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永遠の輪舞 〜異世界転生した俺は、真っ白な霧に閉ざされた日本の地方都市に迷い込んだ〜  作者: 速水静香


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第十話

 レン・ヴァルムントとしての最後の躊躇いといえば、あの長い石段の途中で、抜け殻のように剥がれ落ちてしまっていた。

 その窮屈な抜け殻から出てきたのは、天ヶ瀬蓮。この救済計画を成就させるためだけに存在する。

 いや、今の俺にも罪の意識は消えていない。むしろ、その悍ましさは、より深く、より鮮明に俺の魂に刻み込まれている。だが、その罪悪感こそが、俺を前へと進ませる、唯一の燃料となっていた。犠牲になった子供たちの魂を、意味のないものとして終わらせないために。彼らの苦しみを、壮大なる救済の礎として昇華させるために。俺は、この儀式を完成させなければならない。


 使命感が、俺の全身を、冷たい炎のように満たしていた。


 イリスは、俺の言葉に、感極まったように深く頷いた。彼女の涙に濡れた瞳は、救世主の降臨を目の当たりにした信徒のように、狂信的なまでの輝きを放っている。彼女は恭しく立ち上がると、俺の先導役を務めるかのように、本殿の重厚な木製の扉へと、静かに歩を進めた。


「こちらへ、レン様。祭壇は、この奥に」


 彼女が扉に手をかけると、それは、鍵もかかっていないのに、まるで意思を持って主を迎え入れるかのように、ぎい、と軋む音を立てて、ゆっくりと内側へと開いていった。扉の向こう側から、濃密な何かが流れ出してくる。それは、匂いではなかった。空気の密度そのものが違うかのような、圧倒的なまでの存在感。古びた木の香り、線香のような香り、そして、その奥に潜む、微かな、だが決して無視することのできない、生々しい血肉の気配。それらが渾然一体となって、俺たちの体を包み込んだ。


 俺たちは、その神聖にして冒涜的な気配が満ちる、本殿の内部へと、一歩、足を踏み入れた。

 内部は、想像していたよりもずっと広く、そして暗かった。高い天井は闇に溶け込み、その全容を窺い知ることはできない。外の霧の世界とは対照的に、空気はひどく乾燥している。床は、何百年もの間、無数の人々の足によって磨き上げられたのであろう、黒光りする板張りだった。俺たちが一歩進むごとに、ミシリ、と床板が沈む音が、この荘厳な沈黙の中で、やけに大きく響き渡る。壁際には、祭具と思われるものが収められたであろう、いくつもの箪笥が並んでいるが、その表面には、分厚い埃が、まるで灰色の雪のように降り積もっていた。


 ここは、長い間、誰にも足を踏み入れられていない、忘れ去られた聖域。

 だが、同時に、何かが、今この瞬間も、ここで生き続けている。

 その気配の源は、部屋の最奥にあった。

 そこだけが、ぼんやりと、内側から発光しているかのように、周囲の闇よりもわずかに明るい。そこに、祭壇があるのだ。

 俺とイリスは、まるで、見えない力に導かれるかのように、その光へと、ゆっくりと歩を進めた。近づくにつれて、あの生々しい気配は、より一層、その密度を増していく。そして、微かな音が聞こえ始めた。


 ドクン……ドクン……。


 それは、巨大な生物の、心臓の鼓動にも似た、低く、重い律動だった。その振動は、床板を伝わり、俺の足の裏から、全身の骨へと、直接響いてくる。この本殿そのものが、一つの巨大な生命体であり、俺たちは今、その心臓部へと向かっているのだ。


