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戦国霊武者伝  作者: 宇井崎定一
第七章 鎌倉の悪夢
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豊臣秀吉の嘆息

「そうか…」


 秀吉は寂しげに呟いた。


 両翼に養子である豊臣秀康と宇喜多秀家を置き、さらに真田信繫や直江兼続などを引き連れて大将である事を誇示するかのように黄金に輝く部隊を率いていた秀吉であったが、空は晴れていたのにその輝きは少し曇っていた。


「治部殿はなぜ」

「あやつは少し浮かれ上がってしまったのじゃろうな。わしに良い所を見せたくて」

「父上は…」

「考えてみれば、あやつがわがままを言った事はほとんどない。今その点でも、成長しようとしておるのかもしれぬ」

「誠実なのですね」

「ああ、だが誠実さしかない。他には何もない」


 石田三成は実に気の利く男だが、それ以上に無私だった。時に言葉が直截すぎる故に誤解を招く事もあるが、それでも豊臣家のためになればいいと思っている。


 真田信繫が直江兼続と共に大坂に来た際に、三成は実に丁重であった。

 平たく言えば人質に過ぎぬ存在を丁重にもてなし、秀吉に忠義を尽くしてもらいたいと幾たびも挨拶に来ては時には海をも見せた。その潮の香りに信繁は魅入られ、深呼吸を何度もしてむせてしまい笑われた事もある。


「努力して誠実であろうとしている。だがそれゆえにむしろ嫌われる事もある」

「万人に好かれようなど土台無理なのですね…」

「じゃな。わしだって」

「それは戦の敵味方ゆえしょうがないかと」

「いや」

「では…」

「百姓とかそういう問題ではなく、好かん奴はおる。最初からそう言う存在に好かれようとしても無駄なのかもしれん。頭とかではなく、心の問題じゃ」

「心の問題…」


 秀吉ほどの人たらしでも、好きにならなかった人物はいる。そういう存在と相対したくはないが、したらどうするか。その際にあくまでも愛想を振りまき続け、拒否する存在を孤立に追い込むと言うある意味でもっとも陰湿とも言えるやり方で勝って来たのが秀吉だった。

 だが石田三成にはそんなしたたかさはない。あくまでも豊臣家への忠義だけで動いているだけの存在からしてみれば、普通に仕事をこなせば勝手に世論は向いて来るとさえ思っている、と言うか世論すら気にしていない。



「北条は鎌倉を奪い返すために動くのでしょうか」

「動かんじゃろうな。今の北条が鎌倉の守りを固めたと言う話は一つもない。かと言って、鎌倉を陥穽として利用したと言う話も一つもない。北条が小田原を本拠としてからどれほどまでの時間で鎌倉を支配下に収めたかは知らんがな、少なくとも五十年は鎌倉は平和じゃったろう」

「城さえもなかったとは思いませんでした」


 現在の鎌倉には城どころか砦さえもない。と言うか街道さえなく、完全な閑地だった。その閑地の戦略的価値と言えば、それこそ鶴岡八幡宮ぐらいしかない。鶴岡八幡宮には、源頼朝の木像がある。

 鎌倉幕府を作った、天下人。

 この国で初めて武士の世を築いた存在。


「今、武士ではないわしが天下を取ろうとしておる。その事を気にしているのやもしれんのう」

「武士ですか。武士とは一体どうなれば武士なんでしょうね」

「それは…」

「もしや武士の御家に代々生まれたから武士であるとか言うのならそれはもう武士ではなく貴族です。刀剣を持って戦いに出ればその時点で武士ではないでしょうか」

「確かにのう、武士と言うのは…」

「元々自衛のために得物を握って戦ったのが武士であり、その点ではそれほど敷居は高くないのかもしれませぬ。武士として自信がないからこそ、武士と言う肩書に縋るのかもしれませぬ」

「そうじゃな」

「空威張りほど空しい物はございませぬ」

 兵農分離とか言った所で、武士の興りがその程度のそれであった以上所詮両者の分け目はそれほど大きくない。刀狩令を出したとしてもたった一年前の話であり、その流れが本格化するにはまだまだ相当な時間がかかる。武士とか言った所で何代か遡れば農民か工人か良くて源平藤橘と言う名の貴族であり、それこそ秀吉とか言う下剋上の体現化みたいな存在が何を言っても説得力に欠くのは仕方がない。だがその上でまだ現状は兵農分離がまだ未完成であり、その状態なればこそ農民である秀吉がそれをやる事によって成果を上げる事が出来るかもしれない。直江兼続の言葉は正論だったが、それだけで話が進むならば誰も苦労しないのは事実だった。


「佐吉はな、おおむね正しい。されどな、その正しさだけで物事は進むとは限らぬ」


 だからこそ、石田三成の悪い面を他の誰かに真似て欲しくない。もちろん三成の事は頼りにしてはいるがそれでもいろんな面で問題も多い以上、三成の友人たちにはその所を真似して欲しくないのが親心だった。おねもまた三成のそういう点を心配しているからこそ諫言しているのだが、それでも彼の場合過剰な忠誠心が忠言を遠ざけてしまっている。忠誠心があるゆえに忠言が耳に入らないと言う本末転倒な現象が起きるのが人の世であり、不条理な現実だった。




