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戦国霊武者伝  作者: 宇井崎定一
第六章 小田原に迫る両刃
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兄・豊臣秀吉

「…ダメなのかい?」

「いやー、今すぐにとは……」


 直江兼続を帰らせた秀吉は、事実上ただ一人頭の上がらない存在の下へと向かう。



 自分の寿命も大事だが、彼女の寿命も大事だった。



「直江様とか言ったかね、真面目で優しそうな男じゃないか。女官様たちも随分と持てはやしておいでだったよ」

「いやあ…あれほどの男は…」


 直江兼続の姿を、なかは直に見た訳ではない。だがそれでも秀吉のような猿顔や福島正則にこのなかやおねのような田舎者剥き出しの存在を見ていれば、女官たちはいかにも武士らしい切れ者風の直江兼続と言う存在に憧れもする。石田三成は切れ者ではあるがあまりにも鋭すぎて近づきにくいし、第一武士と言う自覚が本人にない。


「どうなんだい、あんたから見てあのお方様は」

「見た所かなりの器なのは間違いないと思います、けど少しばかり愚直と言わざるを得ないとも」

「そうかい、優秀なご主君様がいればってかい。あんた、まさか狙ってるんじゃないだろうね」

「少しばかり年を取り過ぎましたよ」

「これこれ!」


 相変わらずの調子の秀吉をただ一人上から目線でたしなめられる女は、息子の尽きない欲望をたしなめるかのように扇子を鳴らす。全く使い慣れないそれは石でも傷を付けられそうなほどな音を立てて床に落ち、慣れない女官たちをひるませる。


「もうこれ以上はいい加減、百姓がつかみ取るもんじゃないと思うけどねえ。あんたは昔っから欲望があるんだかないんだかわからないんだから」

「いやいや、わし自身はものすごく欲深いと思うておりますが」

「ああ要するにさ、あんたの場合ちっこい欲望を叶えて満足し、さらに少しばかりおっきな欲望を叶えてってぐらいに膨らんでくんだよ。この先どうするんだい」

「この先と申しましても、北条が真田に、我が家臣の真田に喧嘩を売ったのです。それこそ懲らしめに行かねばなりませぬ」

「だから、その先って聞いてるんだよ」

「……」

 

 秀吉は黙ってしまった。

 別にその先を何も考えていない訳でもないが、なかから出る言葉だと予想していなかった。


「なんだい藤吉郎、あんたもしかして私がもう婆さんだからって天下統一に間に合えばいいとか思ってんじゃないだろうね」

「それは…」

「ったく、あんたやる事やってんのかい、智や小一郎のとこだってまだそんなに数がいやしないのに。いい女を探す事だってできるだろ、っつーかあの嫁だってそういう事には寛容なんだろ」

「それはそうなんですがねえ…」

「全く、あんたほどの奴がたかが五十で枯れるとは思えないけどね、藤堂のとこのお人が七十で親父になったって話を聞いてこちとら希望を抱いてるんだからさ」


 そして、秀吉の痛点を付いて来ている。

 既に五十二の秀吉だが、娘すらいない。秀長にも一男子二女子しかおらず男子は秀吉のそれと同じく夭折、姉の智にやっと三人の男児がいる。

 長男の秀次が普通に智の家を継ぎ、次男の秀勝は秀吉の養子となり、三男の秀保は秀長の養子となっている。だが、もう次はない。秀次はもう二十一だが、まだ子どもはいない。


「無論それもまた仕事と思うて抱いているのですが、まさかここに来てとは…いやはや…」

「そっちの欲望を抑えてどうすんだいもう…ああ、本当ままならないもんだね世の中、足軽の頃はあんな嫁さんがいるのに女を求めたがってたくせに」

「ままならぬ物でございます」

「それはちゃんとやんなさいよ。

 それでさ、その北条とやらをやれば戦いは終わるのかい」

「終わるかもしれませぬし終わらぬかもしれませぬ。まだ奥州が残っておりますので」

「奥州の人には奥州の人の正義ってのがあるんだろうね。どの程度なら満足するもんかしっかりやっといで」


 その上で、なかは戦に我が子を送り出す母親と言う立ち位置を変える気はない。この時代の母親が皆そうであるように息子の無事を祈り、叶う事を祈って過ごす。そんなのは足軽の母親だろうが大名様の奥方様だろうが皆同じであり、生きて帰って来る事を願っている。

 いや、親に限らず親族縁者は本来そういう物ではないのかとか言うきれいごとを信じるにはなかも乱世に慣れてはいたが、それでも自分ぐらいは最後の最後まで親でありたかった。

