5 容疑者エミール
ギョームの屋敷にはまだ重い沈黙が漂っていた。
石造りの外壁がひんやりとした空気を吸い込み、窓から漏れるわずかな明かりだけが家の中の生活をほのめかしている。
ダリーは、門の前で足を止め、深呼吸をした。村中の噂と不信感が、エミールという青年をどれほど追い詰めているかを思うと、胸が少し重くなった。
鉄の門を押し開けると、庭にはほとんど人影がなく、葉を落とした木々が風にざわめいていた。玄関の扉をノックすると、しばらくしてエミール自身が現れた。彼は目の下にくまを作り、かつての裕福な農家の跡取りという面影を失いつつあったが、それでも精いっぱいの礼儀正しさでダリーを迎え入れた。
「何かお話ししたいことが?」とエミールが静かに尋ねる。
「はい、少しだけ時間をいただければと思います」とダリーは優しく微笑んだ。
エミールは頷き、ダリーを書斎へ案内した。部屋には父ギョームの遺品と思われる本や記念品が整然と並び、そのどれもが埃一つない状態だった。エミールがそれを守ってきたのは明らかだった。
二人が席に着くと、ダリーが口を開いた。
「エミール、突然の訪問をお許しください。ギョーム様の件について、改めてお話を伺いたいのです」
エミールの目が一瞬、揺れた。「……また僕を疑うためですか?」
ダリーは首を横に振り、穏やかに答える。「いえ。むしろ、あなたの言葉をそのまま聞きたいのです。村の人々がどう考えているかに関わらず、あなたの視点を知りたいと思っています」
エミールはしばらく黙っていたが、やがて深いため息をつき、話し始めた。「父が亡くなった時、僕はすべてが終わったと思いました。彼が僕にどれだけ厳しかったか、そして僕がどれだけ反抗してきたかは村中が知っています。でも、それでも……僕が父を手にかけるなんて、そんなことがあるはずがないんです」
彼の声は震えていたが、言葉には確信があった。ダリーはそれを見逃さなかった。
「村人たちは毒が原因だと言っています。そのことについて、何か思い当たることは?」
エミールは首を振り、手を組み直した。「僕は何も知らない。父の部屋にあったという薬草も、僕には見覚えがない。でも……気になるのは、父は時々、自分で薬草を煎じていたことがあったんです。自分の健康を過信していたのか、医者にも相談せずに」
「その行動について、誰かが反対したことは?」
「僕も何度か止めましたが、父は聞き入れませんでした。彼は自分のやり方が最善だと信じていましたから」
ダリーは少し間を置いてから、柔らかい口調で続けた。「エミール、あなたは神明裁判で無罪を証明されました。しかし、心のどこかでまだ引っかかることがあるのではありませんか?」
エミールは一瞬驚いたように目を見開いたが、やがて視線を伏せた。「……あります。僕が無実だと証明されたとしても、父を守れなかったという事実は変わらない。彼があの薬草を使うことを知っていたなら、もっと強く止めるべきだった。結果的に、僕は父を見殺しにしたも同然かもしれない」
その声には、自責の念が深く染み込んでいた。ダリーはそれを聞きながら、慎重に言葉を選んだ。
「エミール、あなたが自分を責める気持ちは理解できます。でも、父ギョーム様の死にはまだ多くの謎が残っています。真実を見つけるために、あなたの協力が必要です。それは、あなた自身を救うためでもあるのです」
エミールはしばらくの間、天井を見上げるようにして黙っていた。そして、ついに小さく頷いた。
「……わかりました。僕にできることがあるなら、協力します。でも、真実を知ることで、僕の心が救われるのかどうかはわかりません」
ダリーは慎重に言葉を選びながら問いを続けた。「最近、ギョームさんと意見が食い違うことがあったと聞いた。君たちの間に何か特別な溝があったのかい?」
エミールは一瞬、目を見開いた。だが、すぐに顔を伏せ、苦笑いを浮かべた。「ええ、確かに意見が対立することはありました。特に村の管理や農地の運営については、僕と父では考え方が根本的に違っていたんです」
「どう違っていたんだ?」