 やがて、俺たちは、祭壇の前にたどり着いた。

 そして、そこに鎮座する『それ』を目の当たりにして、俺は、しばし呼吸を忘れた。


 祭壇の上に安置されていたのは、神像でも、位牌でもなかった。

 それは、巨大な、心臓だった。

 いや、心臓という言葉だけでは、その悍ましさを到底、表現しきれない。人の背丈ほどもある、巨大な肉塊。その表面は、ぬめぬめとした粘膜に覆われ、そこには、青黒い血管が、まるで網の目のように、無数に浮き上がっている。そして、その肉塊は、先ほどから聞こえていた音の発生源そのものだった。ドクン、ドクン、と、一定のリズムで、ゆっくりと、だが力強く、脈動を繰り返している。そのたびに、表面の血管が、みみず腫れのように、大きく盛り上がる。

 それは、明らかに、生きていた。

 どこからか切り取られてきた臓器ではない。それ自体が、一個の独立した生命体として、この場所で、永い時を、生き続けてきたのだ。

 肉塊の上部からは、いくつもの、神経線維にも似た、半透明の管が伸び、天井の闇の中へと消えている。まるで、この本殿そのものから、養分を吸い上げているかのようだった。


 『忌音いみね


 天ヶ瀬蓮の記憶が、知識が、その名を俺に告げた。

 これこそが、『万象帰一』の儀式を執り行う上で、中核となる触媒。御霊代となった子供たちの精神を束ね、異界の力を増幅させ、この現実世界を侵食するための、強力な増幅器。

 俺は、その悍ましい存在を前にして、恐怖を感じなかった。むしろ、心の奥底から、深い安らぎとでも言うべき、奇妙な感覚が湧き上がってくるのを感じていた。懐かしさ。そうだ、これは、懐かしさなのだ。まるで、永い旅路の果てに、ようやく故郷へと帰り着いたかのような、そんな、倒錯した安堵感。俺の魂が、天ヶ瀬蓮の魂が、この『忌音』と、共鳴している。


「ああ……。これこそが、全ての魂が還るべき、原初の生命……。我らが母……」


 俺の隣で、イリスが、うっとりとしたため息を漏らした。彼女もまた、この『忌音』が放つ、冒涜的なまでの生命力に、完全に魅了されていた。彼女は、その場に深くひざまずくと、まるで神に祈りを捧げるかのように、その肉塊に向かって、両手を合わせた。


「レン様。さあ、祭壇へ。あなた様が、『斎主』として、この大いなる御心と、一つになるのです。そうすれば、儀式は、始まります」


 斎主。儀式を執り行う、最高責任者。その役割を担うのが、天ヶ瀬蓮であり、そして、その記憶と意志を受け継いだ、俺なのだ。

 俺は、こくりと頷いた。

 もはや、俺の中に、迷いは一片も存在しない。

 俺は、祭壇へと続く、数段の短い階段を、ゆっくりと上った。

 一歩、上るごとに、『忌音』の鼓動は、より大きく、より鮮明に、俺の全身に響き渡る。ドクン、という物理的な振動が、俺自身の心臓の鼓動と、完全に同調していくのが分かった。

 祭壇の上に立った俺は、ゆっくりと、その脈打つ肉塊へと、手を伸ばした。

 あと、数センチ。

 この指先が、あのぬめりを帯びた表面に触れた瞬間、全てが始まる。

 俺の意識は、『忌音』を介して、この町全体に、そして、かつて御霊代とされた子供たちの魂に、接続されるだろう。そして、俺は、俺の意志の力で、この忌鳴町という異界を、さらに拡大させ、やがては、俺たちが元いた異世界、そして、俺がかつて生きていた日本という国、その全てを、この『万象帰一』の法則の中へと、取り込んでいくのだ。