「って言うかさ、私もそんな事を気にするほどには暇が出来ちまったのかね……それこそあんたの立身出世をのほほんと眺めてた時があったっつーのにさ……年を取ったからってのとは違うのかもね」

「ええ。この後の戦いの敵とはまさしくそれです」

 何より、敵にも親はいるしその親って同じ事を考えている。それを進め過ぎればそれこそ思考の無限迷宮に入ってしまうのは承知だから考えないようにしてはいたが、日の本の六分の五近くを手にするようになって余裕が出来てしまうとどうしても余裕と言う名の隙間にそういう事が入り込んでしまう。なればこそ秀吉とて検地や刀狩りなどを行い、その先の事を考えていたつもりではあった。


「天下を静謐にするために、わしはまだまだ止まってはいられません。全てとまでは行かぬにせよ、一人でも多くの人間を幸福にせねばなりません」

「そうだよね。あんたはずっと走ってるのがお似合いだよね。でもさ、そのためにはまだもう少し人殺しが必要なんだろ?」

「はい」

「まあ私の言葉なんかどうでもいいけどさ、見通しとしてはどれだけなんだい」

「来年か再来年かと」

「やっぱりそうかい、まったく、まだ死ねたもんじゃないね。って言うかさ、あんたは一体何なんだい。天下人なんだろ。こんな婆さんの事なんぞ」

「いえいえ!母上あってこその我が身ゆえ!死ぬまで大事にせねばなりませぬ!恩には恩で返さねばなりませぬ!」


 自分だけでなく、母親の人生まで上り詰めさせて来た。ただの農婦が今や大政所とか言う関白と言う職務が出来てから七百年の間に百人もないであろう存在になっているのはその大半が秀吉の功績であるが、それを産み落としたのはなかでありまた育てたのもなかである。それに対して仇で返せばそれこそ不孝の極みであり、万人から後ろ指を指される。

「あのねえ、あんた何に毒されてるんだい?私だって信じられなかったけどね、あんたが大好きな織田様の母君様を忘れてるのかい?」

「それは…」

「確かに我が子を思う気持ちはわかるけどね、でもあのお方様は残念だけど…ああ、もし今の時分だったらねえ」

「恩返しをするにも恩を受け取る土壌がなくばと言う事でしょうか……」

「あんたならんな事とっくにわかってるだろ、言うんじゃないよわざわざ」


 もっとも、信長が母親に対し不孝であったと後ろ指を指す人間はほとんどいない。

 信長の母の土田御前は次男の信行を寵愛し信長を遠ざけ結果的に尾張を乱したとも言われており、織田家内でも人気は低かった。幼少期から面倒を見られていた信忠でさえも信長の勢力伸長と共に疎遠になり、現在ではなかと比べてもまったく天と地の待遇の差があった。要するにそういう事なのだ。


「とにかくね、私なんか気にしないで自分がいいと思った時に行きなさい。間に合うと間に合わなかろうとちゃんと褒めてやるから。あんたはあんたらしくね」

「はっ」



 秀吉は頭を深く下げる。


 

 もし親に親と思われるだけの価値がなければ、本当に何をしてもいいのか。

 実際なかの二人目の夫で秀長の父である竹阿弥はかなり前に亡くなっているとは言えちっとも評価されておらず、むしろ実子でない秀吉を差別した悪い親として扱われている。

 

(……わしは本当に尊敬できる父になれるのじゃろうか……とりあえず小一郎になんかしてやらんとな……)


 土田御前や竹阿弥となかの違いは何か。少なくとも竹阿弥は秀長や旭にとっては悪い親ではなかったが、それでも世間的には秀吉が宣伝しない事もあるが世間的にはそういう扱いである。

 その子が大きくなる前にとか言う話ではあるが、秀吉が良き親になれるかどうかと言う試験はまだ受けてすらいない。なればとりあえず秀長にでも何かすべきではないかと思いもしたが、何をやれば良いか分からないのも事実だった。



 領国か、官位か、権威か。


 どれも望みそうにない、自分のせいで天下人に近しい存在にされた弟。



「まあ、考えても始まらぬか……ああ最近体調が優れんらしいからな……休みでもやっておくか……」


 その答えが、兄として正しいのかはわからない。

 自分が五十二なら、弟はもう四十九。若いとは言えない兄弟なりの、楽しみと喜び。


 自分の勘がなまっていない事を祈りながら、秀吉は弟に命を出す事を決めた。

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