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永遠の輪舞 〜異世界転生した俺は、真っ白な霧に閉ざされた日本の地方都市に迷い込んだ〜  作者: 速水静香


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プロローグ

 その回廊には、名前がなかった。

 少なくとも、俺たちがギルドで受注した依頼書には、そう記されていた。未踏破ダンジョン。発見者は、あまりの単調さに深部への到達を断念。内部構造、出現モンスター、トラップの類、その全てが不明。ただ一つ確かなことは、その入り口が、ブリタニア帝国辺境、忘れられた廃砦の地下深くに、ぽっかりと口を開けているという事実だけだった。高ランクの依頼ではなかったが、その未知数さに惹かれ、俺たちパーティー『暁光の翼』は、意気揚々とその謎めいた迷宮へと足を踏み入れたのだ。


 そして今、俺たちはその判断が、途方もない過ちであった可能性に直面していた。


「……おい、レン。正直に言ってくれ。私たち、本当に前に進んでるのか?」


 不機嫌さを隠そうともしない、苛立ちの滲む声だった。パーティーの先頭、その背に巨大な両手剣を背負った女騎士、ルシア・エヴァレットが、忌々しげに石壁を蹴りつけた。コツン、と硬質な音だけが響き、すぐに深淵のような沈黙に吸い込まれていく。彼女の燃えるような真紅の髪が、手に持った魔石灯の光を浴びて、まるで血のように揺らめいた。こんな所で足踏みしている暇はないのだと、その全身が叫んでいるかのようだ。


 俺は、彼女の問いに即答できなかった。リーダーとして、常に冷静で、的確な判断を下すのが俺の役目だ。だが、この状況下で、確信を持って何かを断言することなど、誰にもできはしないだろう。


「地図の上では、間違いなく。だが……」


 俺は手に持った羊皮紙に視線を落とした。同じパーティの魔法使いである、エルフのシルヴィア・フォレストウィンドが、歩きながら魔法で描き出していく、簡易的なマッピングだ。そこには、俺たちが進んできた軌跡が、一本の直線として、ただひたすらに伸びている。だが、その地図が示す情報と、俺たちの五感が捉える現実との間には、無視できないほどの大きな乖離があった。


 俺たちは、もうかれこれ半日以上、このダンジョンを歩き続けている。

 だというのに、目の前に広がる光景は、一歩足を踏み入れた瞬間から、何一つ変わっていなかった。

 幅は、屈強な男が三人並んで歩ける程度。高さは、ルシアが背負う両手剣の切っ先が、ようやく届くかどうか。床も、壁も、天井も、全てが同じ、継ぎ目のない、滑らかな灰色の石材で構成されている。魔石灯の光を鈍く反射するその石の表面には、傷一つ、模様一つない。まるで、巨大な一つの岩塊を、寸分の狂いもなくくり抜いて作られたかのようだ。


 そして、何よりも異常なのは、その『無』だった。

 ダンジョンと聞いて、冒険者なら誰もが思い浮かべるであろうものが、ここには一切存在しない。財宝も、トラップも、そして、魔物一匹さえも。ただ、この無機質で、特徴のない通路が、永遠に続いているだけ。聞こえるのは、俺たちの足音と、呼吸の音だけ。風の流れさえ感じられず、空気は澱み、まるで墓石の内部にいるかのような、息が詰まるほどの静寂が、俺たちの精神をじわじわと蝕んでいた。


「私の魔法探査に反応はない。生命の気配、魔力の流れ、物理的な罠の兆候。その全てが完璧な『無』」


 俺の背後から、凛とした、どこか体温を感じさせない声がした。シルヴィアだ。エルフ特有の美しい翡翠色の髪が、この色彩のない世界で唯一、鮮やかな色を放っている。その全てを見通すかのような黄金の瞳は、目の前の虚無を、まるで難解な数式でも解くかのように、冷静に分析していた。二百年以上の時を生きる彼女の叡智をもってしても、この空間は異質極まりないようだった。


「しかし、奇妙。このダンジョン、あまりにも…清潔」

「清潔?」


 ルシアが、訝しげに眉をひそめた。


「ああ、そうだろ? 普通、何百年も放置されてりゃ、埃くらい積もるもんだ。だが、見てみろよ。床も壁も、まるで昨日作られたみたいに、塵一つ落ちてねえ」

「それだけではない」


 シルヴィアは、すっと指先を石壁に滑らせた。その仕草は、まるで石の組成でも調べているかのようだ。


「空気の流れが皆無にもかかわらず、酸素濃度が低下する気配がない。我々の体温や魔石灯の熱も、この空間に蓄積されない。物理法則が、極めて限定的にしか機能していない可能性。まるで、この空間そのものが、我々の存在を拒絶、あるいは…無視している」


