徐々に形をなし、不鮮明ながらも、人の姿であることが分かってくる。それは、まるで古い記録映像のようだった。画質は悪く、所々で画面が揺れている。映し出されているのは、森の中のような場所だった。木々に囲まれた、開けた土地。そして、そこに、数人の子供たちと、それを遠くから見ている一人の男性。
その男性は黒い袴に白い上衣を着ているように見えた。その近くにいる子供たちは、手と手を取り合って、一つの輪を作っていた。そして、ゆっくりと、まるで何か儀式でも執り行うかのように、輪舞を踊っている。顔は、映像の不鮮明さ故にはっきりとしない。だが、その動きは、子供らしい無邪気さからは程遠い、どこかぎこちなく、定められた手順をなぞるような、無感情なものに見えた。音声はない。ただ、ザーッというノイズだけが、その不気味な光景に重なっていた。
俺の全身の皮膚が、粟立つのを感じた。新聞記事の内容が、脳裏をよぎる。失踪した子供たち。まさか、この映像は……。言いようのない悪寒が、背骨を駆け上った。これは、見てはいけないものだ。直感が、警鐘を鳴らしている。
俺は衝動的に、この映像を止めなければならないと感じた。テレビの側面についている、チャンネルを回すためのダイヤルや、音量調節のつまみを捻ってみるが、何の反応もない。映像は、ただ淡々と、子供たちの無気味な踊りを映し続けている。ならば、電源を。俺はテレビの裏側に回り込み、壁のコンセントからプラグを引き抜こうと、手探りで電源コードを探した。
指先に、埃をかぶったビニールのコードが触れた。俺はそれを掴み、壁のコンセントへと辿っていく。だが。
俺の指が掴んでいる電源コードの先にあるプラグは、どこにも接続されることなく、力なく床の上に転がっていた。
電源コードは、コンセントに刺さっていない。
その事実に気づいた瞬間、俺の思考は、完全に停止した。ありえない。電源が入っていないはずのテレビが、なぜ。物理法則を無視した現象。それは、俺がこれまで培ってきた知識や理性を、根底から覆すものだった。
ザーッという砂嵐の音が、急に大きくなった気がした。画面の中で踊る子供たちの姿が、こちらを、俺を見ているような錯覚に陥った。
この空間そのものが、俺を捕らえようと、牙を剥いているのだ。
俺の体は、思考よりも先に動いていた。理屈ではない、生存本能からの命令だった。テレビから飛びのき、椅子を蹴倒し、カウンターに手をついて乗り越える。そのまま、店の入り口へと、もつれる足で突き進んだ。
カラン、とけたたましい音を立ててドアベルが鳴る。俺は転がり込むようにして店の外へ飛び出した。背後で、あの不気味な映像がまだ流れ続けているような気がして、振り返ることさえできない。
再び、全身が冷たい霧に包まれる。だが、先ほどまで感じていた霧への不快感は、もはやなかった。あの店の中に比べれば、この霧の中の方が、よほど安全な場所に思えた。
俺は、ただひたすらに走った。どこへ向かうという当てもなく、あの喫茶店から、あの映像から、一刻も早く離れたい一心で、霧の中を駆け抜けた。




