第十一話
銃口。
黒く、冷たい円。その奥には、俺の命を終わらせるための、絶対的な意志が込められている。俺が立っている祭壇から、本殿の入り口に立つシルヴィアまでは、かなりの距離があった。だが、その距離が、まるで存在しないかのように、彼女が構える拳銃の先端は、俺の眉間の一点に、寸分のぶれもなく固定されていた。まるで、俺と彼女の間に、見えない鋼鉄の線が一本、ぴんと張り渡されているかのようだ。その線を伝わって、彼女の殺意が、ひりひりと肌を刺す。
天ヶ瀬蓮。あなたという、世界を蝕む病巣は、私が、ここで完全に摘出する。
彼女の言葉が、音を失った本殿の空間で、いつまでも反響を続けていた。病巣。そうだ、俺は病巣なのだ。この世界を、そこに生きる人々を、自らの歪んだ思想で汚染しようとする、悪性の腫瘍。そして、彼女は、その腫瘍を摘出しようとする、冷徹な外科医。彼女の黄金の瞳には、かつての仲間に対する情など、もはや一片も残されてはいない。ただ、目的を遂行するためだけの、無機質な光があるだけだった。
「レン様……?」
俺の腕にすがりついたまま、イリスが不安げな声を発した。彼女は、俺の心の中に、シルヴィアの言葉によって打ち込まれた楔が、確かな亀裂を生み出していることを、敏感に察知していた。俺の身体は、動かなかった。天ヶ瀬蓮としての強固な意志が、レン・ヴァルムントとしての最後の理性に、その動きを阻害されている。救済か、終焉か。二つの概念が、俺の中で激しくせめぎ合い、思考を麻痺させていた。
「いけません、レン様! 惑わされてはなりません! あれは、救いを理解できぬ、哀れな魂の断末魔に過ぎません! さあ、早く! 大いなる御心と、一つに!」
イリスが、ほとんど叫ぶようにして、俺の腕を強く揺さぶった。彼女の狂信が、俺の迷いを断ち切ろうとする。その必死な声が、天ヶ瀬蓮としての俺に、再び力を与えようとしていた。そうだ、シルヴィアは、ただの抵抗者に過ぎない。個という名の病に侵された、救われるべき対象。彼女の言葉に、意味などない。俺が成そうとしていることこそが、絶対の真理なのだ。
俺が、再び、祭壇の『忌音』へと意識を集中させようとした、その瞬間だった。
「……愚かな」
イリスが、シルヴィアに向かって、侮蔑に満ちた声を投げつけた。彼女は俺の腕を離すと、まるで俺を背後から守るかのように、一歩前に出た。その姿は、もはや聖女のものではなく、自らの神を守るために、異教徒と対峙する狂信的な巫女そのものだった。
「あなたも、あの騎士と同じ道を辿りたいと申すのですね。自らの矮小さに気づかぬまま、大いなる流れに抗い、無意味に滅び去ることを、選ぶというのですか」
「無意味かどうかは、私が決める」
シルヴィアの返答は、短く、そして揺るぎなかった。
「私は、私の意志で、ここに立っている。誰かに与えられた救済など、たとえそれがどれほど甘美なものであろうと、私には不要。私は、私として生き、そして、私として死ぬ。あなたたちのように、思考を放棄し、安易な全体論に魂を売り渡すくらいなら、孤独な抵抗者として、ここで朽ち果てる方が、よほどまし」
「……そうですか。ならば、その愚かな個が、大いなる全体の前に、いかに無力であるか、その身をもって、教えて差し上げましょう」
イリスの口調が、温度を失った。彼女はゆっくりとシルヴィアに背を向けると、祭壇の『忌音』の前に、再び深くひざまずいた。そして、その両手を、脈打つ肉塊の、ぬめりを帯びた表面に、そっと置いた。
「ああ、我らが母なる御心よ。今、ここに、あなたの安寧を乱す、不浄なる者がおります。どうか、我に、その大いなる力の一端をお貸しください。その穢れた魂に、神罰を下すための、聖なる鉄槌を」