 シルヴィアの分析は、いつもながら的確だった。だが、その分析結果が、俺たちの不安を、より一層掻き立てる。法則が機能していない空間。それは、俺たちがこれまで培ってきた戦闘技術や、魔法の知識が、何の役にも立たない可能性を示唆していた。


「まあ、まあ、お二人とも。少し、落ち着きましょう。これも、きっと神がお与えになった試練の一つなのですよ」


 ふわりと、鈴を転がすような、柔らかな声が響いた。パーティーの癒し手、聖女イリス・セイクレッドだ。清らかな月光を思わせる銀色の髪と、アメジストのように澄んだ紫色の瞳を持つ彼女は、その場にいるだけで、張り詰めた空気を和らげる不思議な力を持っていた。彼女は、不安げな表情を浮かべる俺たち一人一人に、慈愛に満ちた微笑みを向ける。その微笑みは、かつて聖光帝国の皇女であったという彼女の気品と、純粋な信仰心から来るものだろう。


「きっと、この長い道のりの先に、我々の信仰心を試すに足る、素晴らしい答えが待っているはずです。そう信じて、もう少しだけ、頑張ってみませんか?」


 彼女の言葉は、乾いた心に染み渡る清水のようだった。ルシアも、少しだけ毒気を抜かれたように、ふう、と大きなため息をついた。


「……お前のそのお姫様育ちの暢気さには、たまに助けられるぜ。だがレン、もし日が暮れるまで、何の進展もなかったら、一度引き返すぞ。こんな場所で野営なんざ、ごめんだからな」

「分かっている」


 俺は頷き、再び前を向いた。

 仲間たちの不安を拭い、士気を保つのがリーダーの務めだ。俺が、しっかりしなければ。そう自分に言い聞かせながらも、俺の内心は、彼らと同じ、いや、あるいはそれ以上に、得体の知れない不安に苛まれていた。

 シルヴィアが指摘した物理法則の異常。それに、俺は、別の角度から気づいていた。俺は転生者だ。魔法が支配するこのブリタニア帝国で生まれ育ったが、その魂の根底には、『天ヶ瀬蓮』として、科学と物理法則に支配された日本という国で生きた記憶が、知識としてだけ残っている。

 その知識が、告げているのだ。この空間は、ありえない、と。

 完全な無音。それは、音が反響しないということだ。だが、この狭い石造りの通路で、音が反響しないなど、考えられない。俺たちの声は、まるで分厚い綿にでも吸い込まれるかのように、遠くまで届かずに消えていく。

 そして、視覚。どこまでも続く、直線。遠近感がおかしくなりそうだ。本来なら、遠くの景色は霞んで見えるはずだ。だが、この通路の先は、どれだけ目を凝らしても、寸分違わぬ鮮明さで、同じ灰色の壁が続いているように見える。まるで、一枚の絵画の中を、歩いているかのようだ。

 ここは、ダンジョンなどではない。

 もっと別の、何かだ。

 俺たちの常識や理性が、全く通用しない、異質な法則で構築された、何か。そんな、悍ましい予感が、心の奥底で、冷たい靄のように渦巻いていた。



 それから、さらに数時間が経過した。

 時間の感覚は、もはや曖昧だった。太陽も月もないこの地下迷宮では、体感時間だけが、唯一の指標だ。そして、その体感時間は、この単調極まりない景色によって、ひどく引き延ばされているように感じられた。

 俺たちは、黙々と歩き続けていた。あれだけ不満を漏らしていたルシアも、今はもう、何も言わなくなった。いや、言えなくなった、という方が正しいのかもしれない。無意味な会話は、ただ体力を消耗させるだけだということを、誰もが理解していた。

