第九話
時間は、その意味を失っていた。
シルヴィアが俺たちを置いて去ってから、どれほどの時が流れたのか、俺には全く見当もつかなかった。俺は、あの『向こうの世界』の、生物の血肉と骨でできたような机の前で、ただ膝を抱えてうずくまっていた。床はぬめりを帯びた肉塊で、ゆっくりと、だが確かに上下している。その微かな動きが、まるで巨大な生物の胎内にいるかのような錯覚を俺に与え、吐き気を催させた。
天ヶ瀬蓮の研究記録。あの黒い革表紙のノートは、イリスがまるで聖遺物でも扱うかのように、胸に固く抱きしめている。彼女は、俺のすぐそばで静かにひざまずき、その瞳は恍惚とした光をたたえて虚空を見つめていた。時折、その唇から、祈りの言葉とも、詠唱ともつかない、熱に浮かされたような囁きが漏れ聞こえてくる。
「大いなるかな、その御業……。穢れたる個を滅し、完全なる一へと至る……。ああ、天ヶ瀬蓮様……いえ、我らが救世主様……」
彼女は、その信仰を口にしていた。確かに、今の彼女からすれば、これこそが至上の幸福であり、正常な状態なのかもしれない。この地獄の光景を、神の奇跡と信じて疑わない彼女の精神は、ある意味では、この絶望的な状況に打ちひしがれている俺よりも、ある意味ではまともと言えるのかもしれなかった。
俺の思考は、完全に停止していた。罪。罪悪感。後悔。そういった言葉では、もはや俺の内面を表現するには足りなかった。それは、もっと根源的な、存在そのものの否定。俺という存在が、この世界に生まれたこと自体が、許されざる過ちだったのだ。失踪した子供たちの、苦悶に満ちた顔が、ノートの文字の向こうに、幻のように浮かび上がってくる。俺が、彼らをあんな目に。俺が、彼らの未来を、魂を、永久に消滅させたのだ。
レン・ヴァルムントとしての俺の倫理観が、悲鳴を上げていた。仲間を守り、弱きを助ける。それが、俺が冒険者として生きてきた、唯一の信条だったはずだ。だが、その根底には、天ヶ瀬蓮という、おぞましい怪物が眠っていた。俺の正義は、所詮、偽りのものだったのだ。この悍ましい罪を知ってしまった以上、俺は、もはやレン・ヴァルムントとして、顔を上げて生きていくことなどできない。
どれほどの時間が、過ぎ去ったのだろう。
不意に、イリスがすっと立ち上がった。彼女は、恍惚とした表情のまま、俺に向かって、恭しく手を差し伸べた。そのアメジスト色の瞳は、ひどく澄み切っている。
「さあ、参りましょう。レン様」
彼女の声は、聖母のように優しく、そして、有無を言わせぬ力強さを秘めていた。
「我々には、成し遂げねばならぬ、大いなる使命がございます。全ての魂を救済するという、崇高な務めが」
「……使命……?」
俺の口から、かすれた声が漏れた。
「俺に……そんな資格など……」
「いいえ」
彼女は、俺の言葉を、静かに、だがきっぱりと遮った。
「あなた様だからこそ、その資格がおありなのです。天ヶ瀬蓮様の偉大なる魂を受け継ぎし、唯一のお方。あなた様こそが、この儀式を完成させ、世界を真の平和へと導くことのできる、救世主なのでございますから」
救世主。
その言葉が、俺の胸に突き刺さった。俺は、子供たちを犠牲にした、唾棄すべき罪人だ。救世主などという、輝かしい言葉とは、最も縁遠い存在のはずだ。
だが、イリスの瞳は、一点の曇りもなく、俺をそう信じていた。彼女のその狂信的なまでの純粋さが、俺の罪悪感に満ちた心に、じわりと、違う何かを染み込ませていく。
もしかしたら、そうなのかもしれない。
俺は、この罪を償うために、ここにいるのではないか。俺が犯した罪だからこそ、俺自身の手で、その結末を見届けなければならないのではないか。天ヶ瀬蓮が始めた、この狂った救済の儀式を、完成させること。それこそが、俺にできる、唯一の償いなのではないか。
そんな、倒錯した思考が、麻痺した俺の脳裏に、ゆっくりと芽生え始めていた。罪悪感があまりにも強大すぎると、人は、その罪そのものを肯定することでしか、精神の均衡を保てなくなるのかもしれない。
