あまりにも、あまりにも
「どけぇぇぇ!!」
兵たちの死と白旗神社を焼かんとする炎を目の当たりにした三成は福島正則どころか本多忠勝にも負けない速さで刀を振り回し宙舞う刃を弾き飛ばそうとするが、刃たちは全くひるむ様子がない。先ほど兵たちを殺めるために数本なくなった隙を突き前進は出来たが、あくまでも一歩分程度でしかない。
「豊臣家の名誉のため!我が名は惜しみはせぬぅ!」
何が何でも守らねばならぬ。先人たちが遺した存在を、武士たちの栄光の始まりの象徴を。
三成がかつて、松永久秀の存在と織田信長の所業を聞いた時には寒気がした。
いくら仏教勢力が腐敗していたとは言えあそこまでする必要があるのかと秀吉に向かって問い、秀吉から天罰の二文字を乱用し庶民から金穀を収奪していた事や一向一揆が支配していた加賀の荒廃ぶりと前田利家の苦労譚を聞かされてなお、内心では信長が比叡山を焼き討ちした事や松永久秀が戦の結果とは言え大仏を焼き払った事に付いては内心では合点が行ってなかった。
その大仏も実は二代目であり源頼朝が再建したそれである事を知ってからは、ますます松永久秀の事が嫌いになっていた。
「先人たちが遺した存在に何の怨恨あってこのような真似を!」
当然、刃たちは何も言い返さない。先ほどまでと同じように帰れ帰れと言わんばかりに飛び交い、三成の前進を許さない代わりに自分たちも前進しようとしない。回り込もうとしても分散し、三成たちの道を阻む。それこそ白旗神社を取り囲むように、一兵たりとも通さないと言わんばかりに広がる。右へ行けば右へ、左へ行けば左へ。敵目標を破壊するまでは一兵たりとも通さないと言う強い意志を持った精鋭中の精鋭。しかも肉体がないので、討つ事さえもできない。
「ああああああ!」
出来るとすれば刃を叩き折るか刃こぼれさせるかだが、そんな事をすれば自分たちの刃だって折れてしまう。
いや、
「打撃力が倍になっています……!」
「ああくそ!くそ、くそ、くそぉぉぉぉ!!」
刃こぼれした所で斬れなくなっただけで殺傷力はさほど落ちないし、刃を叩き折った所で斬れた先っぽと斬られた根元が二本になって襲い掛かって来るだけと来ている。
まるで右手を切られても左手で斬りかかり、刃が折れれば拳で向かって来そうなほどの気迫。止まればそれまでのはずの心の臓さえない敵を前にして、石田三成はなす術がなかった。
「ああもう!徹底的に広がれ!どうせ数は知れている!!」
それでも敵の数は知れているとばかりに一気に別れ一気に突っ込ませるが、自分たちに追従するかのように刃も動き一片たりとも隙を作るまいとする。
こちらも薄いが、向こうも薄い。そこを突けばとばかりに気合を込めて刃を振り、叩き落して前進する。
が、やはり一歩しか進めない。「倒れた」はずの刃はすぐさま浮かび上がり、こぼれかけた刃を松明の明かりしかないはずの宵闇に輝かせる。その間にも松明の火は白旗神社に燃え移り、社そのものを松明に変えて行く。
「ああ、ああ、ああ!」
三成の悲嘆なる叫びに構う事なく火は燃え続ける。
白旗神社の社そのものも、中に眠りし書も、榊も、燃えてしまう。
いや、一番大事なご神体も。
「何とかしてご神体だけでも!」
「……」
「なぜだ!なぜだ!なぜだぁぁ!!」
目の前で焼かれる、源頼朝の木像。
自分の主人と同じ、徒手空拳で天下を取った存在。本来なら参拝して仲良く語り合うはずだったのに、どうしてこのような事になってしまったのか。
「許さん、絶対に許さん……!何が霊武者だ、何が童神だ……!あの世へと帰れ、いやどこの世界からも放り出してやる……!!」
「はい!」
三成の怒りに導かれるようにこの場にいた、いや全ての石田軍の兵が動き出した。封鎖した五路を見張っていた兵も、寝ずの番と交代で寝ていた兵たちも、一気に動き出した。
主君の願いのために。
つい先ごろまで三成を軽く見ていた新兵や傭兵たちさえも、一気に力が入った。
この時の石田三成の迫力はそれを実現させ、それこそ百万の男をひるませるだけの力があっただろう。
金剛力士像ですら二の足を踏み、地獄の鬼でさえも金棒を投げ捨て五体投地の体勢になるかもしれない。福島正則や加藤清正など、失禁どころか失神したかもしれない。もちろん秀吉でさえも、必死になだめるのが精いっぱいだった。
もしこの時、この三成を留める事が出来たとしたら二人の人物だけだっただろう。
一人はなかであり、もう一人はおね。
尊敬する主君の、たった二人だけ頭が上がらない存在。
その彼女らの諫言があれば、石田三成の頭を冷やす事が出来たかもしれない。
よく温和な人間を怒らせると怖いと言うが、怜悧な人間が怒った場合はどうだっただろうか。
