北条氏政の確信
四月二十八日、卯の刻(午前六時)。
北条氏政は、朝から呵々大笑していた。
「フッフッフッフッフッフッ……ハッハッハッハッハッハッハ……!!」
不自然なほどの笑顔を浮かべ、こらえきれないように笑う。この仮にも籠城中という極限状態にあったにも関わらずそんな顔が出来る主君に、侍女も近習も少し引いていた。
「あの、もしもし……」
「いやすまん、実は昨日の、いやもう今日の朝、子の刻ぐらいにな、凄い吉報が入ったものでな、それでつい思い出してしまってな」
「もしかして大殿様にお孫様でも」
「いやいや、それならとっくに言っておるであろう。と言うか今は戦中だぞ」
「はい……」
鈍感な侍女たちにいら立ったのか笑い声を止め、居住まいを正しながらも右手を振る。
侍女たちは背筋を伸ばし、すぐさま氏政の下を去る。彼女たちは、自分が今まで触れて来た存在がどんな存在だったかをすぐに思い出し、主君の優しさに感謝した。
ここ数日、と言うか籠城を決め込んでから数か月、氏政は異様なほどに元気だった。
朝から晩まで城を見回り弱点を探し求め、その上で自らも刀を振りいざとなれば戦う気でいる。大殿と言う名の隠居人だと言うのにそんな事など無視し、諫められれば権力を振りかざす。そのせいで最初の二ヶ月ほどは倒れて疲れて寝ていたが、最近はまるで全盛期の頃のように活動的になり、威厳も高まったと言うか威圧感を漂わせるようになった。
「いくら小田原城が小田原城だとしても今現在がどんな状況なのか分からぬのか」
そんな風に将兵のみならず侍女や小者たちにまで言い出し、少しでもためらうと無言のままにらみつけたり時には足を踏み鳴らしたりして戦の最中である事を示した。
その上で農民の下へ行き頭を下げたり実際に施しをしたりしたのだから嫌われてはいなかったが、それでもその前と比べるとあまりにも活動的な姿に将兵は尊敬すると同時に恐れもした。
そんな氏政に対し、当然兵たちの態度も重たくなる。
なるべく音を立てぬようにゆっくりと歩き、深く身を沈める。氏直以上に気を使いながら、なるべく音を立てまいとする。
もっとも
「どうしたのだ、そんなに静かにして」
「ああいえその、あまり音を立てると不愉快になられるかと」
「今は危急存亡の事態だ、気にするな」
と言うごもっともな言葉が帰って来ては次からはと皆言うが、なかなか達成されない。ついでに言えば、その兵の目も血走っている。
「鎌倉が燃えております!」
「そうか…!で、住民たちの損害は」
「非常に微小です、しかし、鶴岡八幡宮を含む町の方は……」
「……そうか……では、その地に我が物顔で居座っておった石田とか言う輩は」
「脱出は確認されておりません、そして逃げ延びた兵もごくわずかだとか」
鎌倉の町が、燃えた。今でも火は広がり、町そのものを焼くかのように燃えている。
そして、そこで亡くなったのは、豊臣家の配下である石田三成—————。
「……もう一度聞くが、鶴岡八幡宮は」
「ほぼ全焼です。まだ鎮火もしておらずもう数日は立ち入りすら難しいかもしれませぬ」
「高徳院は!」
「不幸中の幸いと言うべきかそちらには延焼しておりません、しかし油断は大敵かと!」
「そちらだけでも守れと伝えてくれ」
高徳院の大仏まで燃えよう物ならば、豊臣以上に北条の打撃も大きい。ただでさえ元々「北条は鎌倉を守れなかった」と言う話である以上、鎌倉の大仏ぐらいは守らねばならない。と言っても守れるかはわからないし守れなくても石田三成のせいにはできるが、それでも責任と言う物はある。豊臣が守りに行くかもしれないがそれはそれで良し。
「そう言えば大殿様は朝から機嫌がよろしい感じでしたが」
「何、風魔が伝えてくれたのよ。彼らは実に頼りになる」
「ですがなぜ石田とやらは」
「失火か放火かはまだわからぬ。だがいずれにせよ、豊臣は自らの過ちにより鎌倉を焼き、家臣であったはずの存在を失った。これは豊臣が非道か馬鹿かのどちらかでしかない事の証明である。犠牲は多かったが、勝利ではあるな…………」
「勝利?」
「ああいや、自爆とも言うな。とにかく、将兵にこの事を伝えてくれ。豊臣がいかにこの地を治めるにふさわしくないか、そんな存在に決して負けてはならぬ、と……」
「はい」
政治的には少なくない犠牲ではあったが、それでも人員的にはゼロと言うべき犠牲でとんでもない戦果を挙げた。自滅であったとしても、敵の損はこちらの得であるのだ。
「よく聞け……!」
朝餉を取り終えた氏政は、将兵たちを集めて演説を始めた。
内容は言うまでもなく、石田三成の自滅とでも言うべき死。
「何と言う…!それで鎌倉は」
「少なくとも鶴岡八幡宮はほぼ焼失、それこそ一から建て直すしかないような状態であり……」
「やはりあの猿男めの!」
「許すまじ!豊臣秀吉め!」
一斉に上がる、秀吉への非難の声。
鶴岡八幡宮と言う源氏の守り神の存在をまるっきり焼いてしまったと言う文字通り神をも恐れぬ行いと、それにより石田三成率いる四千近い兵が炎に巻かれて死んだと言うあまりにもわかりやすい天罰と言う結果に、将兵たちは怒りながらも沸き立った。
「しかし、だ。残念な事にと言うべきか、此度の一件はどうやら石田三成とやらの独断らしい。
しかも厄介な事に、その猿男たちの家臣は必死になって止めていた事もわかってしまっておる」
「そんなのは言い訳かと」