彼女の祈りは、もはや癒しを求めるものではなかった。それは、破壊を、そして、鏖殺を願う、呪詛そのものだった。
その呪詛に、背後で脈動していた『忌音』が、呼応した。
ドクン、という鼓動の間隔が、急速に短くなっていく。ドクン、ドクン、ドクンドクンドクン……! まるで、暴走を始めた機械のように、その律動は激しさを増し、本殿の床板が、ビリビリと細かく振動を始めた。肉塊の表面を走る青黒い血管が、今まで以上に大きく膨れ上がり、今にも破裂しそうなほどに、赤黒く変色していく。本殿の中を満たしていた、古びた木の香りと線香の香りは、急速に後退し、代わりに、あの、病院で感じた、鉄と血と腐肉がまじりあった、吐き気を催すような異界の空気が、その濃度を増していった。
何かが、生まれようとしている。
俺は、祭壇の上で、その悍ましい誕生の瞬間を、固唾をのんで見守っていた。
『忌音』の表面の一点が、大きく、水ぶくれのように膨れ上がった。それは、みるみるうちに大きくなり、やがて、その薄い皮膜を、内側から、何か鋭利なものが突き破った。
パリ、という乾いた音と共に、皮膜が裂ける。
そこから、ぬるり、と姿を現したのは骨だった。人間のものとは明らかに違う、どこか昆虫の外骨格を思わせる、鋭く、歪な形状の乳白色の骨。それは、まるで、悍ましい植物が芽吹くかのように、ゆっくりと、だが着実に、肉塊の中から伸びてくる。次々と、関節が形成され、筋繊維のようなものが、その骨に絡みついていく。それは、生命の誕生という、神聖な過程への、冒涜そのものだった。無から有が生まれるのではない。ただ、そこにある肉と骨を、悪意を持って、無理やり組み上げているだけだ。
数秒後、それは、完全にその姿を現した。
『忌音』の側面から生えた、一体の、異形の怪物。
それは、人の形を、悪意を持って模倣したかのような姿をしていた。細く、長い、蜘蛛のような四肢。その関節は、本来あるべき方向とは逆向きに折れ曲がっている。胴体にあたる部分は、肋骨がむき出しになった鳥かごのようで、その中では、青白い光が、心臓のように明滅していた。そして、一番悍ましいのは、その頭部だった。そこには、顔と呼べるものはなく、ただ、いくつもの、錆びついた手術用のメスが、花弁のように、放射状に突き出しているだけだった。
怪物は、母体である『忌音』からその身を完全に引きはがすと、ぎこちない動きで、床に降り立った。カシャ、カシャ、と骨と金属が擦れ合う、不快な音が響く。そして、そのメスでできた顔を、ゆっくりと、本殿の入り口に立つ、シルヴィアの方へと向けた。
一体だけでは、なかった。
『忌音』の、別の場所が、また膨れ上がる。そして、そこから、また一体、新たな怪物が、同じようにして、生まれ出てくる。その姿は、先ほどのものとは、また少し違っていた。今度の個体は、両腕が、骨を削って作られた、巨大な鎌のようになっていた。
一体、また一体と、悪夢が、次々と、現実の世界へと、産み落とされていく。
その光景を前にしても、シルヴィアは、動じなかった。彼女は、静かに、拳銃の撃鉄を起こすと、その銃口を、一体目の怪物の、胴体で明滅する青白い光へと、正確に合わせた。
「……悪趣味な神」
彼女は、誰に言うでもなく、そう呟いた。
そして、戦いの火蓋は、切って落とされた。
◇
最初に動いたのは、シルヴィアだった。
パンッ、という鋭い破裂音が、再び本殿に轟いた。彼女が放った一弾は、寸分の狂いもなく、一体目の怪物の、肋骨の中で明滅する光を撃ち抜いた。パリン、とガラスが砕けるような音がして、光が弾け飛ぶ。光を失った怪物は、まるで糸が切れた木偶のように、その場に崩れ落ち、二度と動くことはなかった。
一撃。
弱点は、あの光。シルヴィアは、それを瞬時に見抜いたのだ。