「父は昔ながらのやり方を尊重していました。それは素晴らしいことです。でも、僕はもっと新しい技術や外部の知識を取り入れるべきだと思っていました。村の未来を考えるなら、変化が必要だと信じていましたから。でも、父にはそれが村を軽んじるように映ったんでしょう。最後の口論のとき、父はこう言ったんです。『お前はこの村を裏切るつもりなのか』って」
エミールは顔を歪め、拳を握り締めた。「あの時、僕は言い返しました。『村のために必要なことをしているだけだ』と。でも、本当は父に認めてもらいたかっただけなんです」
ダリーはその言葉に耳を傾け、しばらく沈黙した後、穏やかに口を開いた。「君とギョームさんは、意見が違ったとしても、お互いを大切に思っていたんだろう?」
エミールは深く頷いた。「ええ。父は厳しかったけれど、僕のことを心から愛してくれていたと思います。僕も父を尊敬していました。だからこそ、あの時の口論が最後になってしまったのが悔やまれるんです」
彼の目に薄い涙が浮かんでいるのを見て、ダリーは静かにエミールの肩に手を置いた。「その気持ちは君だけのものじゃない。ギョームさんも、君に対して同じような気持ちを抱いていたはずだよ」
エミールは少し肩を震わせながら、弱々しく微笑んだ。「そうだといいんですが……でも、村の人たちはそんな風には思ってくれません。父の死について、僕が何か関係しているんじゃないかって……誰も僕の無実を信じてくれない」
その言葉に、ダリーは眉をひそめた。「確かに、噂というものは恐ろしい力を持つ。だが、君の潔白は神明裁判で証明されたはずだ。それでも、まだ村人たちは君を疑っているのか?」
エミールは短く頷き、言葉を絞り出すように答えた。「神の御業によって無実を証明されたとしても、村人たちの心には疑念が残っています。父の死因が完全に解明されたわけじゃないからです。それに、僕自身も……どこか心の中で、父を守れなかった自分を責めています」
ダリーは少し考え込みながら、問いかけた。「ギョームさんが毒性のある薬草を誤って服用していたという話を聞いた。君はそれについて何か知っているかい?」
エミールは眉を寄せ、苦悩の表情を浮かべた。「その薬草は、父が自分で煎じていたものです。健康に良いと信じて飲んでいたようですが、僕はそれを止めるべきだった……。でも、父は僕に相談しようともしなかった。僕たちの間に、いつからか距離ができていたのかもしれません」
彼の声は次第に掠れていった。ダリーはゆっくりと立ち上がり、エミールに向き直った。「エミール、君が抱えるその後悔は、真実を追求する中で少しずつ解消されていくはずだ。僕も協力するよ。君一人で背負う必要はない」
エミールはその言葉に、少しだけ救われたような表情を見せた。「ありがとう、ダリーさん。でも、真実を知るのが怖い自分もいるんです。父の死の本当の理由が、自分の無知や無力のせいだとしたら……」
ダリーは微笑みながら、彼の肩を再び軽く叩いた。「それでも、君は一歩踏み出している。恐れることはないよ。共に進もう」
エミールの家を後にしたダリーは、冷たい夜風に肩をすくめながら村の通りを歩き出した。空は雲ひとつなく澄みわたり、満月の光が村全体を柔らかく照らしている。石畳に映る月の輝きはどこか幻想的で、静まり返った村の中でかすかに響く自分の足音だけが、時間の流れを感じさせた。
村の誰かがギョームを毒草を使って殺害し、修道士シモンもまたそれに巻き込まれた。事件の背後には村の権力者たちが関与している可能性が高い。だが、それを証明するには、さらに確実な証拠が必要だ。
坂の上にある修道院が見えてきた。月の光に照らされたその石造りの建物は、不気味さと同時にどこか神聖さを感じさせる。ダリーはその外観を見上げ、軽く首を回して肩の緊張を解いた。
「明日からはシモンが何を掴んでいたのか、さらに探らなければ。」
彼の捜査の焦点は、ギョームが殺された理由と、彼の死の原因を探っていたシモンの行方に移りつつあった。シモンが気が付いた何らかの情報、あるいは彼が村のどこかに隠していた重要な物品があるはずだ。
修道院の扉を開けると、中から暖かい空気と微かな蝋燭の香りが彼を迎えた。外の冷たさに慣れた体がじわりと緩む。ダリーは小さく息を吐き、また一歩を踏み出した。夜の深い静けさの中で、彼の決意だけが鋭く冴えていた。