 そこには、もはや、個はない。

 ただ、一つの、完全なる調和だけが存在する、永遠の安息の世界。


 その、指先が、触れるか、触れないか、という、その刹那。


 カツン、という硬質な音が、静まり返っていた本殿の、入り口の方から、聞こえてきた。

 それは、この神聖な空間には、あまりにも不釣り合いな、無機質で、乾いた音だった。

 俺とイリスは、同時に、はっとして、その音のした方へ、振り返った。


 本殿の入り口。

 開け放たれた扉の向こう、逆光の中に、一つの人影が、静かに立っていた。

 細身で、しなやかな体躯。風もないのに、わずかに揺れる、美しい翡翠色の髪。

 その姿には、見覚えがあった。

 だが、その雰囲気は、俺たちが知る彼女とは、まるで異なっていた。

 彼女は、エルフの魔術師がまとうような、優雅なローブなど、身につけてはいなかった。動きやすそうな、黒を基調とした、実用的な衣服。その手には、杖など握られてはいない。代わりに、その右手には、冷たい鋼の輝きを放つ、一丁の、無骨な物体が、握られていた。

 それは、俺の前世の知識が、拳銃と呼ぶ、殺人のための道具だった。


「シルヴィア……」


 俺の唇から、その名前が、呟きとなって漏れた。

 最後の抵抗者が、そこにいた。



 シルヴィアは、何も言わなかった。ただ、その全てを見通すかのような黄金の瞳で、祭壇の上に立つ俺と、その足元で祈りを捧げるイリス、そして、俺たちの背後で、不気味に脈動を続ける『忌音』を、順番に、値踏みするかのように、ゆっくりと見渡した。その視線には、かつて仲間であった者に対する、情のようなものは、一片も感じられなかった。それは、駆除すべき害虫を前にした、衛生官の視線。あるいは、切除すべき腫瘍を前にした、外科医の視線。極めて冷徹で、非情な光をたたえていた。


「……裏切り者め」


 先に、沈黙を破ったのは、イリスだった。彼女はゆっくりと立ち上がると、シルヴィアに向かって、憎悪に満ちた視線を向けた。その表情は、もはや聖女のそれではない。自らの信仰を脅かす、異端者を前にした、審問官の顔だった。


「よくも、この神聖な場所へ、土足で踏み入れましたね。レン様の、そして、我々の、大いなる救済の儀式を、邪魔しようなんて。あなたも、あの愚かな騎士と同じように、自らの矮小な自我に囚われ、真理から目を背けるというのですか」

「救済」


 シルヴィアが、初めて、口を開いた。その声は、相変わらず、何の感情の起伏も感じさせない、平坦なものだった。


「あなたたちが、今、ここで、始めようとしていることは、救済などという、美しい言葉で飾れるものではない。それは、ただの終焉」

「何を……!」

「全ての個を、一つの全体へと回帰させる。聞こえはいい。しかし、その本質は、生命に対する、最大限の冒涜に他ならない。自我があるからこそ、我々は、喜びも、悲しみも、怒りさえも、感じることができる。他者と違うからこそ、そこに、愛が生まれ、絆が育まれる。その、生命が持つ、最も根源的で、美しい輝きを、全て否定し、ただ、意味のない、のっぺりとした一つの塊へと成り果てること。それを、救済と呼ぶのなら、あなたたちの神は、よほど、悪趣味な存在」


 シルヴィアの言葉は、淡々としていながら、一つ一つが、剃刀の刃のように、鋭く、研ぎ澄まされていた。彼女は、天ヶ瀬蓮が提唱した『万象帰一』という思想の、欺瞞を、その根底から、完璧に看破していた。


「黙りなさい、この異端者が!」


 イリスが、金切り声を上げた。


「あなたのような、理屈ばかりをこね回す、心なき者に、この崇高な思想が理解できるはずもありません!レン様!このような者の言葉に、耳を貸してはなりません! さあ、早く、儀式を!」


 彼女は、俺を振り返り、懇願するように叫んだ。

 だが、俺は、動かなかった。

 シルヴィアの言葉が、俺の中で、完全に消え失せていたはずの、レン・ヴァルムントとしての、最後の理性の欠片を、無理やり、揺り動かしていた。


 そうだ。彼女の言う通りだ。

 苦しみから解放される? 永遠の安らぎ? そんなものは、ただの、死だ。

 俺がしようとしていることは、世界を救うことなどではない。ただ、この世界に存在する、全ての生命を、俺自身の、悍ましい罪悪感に、巻き込んで、殺そうとしているだけではないのか。