だが、安堵する暇は、なかった。残りの二体、三体が、その仲間が倒されたのを意に介する様子もなく、シルヴィアに向かって、一斉に殺到した。その動きは、ぎこちないながらも、恐ろしく速かった。蜘蛛のような四肢で、床板を蹴り、壁を走り、天井を伝い、あらゆる角度から、シルヴィアへと迫る。
シルヴィアの身体が、躍動した。
彼女は、迫りくる一体の、鎌のような腕による薙ぎ払いを、ブリッジのような、常人には不可能な姿勢で、紙一重で回避する。そのまま、床に手をつくと、体を回転させ、起き上がりざまに、背後から迫っていた別の個体の光を、正確に撃ち抜いた。
銃声が、断続的に響き渡る。
それは、もはや戦闘というよりも、死と隣り合わせの、精密な舞踏のようだった。シルヴィアは、決して、その場に留まらない。常に動き続け、柱を盾にし、壁を蹴って跳躍し、怪物の攻撃範囲から、常に半歩だけ、外側に身を置き続ける。そして、その動きの中で生まれる、ほんの一瞬の隙を、決して見逃さず、確実に、敵の生命線である光を、破壊していく。
彼女の戦闘技術は、俺が知る中でも、群を抜いていた。ルシアの、荒々しくも力強い剣技とは、全く質の違う、効率と、合理性、そして、長い年月によって培われたであろう、圧倒的な経験に裏打ちされた、究極の体術。魔法が使えないという、最大のハンディキャップを、彼女は、純粋な技量だけで、完全に埋めていた。
「無駄です」
祭壇の下で、イリスが、静かに、そして冷たく、言い放った。
彼女は、目の前で繰り広げられる、シルヴィアの超人的な戦いを見ても、なお、その表情を変えなかった。
「いくら、その矮小な技で、神の尖兵を打ち破ろうと、母なる御心が、ここにある限り、その兵は、無限に生まれ続けます。あなたの魂が尽きるのが、先か。それとも、この世界の全ての魂が一つになるのが、先か。その結末は、すでに見えています」
その言葉を証明するかのように、『忌音』は、その脈動を止めることなく、次々と、新たな怪物を産み出し続けていた。一体倒せば、二体生まれる。二体倒せば、四体生まれる。その数は、ねずみ算式に、増えていく。本殿の、広かったはずの空間は、いつの間にか、カシャカシャと不快な音を立てて蠢く、骨と金属の怪物たちで、埋め尽くされようとしていた。
シルヴィアの呼吸が、わずかに、乱れ始めているのが、俺にも分かった。額には、玉のような汗が浮かび、その動きにも、先ほどまでの、完璧なまでの精密さが、少しずつ、失われつつあった。銃弾にも、限りがあるはずだ。彼女は、この絶望的な消耗戦の先に、勝利などないことを、誰よりも、理解しているはずだった。
それでも、彼女は、戦うことをやめなかった。
なぜだ。
なぜ、そこまでして、抵抗を続ける。
俺の、天ヶ瀬蓮としての意識が、彼女の行動を、理解できないでいた。無意味だ。無駄なことだ。諦めて、こちら側へ来れば、もう、苦しむこともないのに。戦う必要も、傷つく必要も、死ぬ恐怖に怯える必要もないのに。なぜ、自ら苦痛の道を選ぶのだ。
その問いに、答えるかのように、シルヴィアは、戦いの中で、一瞬だけ俺の方を見た。
その黄金の瞳が、俺を、真っ直ぐに射抜いた。
その目にあったのは、怒りでも、憎しみでも、憐れみでもなかった。
ただ、深い悲しみの色だった。
彼女は、俺が、天ヶ瀬蓮の狂気に、完全に呑み込まれてしまったことを、悲しんでいるのだ。かつて仲間と呼んだ、レン・ヴァルムントという男が、その魂を失ってしまったことを、悼んでいるのだ。
その視線が、俺の心の、一番奥深く、天ヶ瀬蓮の分厚い思想に覆い隠されていた、レン・ヴァルムントとしての、最後の意識に、突き刺さった。
やめろ。
やめてくれ、シルヴィア。
そんな目で俺を見るな。
俺は救いたいだけなんだ。
苦しみからの救済、なぜ分からない?
