亡霊侍
「……ああ……」
三成は心底がっかりしていた。
なぜ誰も彼も、あんなにも脅えているのか。
「左近は」
「左近殿は黒田様と共に小田原に向き合っております」
「わかっている。しかしどうしてだ、どうして左近まで同じ事を言うのだ……」
秀吉や左近だけではない。
兼続のような近い年の存在や、真田信繫のような年下の人間まで同じ調子だった。
福島正則などは、お前に俺を笑う資格は一生ないとまで言って来た。元からそんな気などないと言ったら真顔で下がって行ったから、まあそういう事なのだろう。
「私はあくまでも、主家のためにいる。鎌倉と言う地を占拠している事こそ、北条に取って打撃である。鶴岡八幡宮と言う地を蹂躙されてなお、小田原に籠るなどまったく何がしたいのか分からぬ」
「面子よりも命なのでしょう」
「かもしれぬ。されど士気が落ちては命も保てまい」
「それがどうも小田原城内の士気は上がっていると」
「そうか。来るならば来ればいい。守れれば守り、守れなければ逃げるまで」
北条家の事も、わかっていたつもりだ。小田原城に兵をかき集め、文字通りの徹底抗戦を決め込む気らしい。本来ならば北条に向かって鎌倉と鶴岡八幡宮を占拠されたのに何をやっているのかと思いっきり言ってやりたかったが、誰も彼もまったく乗り気でない。余裕を気取るのもいいが、犠牲を減らすのも大事なのではないか。
「兵たちは寝ているか」
「はい。寝ずの番の準備もしっかりと整えております」
「小田原城からこの鎌倉までもそれほど遠くはない。いくら関白殿下や奥州統一連合が陣を張っているとは言えこの地に執着した北条軍は必ずやって来る。その時に備え寝るべき人間は寝かせる。それだけの事だ」
四千の人間で作られた陣は、黒田官兵衛の目から見ても問題はなかった。今は二千の兵が鶴岡八幡宮などを見回り、千の兵が北条軍の監視を行い、もう千人は夜に備えて昼間から寝ている。
「この地の住民たちは北条への愛着が強いのが気にかかりますが」
「わかっている。だからこそ住民たちを懐かせるためにも乱暴狼藉は絶対に許さぬ。そんな事をすれば即斬首だ、わかっていると思うが」
「無論です」
戦には侵略と防衛があるが、どうしても心証が良いのは防衛である。侵略するには理由が要る。もっともその理由を家臣たちや領民たちのためと言う自己都合で見いだせていたのが戦国乱世だった訳だが、ここまで来るとそう簡単には行かない。と言うか戦が終わるのも時間の問題である以上、名目は必要不可欠だった。
(真田安房守殿も良き仕事をしてくれた……その上で御家を守ろうとして……ああ、関白殿下は決して粗略にする気はないのだろうが……)
その名目をくれた真田昌幸には深く感謝していた。その上で自分たちは奥州統一連合へ付き信繁を豊臣家に送るとか言う目端の効く所もまた好ましかったが、同時に自分たちを信じて欲しいと言う思いもあった。寂しさと共に初夏の暮れない日を見つめる三成は、柄にもなく泣いていた。
「灯を絶やすな」
やがて来た夜もまた、石田三成の命により鎌倉は明るかった。寝ずの番たちが灯を焚き、北条の兵を見張っている。
そんな中、三成も鶴岡八幡宮の神宮の中で、目をこすりながら体を起こしていた。
「眠れぬのですか」
「眠りたくないだけだ。しばらくこんな事が続くのかと思うとな」
「高揚なさっておいでなのですな」
「緊張しているだけのつもりなのだがな」
元々小姓であった石田三成に家臣団などおらず、そのほとんどが三成自らかき集めたような人間たちだった。三成が抱えられた兵は千名程度だが、その千名の団結の強さと主を盛り立てると言う思いの強さには秀吉も感心していた。
「私は無論、霊を信じていない訳ではない。何が起こったか知らぬ訳でもない。だが必要以上に振り回される必要もない。それだけのはずだ」
「はい」
「かの存在とて、心底から憎しみで生きていた訳ではない。その事を受け止め、その上で前に進んで行く。それこそ供養と言う物であろう」
憎しみでは何も解決しない。
戦国乱世にそんな事を言う気もないが、どこかで断ち切るのが流れと言う物だろう。
(もし霊がなお恨みを抱き続けていたと言うのならば、私がそれを断ち切らねばならぬ。関白殿下とのその世のために、私が何とかせねばならぬ)
自分は部下として、主の道を阻む存在を潰して行かねばならない。それが北条であろうが亡霊であろうが同じ事。