「やはり、かの霊武者であると」

「じゃろうな。もう三成がその霊武者と戦っておる事は皆が認めておる。わしも自ら気にするなと言っておるのじゃが甘かったのかのう」

「いえ、父上が気にするからこそ佐吉もむきになっていると思われます」

「まだあきらめる気はわしとてないのじゃがな……」


 そしてその中核にいるのが、あの霊武者だった。


 真田昌幸も、伊達政宗も、その事を既に分かっていた存在。


 本人だけが、認めていない。


「しかし父上自らは」

「わかっておる。どうする秀康、お主の言う事なら佐吉も聞くと思うが」

「それが……」


 

 先ほどまで一言も言葉を発しなかった秀康が、懐から書を出す。


 丁重な手つきではあるが重たく、一度開けられたのがわかる折り目の紙は乱れてこそいないが少しにじんでいた。


 で、中身はと言うと




「世の中は 今の命が 刻むれば 右大将さえ れいでありしと」




 三十一文字。


「何を言っとるんじゃ!」


 秀吉は書状を丸めて地に叩きつけた。


 秀吉にはそういう教養はなかったが、それでも頭は回った。



 世の中と言うのは今ある命が時を刻んで行くのだから、右大将こと源頼朝でさえもれいに過ぎず、また今の世にとっては影響力はれいである—————。



 先人に相当に喧嘩を売っている話であり、とても才人のする事ではない。宇喜多秀家でさえも眉をひそめ、真田信繫と直江兼続もため息を吐いた。


「私だって怒りました。そうしたら」




 —————しょうせんも 永遠に沈まぬ 事はなし さあよしとただ 平に願えば




 二首目の三十一文字だと言う。


 しょうせんは、商戦ではなく昭宣公こと藤原基経だろう。初代関白ではあるがもう七〇〇年前の人であり、現在では関白と言う名以上の影響力はない。もちろん本人は偉大なる政治家なればこそ関白とか言う称号を与えられたのだが、それとて現在ではと言う話である。そのように秀吉もまたいつかいなくなるのだから、自分にもその墨付きが欲しいと言うのだ。


 無論これも相当に失礼ではあるが、秀吉は苦笑するしかなかった。


「そしてさあよしで佐吉、ただ平にで貞信公(藤原忠平)か……ってちょっと!」

「ああ…まったくあやつは本当に子どもじゃな。もしかして自分はこれだけ出来ると言う事を見せ付けたいのか……」

「危険ではありませんか」

「ああ。じゃがな、あやつに取って必要な事かもしれん。もしこれを乗り越えれば、あやつは立派な男になる。

 されどここでつまずくのならば、あやつはこれまでかもしれぬ。ただでさえ話が伝わるのが早い世の中じゃ、あやつの無謀は遠慮なく伝わる」

「……」


 信繫は視線を逸らす。

 情報こそ武器である事を、秀吉は良く知っている。真田もまた小勢力ながらその情報の力で生き残って来た。既に秀吉だけでなく伊達政宗にも当たり前だが知られているし、それは奥州統一連合の共通情報である事も意味している。彼らがその得た情報をどう使おうが勝手であり、わざわざその必要のない手を与えた事になる。ましてや父の事だから何をどうするか分からない。もちろんすぐさまにとは行かないにせよ、いずれと思うと気が重い。


「しかし惜しいのでしょう」

「ああ、惜しい。あまりにも惜しい。見えぬ物を見ようとして、見るべき物を見ようとせぬ。官兵衛と言う人間が凌ぎ切れた程度の存在を…」

「それは知識があったればこそでしょう」

「まあな。じゃが知識さえあれば何とかなる程度の代物を恐れる事もない。わしだって過ぎた真似をした事はある、今の佐吉よりももっと年嵩だったと言うのにな……」



 小田原が近付くたびに、戦の気配は高まる。

 これまでに自分たちが殺めた人間の数を思いながら、秀吉は前方をうかがう。


 本当に殺す必要があったのか、今となってはわからない命もあった。


 されど戦とは結局殺し合い、北条の態度が徹底抗戦である以上もう後には引けない。


 これを最後にするためにも。



「申し上げます!」



 そこに飛び込んで来た、血相を変えた男。



「どうした!」

「上杉様が動かれました!」

「そうか、ってどうしたのじゃ」

「上杉様は奥州統一連合に付くと申し上げております!」

「そうか」


 秀吉はその三文字で済ませたが、他はそうもいかなかった。


 秀康は表情を変えなかったが秀家は思わず口を抑え、信繁は逃げるように秀吉の顔を見た。



 そして口を堅く結び無理矢理に無表情を装った直江兼続の顔は、右半分と左半分が全く別人のそれになっていた。


 右はつい先ほどまでと変わらなかったが、左は黒目が消えかけ眉がやたら太くなっている。

 あまりにも雄弁な顔を前にして、秀吉をして笑顔を向けるのが精一杯だった。

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