少年は霊の声が聞こえる
「もうなのか」
「はい、殿はすぐに蘆名様に出兵要請の使者を出されました」
「期日は」
「十日後です」
政宗の相手を終えて戻って来た小十郎は、すぐに出兵の手はずがある事を新米の侍従から告げられた。
政宗の領国と地位の拡大に伴い単独で一万石相当の禄高を与えられた小十郎であり屋敷もそれ相応になっていたが、正直落ち着かない。自分であれほど政宗の暴走を戒めていたのに浮かれ上がっていては申し訳が立たぬと言う思いもあったが、それにしてもこの度新たに与えられた屋敷はこれまでと桁が違った。
もちろん、そんな屋敷には新たなる従者も増えている。上は片倉家の人間に政宗が自ら選んだ侍や近習、下は新たな領国から募った下人まで、片倉家の配下の人数はこの半年でその前の数十倍になった。と言うか片倉家の人間など数名もいなかった以上、ほとんどが新参の家臣であり上下などあるのかないのかわからない状態だった。
「弥左衛門は」
「ああ、弥左衛門様ならば奥方様と戯れておられます」
「ありがとう、感謝する」
そういう訳でもないが、小十郎は居丈高な口を利かないようにしている。
ここまで一挙に人数が増えた以上ここに来る前まで伊達家のそれでなかった人間さえいる以上、彼らを取り込むためにも伊達家に悪印象を持たれたくないのだ。
実際、伊達家には人取橋を始め戦で敗れて夫や兄や父をなくした武士たちの子女が食い扶持と見請け先を求めて入っており、彼女たちが伊達に好感を抱いているはずがない。もちろんそんなのはどこでもやっているしどこだって抱えている問題だが、いざとなれば反抗しやすい勢力と言うかかなり有効な大義名分になるので丁重に扱わねばならない。何となれば交渉の材料にもできるのだ。
(落ち着け。こんな所でまでそんな事を考えてどうする。妻や弥左衛門の前でまで肩ひじ張っていて無駄にざわめかせる奴があるか)
もっともそれは小十郎がわざわざ気を張る事でもなく、どこでも誰でもやっている事である。戦勝軍の特権と言えばそれまでだが、福利厚生などと言う言葉のない時代の責務でもある。だが家の中でさえもこんな重苦しい事を言う理由など、小十郎にはない。
「今帰ったぞ」
「お帰りなさいませ」
「父上お帰りなさいませ!」
妻と弥右衛門に出迎えられ、ようやく顔をほころばせる。三つ指ついて出迎える妻と、快活に駆け寄って来る息子。
「元気にしていたか」
「無論でございます!」
五歳になった息子の無邪気な笑顔、本来なら親らしく愛でてやりたい。
だがどうしても、その笑顔に何かがちらつく。
「どうしたのです」
「いや何でもない」
「まだ思い悩んでおいでなのですか」
「そんな事は…あるのだが…」
ちらつきをもたらすのは、今いる我が子よりさらに小さい子どもだ。
将来弥右衛門が刀を持って人殺しをする事になるのは覚悟の上とは言え、あのようなとんでもない存在になってしまうのかと思うと身の毛がよだつ。
「父上はどうしたのです」
「弥右衛門、あなたは少し遊んでいなさい。私は旦那様と話さねばならぬ事があるのです」
「はい」
弥右衛門が快活な返事と共に動くと同時に、小十郎の妻は酒を持って来させる。小十郎は弥右衛門に対して申し訳なさそうに視線をやりながら酒に口を付けた。
「相変わらずお疲れなようですが」
「私が勝手に疲れているのだ」
「童神様でございますか」
ちょうどあの事件の一年前に生まれた弥右衛門であったが、その時政宗より先に子を作るなんてと頭に血が上ってしまった事もあり、ただでさえ弥右衛門とは今ひとつ折り合いが良くないかもしれないと言う不安もあった。そしてそこに、かの童神である。
「ああそうだ。あのこちらの言う事を全く聞かぬ、敵でない存在。いっそ最初から敵であればよほど良かったと言うに」
「冗談はほどほどになさいませ」
「すまんすまん、だがわからない味方はわからない敵より数十倍面倒だ。そういう存在を相手にせねばならぬと思うと胃が痛くてな」
「相当苦労なさっておいでなのですね……ってああちょっと!」
妻にいきなり抱き寄せられそうになり、とっさに飛びのいてしまう。
弱みを見せまいとしようにも、どうしても愚痴が口を吐いて出る。妻にさえ聞かせたくない益体もない言葉だが、当時の薄い酒一口でこの有様になる夫を妻が心配するのは当然だった。
「すまぬ…ついうっかり…」
「そんなにピリピリしてどうしたのです。まさかこの屋敷は敵ばかりであると」
「そのような事は…」