 パーティーの雰囲気は、最悪だった。

 イリスが時折、励ますような言葉をかけてくれるが、その声さえも、この重苦しい沈黙の前では、虚しく響くだけだった。

 精神的な消耗が、肉体的な疲労を加速させていく。ただ歩いているだけのはずなのに、全身に鉛を詰め込まれたかのように、体が重い。

 そして、変化は、最も精神的に追い詰められていた者から、現れ始めた。


「……今、何か動かなかったか?」


 先頭を歩いていたルシアが、不意に足を止め、前方の闇を睨みつけた。彼女の手は、すでに背中の両手剣の柄にかかっている。


「どうした、ルシア?」

「いや……今、確かに、通路の角を、何かの影が横切ったような……」

「角。この通路は直線。角など、どこにも存在しない」


 シルヴィアが、即座に事実を指摘した。


「だが、私は確かに見たんだ! 黒くて、素早い影が……!」


 彼女の声は、ヒステリックに尖っていた。

 幻覚。俺は、そう直感した。この閉鎖的で、変化のない空間が、彼女の精神を蝕み始めているのだ。彼女は、根っからの戦士だ。戦うべき敵がいてこそ、その精神の均衡を保つことができる。だが、この『何もない』という状況が、彼女の中から、存在しないはずの敵を生み出しているのかもしれない。


「落ち着け、ルシア。見間違いだろう。ここには、俺たち以外の気配はない」

「だが……!」

「ルシア様。きっと、お疲れなのですわ。少し、休みましょう?わたくしの癒しの光で、少しは、お心が安らぐかもしれません」


 イリスが、そっと彼女の腕に触れた。その手から、柔らかな、温かい光が放たれる。だが、ルシアは、その手を、まるで汚いものでも払いのけるかのように、乱暴に振り払った。


「イリス、気安く触るな!疲れてなどいない!あれは、確かに……!」


 その時だった。


 俺の視界の端で、何かが、ちらりと動いた。

 それは、ルシアが見たというような、黒い影ではなかった。


 懐かしい、風景。


 ――アスファルトの道路。電柱。古びた商店街。

 俺の前世の記憶。日本という国、そのどこにでもあったと感じられる――既視感のありふれた町の風景が、一瞬だけ、意識の上で白昼夢のように見えたのだ。


「……っ!?」


 俺は、思わず息を呑んだ。

 幻覚は、ルシアだけではなかった。今の俺の故郷はブリタニアのはずなのに。なぜ、あの日本の片田舎のような景色、そして、アスファルトの道が、懐かしいと感じてしまうんだ…?


 もしかしたら、このダンジョンは、人の心の内側に潜む、記憶や、渇望や、あるいは恐怖といったものを、引きずり出し、現実の風景に投影する性質があるのかもしれない。

 だとしたら、あまりにも、危険すぎる。


「…やはり、異常。この空間、我々の精神に直接干渉する。おそらく、この単調さと無音が感覚遮断を引き起こし、脳を誤作動させている。このまま進むのは危険。レン、撤退を提案する」


 シルヴィアが、低い声で言った。

 彼女は、俺とルシアの様子を、鋭い観察眼で見つめていた。


 彼女の判断は、正しかった。

 リーダーとして、俺もそれに同意すべきだった。


 だが、俺は、首を縦に振ることができなかった。

 撤退? どこへ? 


 俺たちは、もう半日以上、この通路を歩いてきたのだ。今から引き返したとして、無事に入り口までたどり着けるという保証は、どこにもない。


 むしろ、このような状態で、同じだけの時間をかけて戻ることの方が、よほど危険ではないか。


 ならば、道は一つしかない。

 前へ。

 この通路の、終わりまで。


 そこに、この異常な状況を打開する、何かが待っているかもしれない。


 そう信じて、進むしかない。

 それは、希望的観測に過ぎない、ただのギャンブルだった。

 だが、今の俺たちには、そのギャンブルに賭けるしか、選択肢は残されていなかった。


「……いや、進む」


 俺は、決然と、そう告げた。


「引き返したところで、状況は変わらない。この先に、必ず、何かがある。それを見つけるまで、俺は進むのをやめない」


 その言葉は、仲間たちを鼓舞するためであると同時に、俺自身に言い聞かせるためのものでもあった。俺の決意に、シルヴィアは、わずかに眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。彼女は、一度リーダーが下した決定には、たとえそれが自分の意見と違っていても、従うという原則を貫く。それが、彼女の理性の在り方だった。