そして奥州統一連合とやらもそうなるのであればそうするまで。あるいは今の内に何らかの手を打つべきかもしれない。何となれば上杉や真田あたりに接触を取るべきではないか。
「良いか、我々はここにいるだけで役目を果たしているのだ。ただここに控え、そしてここを守るだけで平和に近付く。もしそれが楽な仕事に見えてしまうのであれば別にそれでいい。私と、ここにいる全ての人間が保証する。いやこの国の人間すべてが保証する」
「我々はどこまでも付いて行きまするぞ。と言う訳でそろそろお休みくだされ。戦いはまだまだ続きますぞ」
「だな。礼を言うぞ」
ここで戦いを終わらせたい。だがそれがもし出来ないのならば終わるまで戦い続ける。三成と寝所を共にした兵の決意も実に堅かった。
三成はようやく目を閉じ、眠りに就いた。
「殿!」
「何事か!」
四月二十七日、早朝。
その三成の目を覚まさせたのは、自分を呼ぶ大声だった。
もっとも三刻(六時間)後だったのでそれほど寝ていない訳ではなかったが、それでも声色はとても喜ばしいそれではない。
「兵が二〇〇人ほど逃げ出してしまいました!」
「何!敵襲か!」
「いや、何でも亡霊が出たとか言って……」
「亡霊?例の霊武者か?一応特徴は教えたであろう」
「いえ、当世具足を身にまとったただの武者ですが」
当世具足とは現代の鎧の事であり、三成が教えていた古めかしいそれではない。だがそれで戸惑いがあったにしては連絡が遅すぎたと三成は眉を吊り上げそうになったが、すぐさま見間違いと思ったのであろうと思ったのだなと呼吸を整えた。
「しかしならそれでなぜ逃亡者が出たのだ!」
「夜が明けるにつれ、ただの見間違いではなく本当の霊武者ではなかったのかと言う恐怖が兵たちの間に起こり出し、いつの間にかいなくなっていたと言うのが本当のようです」
「そうか。で、どちら側にだ」
「正確な数はわかりませんが、どうも四対一で奥州統一連合の方へ行ったようです」
「伊達殿に使者を送れ。どうか兵を粗略にしないでくれと」
どこまでも、三成は冷静だった。
鎌倉と言う場所にて何度も戦があった以上、霊などひとつやふたつのはずがない。釣られて出て来たのかもしれないが自分たちの邪魔をしないのならばそれで良い。いや、今実際に邪魔をされているのだがそれでも良い。
「敵は本当に来るのでしょうか」
「ああ来る。これから兵たちをたしなめて来る。此度の事でまた不安があふれるかもしれんからな」
「はい」
ゆっくりと着替える三成の姿に、焦りや恐怖はない。これから待つ苦難を、楽しみにしているようだった。
そしてその流れのまま、昼夜逆転を強いられる事となって兵たちを除く多くの兵たちの前で三成は舌を振るった。
「……であるゆえに、我々の任務は極めて重要である。されど、極めて過酷でもあり逃げ出してしまうのは全く仕方がない事である。だがもし、戦乱を葬り百数十年に亘り誰も実感できなかった平和と言う時代をもたらす事が出来るのならば、それでも一向に構わぬ。そなたらにはいくら感謝しても感謝し足りぬ。どうか我が力の不足を許してもらいたい」
土下座せんばかりの勢いで頭を下げる大将を前にして、誰も文句を付ける事など出来ない。一軍の大将のようにまるで雑兵のようにふるまう存在にいちゃもんを付ける事の出来る人間など、この場には誰もいなかったのである。
これこそが石田三成と言う人間の真の姿であり、多くの家臣たちをひきつけさせる故であった。その姿に家臣たちの中には一斉に最後まで付いて行くと言い出す者もおり、涙を流す者までいた。
だがその一方で、どこか醒めた目をしている者もいた。その多くが此度三成にあてがわれた豊臣家の兵であり、元々秀吉直属軍でさえない新兵たちか傭兵たちのの集まりだった。
確かに石田家は団結は強かったが、その団結の強さが閉鎖性の高さをも生んでいた。
石田軍と言うのは三成自身の性格も相まって心底から心服していた層は強くなるが、その下の層が強くなるには時間がかかってしまう性質がすでに出来上がってしまっていたのである。
それらが今逃げていないのは、ただお追従しておけば甘い汁が吸えると思っているのと敵前逃亡とか言う決断ができるほどの度胸がないのと、後はこの主君に取り囲まれかかっているかのどれかでしかなかった。