「あるのですね。まったく、本当にかの童神様、いや童神を恐れておいでなのですね」
「殿と同じ事を言うのだな。ただ言わせてもらえれば、恐れているつもりはない、嫌っていると言うのが正しい」
嫌い。確かにそれが一番正しいのかもしれない。
だが俗人が好き嫌い言った所でその声に耳を貸される事もなく、相手は好き勝手に振舞う。人が神を嫌おうなどおこがましいのかもしれない。
それでも、小十郎はその存在を飲み込めきれない。
「この屋敷の者たちはかの童神様のせいで多くの者を失っている人間が多い。彼ら彼女らの存在を思うと」
「大殿様はどうお考えなのですか」
「大殿様は好きにせよと仰せでな。あの件をきっかけに軽挙妄動をせぬと、と言うか息子に万一の時あらばと武道の稽古を始められたようでな」
「童神に引きずり回されて谷底へ落ちるのに脅えている事を私が知らぬとでもおっしゃるのですか」
「忍ぶれど 色に出でにけり わが想い ものや思ふと 人の問ふまで……」
「私が何も知らぬとお思いなのですか、あなたの妻なのですよ」
「そうだな。どうやら最上や大浦にまでばれてしまったらしい」
「忍ぶるを 色に出せよと わが願い ほど越え思ふと 人の問ふまで」
平兼盛の句をほんの少し改めるだけで簡単に説明できてしまうほどになってしまった片倉小十郎の名前。主人や妻やどころか、他国にまでも知れてしまった。
自分だけが正しいのだとうぬぼれているつもりはないが、それでも名前が自分にとって不本意極まる形で広まってしまったのは事実だった。
「弥右衛門が申しておりましたよ。あの子は、父親を求めておりますと」
「わかった、後で」
「いえいえ、あの童神の事ですよ」
「何」
そしてその上でなお童神が息子にまで接触していると聞かされて必死に心を鎮めようとした努力が無駄に終わった事を、妻の胸の感触で思い知らされた。
「いい加減になさって下さい」
「あ、いや……」
「童神は我々にとっては戦神であり、兵たちにとっては仰ぐべき存在です。そんな存在をむやみに疎んでどうするのです」
「……」
「だいたいあなたの御父上様は何ですか。その孫である弥右衛門を何だと思っておいでなのですか」
「…………」
「だからこそ武士たろうとしているのならば、それは背伸びと言う物。お殿様と似た者同士です」
字面こそ厳しめだがまるで睦言の時のように言葉は柔らかく、それでいて妻が夫にと言うより母が息子に言い聞かせるかのように優しげだった。
小十郎は自分の出自に劣等感など抱いた事はなく、あくまでも十個年下の主君を兄的な存在として支えて来ただけのつもりだった。そして自分なりに守ろうと思い、必死に戦って来たつもりだった。そのはずなのに自分もちっとも変わらないと言うのか。
「弥右衛門はかの童神様と話しておりました。童神様にも父がいて母がいて、そして伯父上がいたと」
「伯父上…」
「童神様の父はとても素晴らしいお方で、その伯父上のために全てを尽くしたと」
「ふむ…」
「されどにもかかわらずその伯父上は父を気に入らず、親子は引き裂かれてしまったと」
「そこまで聞き出せたのか?」
「はい。あの子はやはり、神主の孫です」
最初から恐れると言うか脅えていた自分と違い、全く無私の状態で見ていた弥右衛門からしてみれば、童神様と言えどただの子どもなのか。
「それで」
「父親を捜してここに来たのですがどうしても見つからず…早く会いたいと」
「そうか」
「ああそれ以上は話せなかったそうで、残念ですが」
「もう良い。と言うか胸が苦しい、離してくれぬか」
「はいはい」
その子どもが、一体どうやって死んだのか。どこの誰により親たちと引き離されたのか。
と言うより、なぜ引き離されねばならなかったのか。
(親子を裂いてまで何を求めた……三つの童子を……いや……それより、これで裏切るなと言った言葉の意味が分かった気がしたぞ……)
三歳の童子の姿を取ってはいるが、下手すると三歳ですらないのかもしれない。
自分なりに精一杯頑張って三歳の姿となり、その上で親を探している。
なんといたわしい話だろう。
その伯父と言うのは相当に非道な人物かもしれない。
そして、これで童神様が口にした「裏切るな」と言う言葉の意味も分かった気がした。
自分としては誠意を尽くして来たはずなのにその相手から恩を仇で返されたその行いこそ、彼と彼の父親に対する裏切り行為なのだろう。
裏切りを働いた男がその後どうなったか、その事を確かめねばならぬ。
そのためには、主と共に戦うしかない事を小十郎は知らされた。