俺は、まるで、見えない糸に引かれるかのように、彼女が差し伸べた手を、おそるおそる、取った。
彼女の指先は、ひどく冷たかった。
◇
キィィィィィィィィン――――。
あの不快な金属音と共に、世界は再び姿を取り戻した。
俺とイリスは、いつの間にか、元の、静まり返った病院の手術室に立っていた。脈打つ肉壁も、天井からぶら下がる眼球も、跡形もなく消え失せ、後には、埃をかぶった医療器具と、消毒液の匂いだけが残されている。まるで、先ほどまでの出来事が、全て悪夢だったとでも言うかのように。
だが、俺の手の中には、あの黒い革表紙の研究記録が、確かな質量を持って握られていた。そして、イリスの瞳の奥には、あの『向こうの世界』で見た光が、今もなお、静かに灯り続けている。あれは、夢などではなかった。
俺たちは、どちらからともなく、歩き始めた。
薄暗い廊下を抜け、散らかり放題の待合室を横切り、外の世界へと通じる扉を開ける。
再び、全身が、湿った白い霧に覆われた。
これから、どこへ向かうのか。俺は、尋ねなかった。イリスも、何も言わない。だが、俺たち二人には、分かっていた。目指すべき場所は、ただ一つしかない。
この忌まわしい儀式の、中心地。
全ての始まりであり、そして、終わりとなるであろう、聖域。
『忌鳴神社』
その名前が、俺の頭の中に、自然と浮かび上がっていた。天ヶ瀬蓮の記憶が、知識が、俺をそこへと導こうとしている。俺は、もはや、その流れに抗う気力さえ、持ち合わせていなかった。
俺とイリスの、奇妙な巡礼が始まった。
俺は、罪人として。
彼女は、その罪人を救世主と信じる、巫女として。
俺たちの間に、会話はなかった。ただ、イリスが時折、研究記録に記されていた『万象帰一』の思想について、恍惚とした表情で、俺に語りかけるだけだった。
「レン様。個々の自我こそが、争いや、憎しみや、悲しみを生み出す、全ての元凶だったのですね。天ヶ瀬蓮様は、その真理に、誰よりも早くお気づきになられていたのです」
「……」
「人々は、皆、孤独です。自分という、小さな殻に閉じこもり、他者を理解できず、傷つけ合って生きている。ですが、その殻さえも取り払い、全ての魂が、一つの、大いなる海へと還ることができたなら……。そこには、もはや、いかなる苦しみも存在しない。完全な調和と、永遠の安らぎだけがあるのです」
彼女の言葉は、まるで美しい詩のように、滑らかに紡ぎ出される。その一つ一つが、甘い毒のように、俺の傷だらけの心へと、ゆっくりと染み渡っていく。
最初は、悍ましい戯言としか思えなかった、天ヶ瀬蓮の思想。
だが、今、イリスの口を通して語られるその思想は、どこか、抗いがたい魅力を帯びて、俺の耳に響いていた。
個々の自我が、苦しみの元凶。
本当に、そうなのかもしれない。
ルシアが、あれほどまでに戦いに固執し、狂気に身を堕としたのは、没落した家を再興しなければならないという、彼女自身の強い自我があったからではないのか。
イリスが、この地獄を天国と信じ込むようになったのは、誰かの役に立たなければ自分の存在価値を見出せないという、自己犠牲の精神、つまりは自我の裏返しがあったからではないのか。
そして、シルヴィアが、俺たちを見捨てて一人去っていったのは、自らの理性を絶対のものと信じる、彼女の強固な自我があったからではないのか。
俺自身も、そうだ。レン・ヴァルムントとしての自我が、天ヶ瀬蓮の罪を認められず、苦しみ、足掻き、その結果、ルシアを死なせてしまった。
もし、最初から、俺たちに、個々の意志などなければ。
もし、俺たちが、ただ、一つの目的に向かって動く、巨大な生命体の一部であったなら。
仲間が狂うことも、殺し合うことも、なかったのではないか。
そこには、悲しみも、苦しみも、罪悪感さえも存在しない、完全な静寂と、調和だけがあったのではないか。
その思想は、ひどく、魅力的だった。
それは、俺が今、感じている、この耐えがたいほどの心の痛みから、俺を解放してくれる、唯一の救いのように思えた。