 その行為を、『救済』という、都合のいい言葉に、すり替えようとしているだけではないのか。


「……違う」


 俺の口から、声が漏れた。


「俺は……俺は、ただ……」


 何を言おうとしたのか。自分でも、分からなかった。償いだと言おうとしたのか。それとも、これが宿命なのだと、言おうとしたのか。

 シルヴィアは、そんな俺の葛藤を、冷たい目で見つめていた。


「レン。あなたの中にいる、天ヶ瀬蓮という亡霊に、問うている。お前の、その独善的な思想は、結局のところ、ただの、現実からの逃避に過ぎない。自らの無力さを認められず、世界そのものを、自分の都合の良いように作り変えようとしているだけの、幼稚な願望だ。子供たちを犠牲にしてまで、お前が成し遂げたかったのは、そんな、ちっぽけなことだったのか?」


 その言葉は、俺の、心の、一番、痛い場所を、的確に、抉り出した。

 そうだ。

 天ヶ瀬蓮は、無力だったのだ。

 彼は、この、苦しみに満ちた世界を変えることができなかった。人々が、互いに傷つけ合い、憎しみ合う、その連鎖を、断ち切ることができなかった。だから、彼は、諦めたのだ。世界を変えるのではなく、世界そのものを、消し去ってしまうことを、選んだのだ。

 それは、救済などではない。

 ただの、敗北宣言だ。


「……ああ……ああああ……」


 俺の頭の中で、何かが、砕ける音がした。

 レン・ヴァルムントとしての俺が、天ヶ瀬蓮の思想に、最後の抵抗を試みている。

 違う。これは、救いじゃない。ただの、破壊だ。俺は、そんなことを、望んでいなかったはずだ。


 俺が、祭壇の上で、頭を抱えてうずくまった、その時だった。


「……レン様……?」


 イリスが、不安そうな声で、俺の名前を呼んだ。彼女は、俺の心に、迷いが生じ始めたことを、敏感に感じ取ったのだ。


「いけません、レン様! その女の、悪魔の囁きに、耳を貸しては!あなた様は、救世主なのです! その、偉大なる使命を、お忘れになったのですか!?」


 彼女は、俺の腕に、必死に、すがりついてきた。

 その、狂信的な瞳が、間近で、俺を見つめている。


 やめろ。

 俺は、救世主なんかじゃ、ない。

 ただの罪人だ。


 俺が、彼女を振り払おうと、身をよじった、その瞬間。


 パンッ、という乾いた破裂音が、本殿全体に、響き渡った。

 それは、俺が、今までに、一度も聞いたことのない、暴力的な音だった。


 シルヴィアが、手にしていた拳銃を、天井に向けて、発砲したのだ。

 威嚇射撃。

 その一発の銃声が、この場にいた、全ての動きを凍りつかせた。


 イリスは、驚きに目を見開いたまま、動きを止め、俺もまた、彼女を振り払うこともできず、その場で、固まった。

 本殿の入り口で、シルヴィアは、発砲した銃を、ゆっくりと、下ろした。

 硝煙の、微かな匂いが、鼻をつく。


 そして、彼女は、その銃口を、真っ直ぐに、俺たちの方へと、向けた。

 いや、違う。

 その照準は、イリスを通り越し、ただ一点。


 俺の眉間を、寸分の狂いもなく、捉えていた。


「言葉で分からないのなら、仕方がない」


 シルヴィアは、静かに、そう言った。

 その黄金の瞳には、もはや、何の感情も浮かんでいなかった。

 ただ、目的を遂行するためだけの、冷たい、機械のような光があるだけだった。


「天ヶ瀬蓮。あなたという、世界を蝕む病巣は、私が、ここで完全に摘出する」


 彼女は、かつて仲間だった俺に、その殺意の矛先を向けてきた。


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