 ルシアは、まだ何か言いたげだったが、俺の強い視線に気圧されたのか、不満げに口を閉ざした。

 イリスだけが、穏やかな微笑みを浮かべて、俺の言葉に頷いた。


「はい、レン様。わたくしも、そう信じております」


 俺たちは、再び、無言で歩き始めた。

 もしかして、俺は、リーダーとして、最悪の選択をしたのかもしれない。

 そんな後悔が、心の片隅をよぎった。だが、俺は、その感情を、無理やり意識の底へと押し込めた。


 今は、ただ、前へ進むことだけを考えなければならないのだから。



 終わりは、唐突に訪れた。

 あれほど、永遠に続くのではないかと思われた灰色の通路が、不意に途切れたのだ。


 俺たちは、広い空間に出た。


 そこは、ドーム状の巨大な空洞だった。広さは、王都の大聖堂ほどもあるだろうか。壁も、床も、天井も、やはり、あの滑らかな灰色の石材でできている。そして、そこにもまた、何もなかった。柱一本、祭壇一つない。ただ、がらんとした、空虚な空間が、広がっているだけだった。


 通路の終着点。

 つまり、そこにあったのは、『無』だった。


 絶望。


 その二文字が、俺たちの心に、重くのしかかった。これまでの苦しい行軍は、全て、この虚無にたどり着くためだけにあったというのか。


「……嘘だろ……」


 ルシアの膝が、がくりと折れた。彼女は、その場にへたり込んでいた。


 シルヴィアも、言葉を失っていた。

 彼女の黄金の瞳が、初めて、分析的な色を失い、純粋な「未知」を前に困惑に揺れている。彼女の、いかなる状況でも理路整然としていた思考が、この、あまりにも不条理な結末を、処理しきれずにいるのだ。


 イリスでさえも、その穏やかな微笑みを消し、膝から崩れ落ち、神への祈りの言葉さえ見失ったかのように呆然と、目の前の広大な虚無を見つめていた。


 俺は、間違っていたのか。

 シルヴィアの言う通り、あの時、引き返すべきだったのか。

 俺の判断が、仲間たちを、この絶対的な絶望の淵へと、突き落としてしまった。


 リーダー失格だ。


 その言葉が、頭の中で、何度も何度も、こだました。


 その時だった。


 キィン、と、甲高い音が、どこからともなく響いた。

 それは、金属的な音ではなかった。もっと、空間そのものが軋むような、冒涜的な音。


 俺たちは、はっとして、身構えた。

 何かが、来る。

 この何もないはずの空間で、何かが、起ころうとしている。


 空気が、振動を始めた。

 最初は、肌で感じる、ごく微かな震えだった。


 だが、それは徐々に、その振幅を増していく。

 ドーム全体が、巨大な鐘のように、ビリビリと震え始めた。立っていることさえ、困難になる。


「……な、なんだ、これは……!?」


 ルシアが、叫んだ。

 そして、あの音が、再び響き渡った。

 今度は、先ほどよりも、ずっと大きく、ずっと近くで。


 キィィィィィィィィン――――。


 それは、巨大な金属の板同士を、無理やり擦り合わせるかのような、耳を覆いたくなるほどの、不快な騒音だった。物理的な音ではない。それは、俺たちの鼓膜を介さず、直接、脳の、魂の、一番中心にある核の部分を、直接削り取っていくかのような、暴力的な音の塊だった。


「ぐっ……あああああっ!」


 俺は、頭を抱えて、その場にうずくまった。

 思考が、砕け散る。

 意識が、白く染まっていく。

 視界が、ぐにゃりと歪み、目の前の空間が、まるで熱せられた飴のように、溶け、混じり合い始めた。

 灰色の壁に、亀裂が走る。

 その亀裂の向こう側から、光が、溢れ出してきた。

 それは、白。

 全てを飲み込み、全てを塗りつぶす、絶対的な、白。


 薄れゆく意識の中で、俺は、仲間たちの姿を見た。

 ルシアが、イリスが、シルヴィアが、俺と同じように、その場に倒れ伏し、白い光に包まれていく。

 彼女たちの姿が、俺の前世の記憶、あの日本の町の風景と、混じり合っていく。

 助けなければ。

 リーダーとして、仲間を。


「ルシア……イリス……シルヴィア……!」


 俺は、必死に、彼女たちの名を叫んだ。

 だが、俺の口から漏れたのは、意味をなさない、かすれた音だけだった。

 白い光が、俺の全身を、完全に飲み込んだ。

 重い。

 冷たい。

 まるで、深い、深い、水の底へと、沈んでいくかのようだ。


 そして、俺の意識は、ぷつりと、途切れた。

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