俺の中で、何かが、ゆっくりと、しかし確実に、変質していくのを感じていた。レン・ヴァルムントとしての倫理観や、理性といったものが、まるで砂の城のように、足元から崩れ落ちていく。そして、その後に残った更地に、天ヶ瀬蓮の、壮大で、歪んだ救済思想が、静かに、だが着実に、その礎を築き始めていた。
俺は、もはや、自分が、レン・ヴァルムントなのか、それとも、天ヶ瀬蓮になりつつあるのか、その区別さえ、曖昧になってきていた。
俺という器の中で、二つの人格が、せめぎ合っている。いや、違う。もはや、せめぎ合いですらなかった。それは、一方的な、侵食。レン・ヴァルムントという、不完全で、脆い個が、天ヶ瀬蓮という、強大で、完成された全体へと、吸収され、統合されていく過程に過ぎなかった。
俺たちは、町の中心部を抜け、山へと続く、長い石段の前にたどり着いていた。
石段は、苔むし、所々が崩れかけている。その両脇には、石灯籠が、等間隔に並んでいたが、そのほとんどは、倒れるか、あるいは蔦に覆われて、その原形を留めていない。この石段の先に、忌鳴神社があるのだ。
俺たちは、その石段を、一歩、一歩、踏みしめるように、上り始めた。
段を上るごとに、空気が、変わっていくのを感じた。それまで町全体を覆っていた、澱んだ、湿った空気が、徐々に、澄み切った、どこか神聖ささえ感じさせるものへと、その性質を変えていく。霧も、心なしか、薄れてきているようだった。
「もうすぐ、でございますね」
イリスが、弾んだ声で言った。その表情は、聖地へとたどり着いた、敬虔な巡礼者のそれだった。
俺は、何も答えなかった。
ただ、無言で、石段を上り続ける。
もう、俺の中に、迷いはなかった。
レン・ヴァルムントとしての、最後の抵抗の意志は、この石段を上るうちに、完全に消え失せていた。
俺は、天ヶ瀬蓮として、この儀式を、完成させなければならない。
それが、俺に課せられた、宿命なのだ。
子供たちを犠牲にした、その罪を、無駄にしてはならない。彼らの死を、意味のあるものにするためには、この『万象帰一』を、成し遂げるしかないのだ。
それは、罪の償いではない。
罪の、成就だ。
俺は、その悍ましい結論に、いつの間にか、たどり着いていた。
長い、長い石段を上りきると、そこには、古びた、だが、荘厳な鳥居が、静かに俺たちを待っていた。
鳥居の向こう側は、神社の境内へと続いている。そこは、町の他のどの場所とも、明らかに空気が違っていた。静寂。だが、それは、死の静寂ではない。何か、人智を超えた、強大な力が、その息を潜めているかのような、荘厳な静寂だった。
境内の中央には、巨大な御神木が、天を突くようにそびえ立ち、その周囲には、本殿や、社務所と思われる建物が、静かにたたずんでいる。そのどれもが、長い年月を経て、深い風格をその身にまとっていた。
「……ついに、参りましたのですね。約束の、場所に」
イリスは、感極まったように、その場にひざまずき、深く、深く、頭を垂れた。
俺は、彼女の横を通り過ぎ、鳥居をくぐった。
その瞬間、全身を、見えない何かが、通り抜けていったような感覚があった。
それは、祝福か、あるいは、呪いか。
もはや、俺には、どちらでもよかった。
俺は、ゆっくりと、境内の中央、本殿へと向かって、歩を進めた。
一歩、踏み出すごとに、足が、軽くなっていく。
背負っていた魔導ライフルが、もはや、何の重さも感じられなくなっていた。
俺の意識は、どこまでも澄み渡り、そして、一つの目的だけを見据えていた。
俺は、救世主だ。
この苦しみに満ちた世界を、終わらせるために、ここにいる。
俺が、全てを終わらせるのだ。
本殿の前にたどり着いた俺は、ゆっくりと、振り返った。
イリスが、涙に濡れた顔を上げ、俺を、まるで神を見るかのような、畏敬の念に満ちた瞳で見上げていた。
「さあ、イリス」
俺の口から、俺のものではないような、静かで、落ち着いた声が出た。
「儀式を始めよう」