俺の中で、二つの人格が、激しく叫び合っていた。
ガキン、という鈍い音がした。
一体の怪物が振るった鎌が、シルヴィアの左肩を浅くではあるが、捉えたのだ。衣服が裂ける。そこから、鮮血が滲み出す。
ついに、彼女は、傷を負った。
その一瞬の隙が、命取りとなった。
シルヴィアの動きが、ほんのわずかに鈍る。その隙を、周囲の怪物たちが見逃すはずもなかった。彼女の周囲にいた全ての怪物が、一斉に距離を詰め、蜘蛛のような手足を持つ不気味な壁となって、彼女の退路を完全に断った。
もはや、逃げ場はない。
「……これで終わりです」
イリスが、勝利を確信した声で、宣言した。
怪物たちは、とどめを刺すべく、ゆっくりと包囲の輪を狭めてくる。
もう終わりだ。
誰もが、そう思った。
俺でさえも、シルヴィアの抵抗、その終焉を、どこか安堵するような気持ちで見つめていた。
これで終わりだ、と。
しかし、完全に包囲され、死を目前にした、その絶望的な状況下でシルヴィアは笑った。
それは、自嘲でも狂気の発露でもない。
誇りに満ちた、静かな笑みだった。
「レン…最後に伝えておく。私は二百年以上生きてきた。そこで、多くの悲劇を見てきた。しかし、この町で起きようとしていることは、それらすべてを超える破滅」
彼女の声は痛みにわずかに揺れながらも、その口調は最後まで冷静さを保っていた。
彼女の周りには、すでに七体ほどの異形の死骸が転がっている。しかし、さらに多くの存在が壁から生まれ、彼女を取り囲んでいた。
拳銃を握る腕は力なく垂れ下がり、足元は自らが流した血で濡れている。全身には無数の裂傷があり、翡翠色の長い髪は血で黒ずんでいた。
「エルフの森が失われたとき、私は生きる意味を見失った。でも、あなたたちとの旅路は…私に新たな希望を与えてくれた。だからこそ…個としての尊厳を奪われるわけにはいかない。最後まで抵抗する」
そう言った瞬間、シルヴィアの瞳が決意に満ちて輝いた。
彼女は、残された最後の力を振り絞り、その拳銃を、自らのこめかみに向けた。
「これが私の答え」
引き金が引かれた。
くぐもった銃声が、異形たちの不快な鳴き声の中に響く。
シルヴィアの身体が、無造作に床に崩れ落ちた。彼女の来ている緑色の衣服を中心に、血の海がゆっくりと広がっていった。
彼女は、もう二度と動くことはない。
「自らの命を絶つとは…愚かな。ですが、これで脅威は去りました」
イリスは、その亡骸を一瞥すると、無表情で言った。
「さあ、レン様。儀式を続けましょう。もう、妨げるものは何もありません」
彼女の声に導かれるように、俺は再び『忌音』に向き合った。
手を伸ばすと、その肉塊からは温もりが伝わってくる。それは、全ての生命の始まりを思わせる、根源的な脈動だった。
「すべては、万象帰一のために…」
俺が『忌音』に手を置くと同時に、イリスも反対側からそれに触れた。
「我らが魂を一つへ…」
彼女の祈りの声と共に、『忌音』からの力が爆発的に強まった。
床の紋様から赤い液体が溢れ出し、本殿の壁が完全に溶け始める。外界と内部の境界が消え、天井は赤黒く染まった空へと開いていった。
俺の意識は、急速に拡大し始めた。
身体の境界が曖昧になり、自己と世界の区別が薄れていく。これこそが、天ヶ瀬蓮が求めていた感覚だった。
その波動は町全体へと広がり、やがてその周辺、そして、世界へと。そのすべてを変容させていく。
レン・ヴァルムントとしての自己は、もはや取るに足らない小さな点に過ぎなかった。
重要なのは全体、統合された意識だけだった。
かつて忌鳴町だった場所は、もはや元の地球上の町ではなかった。それは思想が具現化された力の住処と化していた。
『万象帰一』は、ついに完成を迎えた。
すべての存在の境界が溶解し、個としての特性は失われ、全体との調和のみが残る世界。
それは苦しみも孤独もない世界だった。
そして同時に、自我や意志、それどこから時間や空間すらも意味をなさない世界でもあった。
過去も未来も、始まりも終わりもなく、すべては永遠の『今』という一点に集約された。
もはやここには因果も時間軸もなく、ただ永遠の循環がある。新たな魂が引き寄せられ、転生し、また、その中へと還っていく。
それは始まると終わりが同時に起きる点であり、すべての始まりであり終わりでもある永遠の場所となったのだ。