「ああそうだ。されど証拠がある以上尻尾切りだけは可能と言う訳だ」
「命冥加な奴め……」
「ちっ、甘さを指摘するのは、あまり良くないしな……」
「神主たちは無事なのですか」
「ああ無事だ。腹立たしい事にと言うべきか石田三成とやらにも人の心はあったらしくてな」
だがそれでも、北条の将兵も既にわかってしまっていた。秀吉やその家臣たち、さらに奥州統一連合が全力で石田三成を止めようとしていた事を。秀吉自らが赴かなかったのは不覚と言えばそれまでだが、止めるならば死ぬとまで三成自身が言いふらしていた以上その口を塞ぐのは難しい。何よりそれを言い出そうとすればなぜ北条自身が鎌倉を守らなかったと揚げ足を取られてしまう。しかも石田三成が直接奪った命はどうやらゼロに等しいらしく、その方向で責め立てるのは無理がある。
「建て直せるのでしょうか」
「やらねばならぬ。
とにかく今はこのような真似をした家臣のツケを上司に払わせねばならぬ。
このような行いを許しておいては行けない事を満天下に見せつけねばならぬ。皆の者、どうか頼む!」
大戦果ではあるがどうにもすっぱりとは行かない状況を前に、氏政は深く頭を下げた。そこまでも自分の力を当てにしてくれているのだとばかりに、将兵たちはいっせいに手を挙げる。
「おお、嬉しい、実に嬉しいぞ……!」
(それはこちらのセリフでございます大殿様……おお、天で先々代様も喜んでいらっしゃるでしょう……)
氏政は涙腺を緩ませ、それでも涙を見せまいと下を向く。その姿が尚更兵たちの心をつかみ、握って離さなくなる。
元々あまり活動的ではなく優柔不断な一面のあった息子に危惧を覚えていた氏康が今の氏政を見たらどう思うだろうか、そんな風に考えている老兵もいた。
そんな演説を終えた氏政は天守閣に戻り、一人の来客を迎えた。先ほどの感涙から一転朝起きた時のような満面の笑みを浮かべ、その客に向けて金を見せる。
一つや二つではなく、ざっと二十はあった。
「これは……」
「風魔よ、本当によくやってくれた!本当はもっと進呈したいぐらいだがどうかこれで我慢してくれ。ああ戦いが終わりし後には五万石を保証しよう!」
「大殿様…」
「何を言う、そなたが秀吉らについてきちんと伝えてくれたからこそうまくやれておるのだ、正当な報酬だ」
風魔小太郎が戸惑うのにも構う事なく、氏政は景気のいい事ばかり言う。本当に何かしてやりたくてしょうがないと言う押しつけがましさこそないにせよ迫って来るような笑顔で、遠慮は悪であると定義付けるには十分すぎた。小太郎がやむなく報酬を受け取ると、氏政は余計に笑顔になった。
その笑顔に小太郎がわずかに体をのけぞらせると真顔になり、わずかにため息を吐いた。
「なあ小太郎。わしはあのような事を将兵の前では言って見せた。言って見せてしまった。
だがな、ここにはお前しかいないから言わせてもらう」
「まさか秀吉が天下人に足ると見れば……?」
「ああ。石田三成とか言う男を見過ごしていたのは罪ではあるが、その罪を償う気があるのならば…………」
そこまで言うと氏政は腰に手をやり、小太郎はあわてて飛び退く。
「大殿様!」
「いやすまぬ、誰かに立ち聞きされていた気がしてな。わしはもう、弱音を吐く事は出来ん。そなたならばできると思ってだったのじゃが」
「これは失礼。とにかく、この一戦に勝たねばその先の事もありますまい」
「わかっておる。少しでも北条の力を認めさせ島津よりもより良い形での決着を迎えさせねばならぬ。下がってよいぞ」
「はっ」
天守閣を出た氏政は、現在の主君の下へと向かった。
—————明らかに違う。
確かに悪い方向ではないが、どちらかと言うと温和で理性的であった四代目のそれではない。
勇猛であり、理と言うより魂で引っ張って行くような感覚。二代目三代目と言うより、一代で事を興すような親分肌的な気質。多くの味方を得ると共に、その先に立ちはだかる存在を全てなぎ倒し敵も多く作りそうな性質。
(殿……)
確かに今はいいかもしれないが、それでもその先はどうなるか。ここを乗り切ったとて下野と下総を失い上野も危うい北条がどれほどまでやっていけるのか。豊臣と組んで奥州統一連合を叩こうとでも言うのか。
それに奥州統一連合は豊臣家ほど此度の一件での打撃は大きくない。無論玉縄城を落とし城兵の命を奪った一件はあるが、戦場でのそれだけにむしろ話は付けやすい。政宗自身が三成を諫めようとしていたのも厳然たる事実であり、その点もまた悪くはない。
口ではその気になれば豊臣に服属すると言っていたが、実際に出来るのか。
何よりも、現在の当主である氏直が納得するのか。
今の氏直、あの場にすらいなかったような気弱な存在に説き伏せられるのか。
「殿…」
「小太郎か。父上はその、何だ、かなりやってくれた……よう、だな」
「どうしたのです」
その氏直は書を読んでいたが、小太郎の存在に気付くやたどたどしく答えた。何があったのかとばかりに一歩近づいた小太郎であったが、すぐに二歩下がった。
「どうしたのだ」
「何でも…ございませぬ、しかしですな、その、御父上様のご演説を、聞かなくて…よろしかったのかと」
「大丈夫だ、あらかじめ聞いていたからな」
「はい…」
小太郎もまた、氏直のしゃべりが伝染したかのようにつっかえつっかえになりながら姿を消した。
—————氏直の目も、変わっていたのだ。