普段から知性を振りかざしているその姿がなくなったと笑われるか、むしろ人間味が出て来たと歓迎されるか。
いずれにせよ、あまり迫力を与えられるそれではない。
「関白殿下の名を汚し!これ以上の不名誉を与えると言うのならばぁ!例え命なく悪霊であろうと畜生の類であると言えど容赦はせぬ!」
「うおおおおおおおおおおお!!」
だが、石田三成の言葉は違った。
兵たちを一斉に動かし、力を与えた。
それは彼が武士であり、数万の単位の兵を率いる事が出来る将であると言う証だった。秀吉が成長のためにこの役目を与えたのは、決して間違いでもなかったのだ。
兵たちが次々と白旗神社へと駆け付ける。石畳を走り、林を抜け、たった一つの目的のために。
「あああ、もう駄目なのか!」
「駄目ではない!」
「少なくとも、乱暴狼藉者を討ち取らねばならぬ!さもなくば武士の名折れだ!」
「仲間たちの姿を見ろ!」
「そうか…!仲間たちのため!我が主のため!何が何でも押さえ込め!!」
駆け付ける兵、兵、兵。皆鍛錬の程度も身分の多寡も関係なく、敵に向かって立ち向かう。
「しかし…!」
「わかっている!こうなったらもう、一兵たりとも生かして返すな、いや一匹たりとも逃がさずあの世へと追い込め!」
残念ながら、この時代にまともな消火技術などない。それこそ建物を壊して延焼を防ぐのが最大の消火方法である時代にて、ここまで火が燃え移ってしまうともはやどうにもならない。いやどんなに技術があったとしても、白旗神社はもはや完全な巨大松明と化して木々をも燃やし始め、日付が変わろうとする最中の鎌倉をさらに明るくする。こうなるともう、止める事は出来ない。
石田三成は、泣いた。泣き声も出さずに、目から液体を流した。
それは一体誰の責任か。自分の責任だとわかってはいる。だがそれでも責任は取らねばならない。せめて、少しだけでも。
炭化して行くであろう源頼朝の木像、いや秀吉に対し、なんと詫びればいいかはわからない。それこそこの戦が終わったら、腹を切って詫びるより他ない。
「ああ、ああ、ああああああああ……!!」
数の力と勢いをもって、飛び回る刃を弾き飛ばし、叩き折り、何本に増えようとも決して下がらない。
この国で今一番強いであろう軍勢が、今の鶴岡八幡宮にはいた。
その彼らの前に道が出来たのは、彼らの気迫に押されたからではない。
単に、目的を達成したからだ。
「うう、ううううううううう……!」
「彼奴らめ……!」
もはや、白旗神社と呼べるのは壊れた石灯籠のみ。社は松明とか火の玉を通り越して炭になってしまい、燃え移っていたはずの木々の炎さえも文字通りの下火になっている。
「このままでは、徹底的にこの鶴岡八幡宮、いや鎌倉そのものが破壊される!全軍戦え!」
三成が叫ぶ間にも、石田軍の兵は次々と鶴岡八幡宮を目指して進んで来る。
文字通りのいざ鎌倉であり、英雄たちが次々と駆けつけて来る。
あまりにも理想的な武士のあり方であり、あまりにも石田三成と言う人間の実像を表す現実だった。
そんな中動く、一つの影。
手に何かを持っている。
「狼藉者ぉぉぉ!」
傍から見ればどっちもどっちではあるがそれでも構わぬとばかりにくすぶりかけの林の中に突っ込んだ三成の、刃こぼれしかかった刀は、その影の首筋を正確に捉えていた。
そして、その影は血を流しながら倒れた。
霊武者でも何でもない、紛れもない生身の人間。
その生身の人間が持っていたそれが社に眠る書であると気付いた石田軍は、さらに気持ちを高揚させた。
「死んだぞ…!討ち取ったのだ!」
「石田様、万歳!」
「万歳!」
彼らの狂奔はさらに加速し、留まる所を知らなくなった。
石田三成は、決して惰弱でも軟弱でもなかった。
ただ福島正則とかより、ほんの少し頭を回すのに優れほんの少し身体能力で劣り、それ以上に感情の動かし方が複雑なだけだった。
自分への侮辱はいくらでも耐えられるが、主への侮辱は耐えられない。その点全く忠義の臣であり、実に男らしい男だった。
だからこそ家臣も付いて来るし、魅了されもする。だが秀吉との決定的な違いはその男らしさが非常に伝わりにくく、自然さがなく技巧に満ちているように見える事だった。
普段から愛嬌を出すのを控える事をしない秀吉や静かな笑顔を浮かべる黒田官兵衛と違い、三成を好くのは顔に魅かれる女性やその仕事ぶりを評価する上層部の人間や大谷吉継や長束正家のような同僚たちだけだった。
それとは別に、今石田三成に斬られた彼の不運は、この場にいた事でしかない。
彼は、この騒ぎに乗じただけの火事場泥棒であった。
一応真っ当なそれではなく山賊に類する存在ではあったが、それでももしこのまま戦が終わっていればこんな死に方をする事はなかった。
彼もまた、戦の犠牲者であったのだ。