上杉景勝の確信
「それがどうしたと言うのだ?」
二月半ば、謙信も使っていた禅堂にて真田のきな臭い動きを伝えられた上杉景勝であったが、禅を崩すことなくそう言い返したのみであった。
真田が敵となれば上杉は東南両面に敵を持つ事になる。西の前田を頼ればよいと言う話にも聞こえるが、面子と言う物があるしそれ以上に越中はまだ前田の統治が馴染んでいない。まだ治め始めて日が立っていないとは言え越中にいたのは佐々成政と言う利家と不仲だった人物であり、それほどすんなりと前田利家の統治がうまく行く保証はない。前田利家だってよそ者だし、と言うかこの状況で真田が豊臣を裏切ればどうなるかと言えばそれまでであるが、いずれにせよ真田を敵に回すのはよろしくない。
「真田が敵になれば」
「真田に上杉と戦う理由はない。あるとすれば北条だ。北条は豊臣家に対して未だ服属しておらぬ。すなわち、北条を叩く分にはさほど文句は出ない」
「真田に領国的な野心がないと」
「ない。あればあの時、安房守自ら出て徳川軍を殲滅していた」
あの時の徳川軍は、真田昌幸の策とかの霊武者の存在により混乱の極みの中にあった。もし本腰を入れて攻撃をかけていたらそれこそ榊原康政どころか大久保兄弟まで討てたかもしれない。だがそれをしなかった時点で、真田昌幸には才智はあってもそれほど野心はないと景勝は見ていた。もし信之や家臣にあったとしても、昌幸は全力でそれを止めるだろうと言うのが景勝の発想だった。
実際問題、真田昌幸はあの上田城の戦の後上杉の援軍のおかげで徳川軍が退散したとか言う書面を送ってこちらに礼を尽くしている。上杉としても悪い気はしないし、それ以上に謙虚さが知れると言う物だ。
「相手の最善を想像するのは難しいからこそ、我々はその上を行かねばならぬ。だが相手の醜態を想像するのはもっと難しい」
「ハア?」
「弱きと思った相手が強ければ致命傷を負うが強きと思った相手が弱き分にはどうと言う事はない、そう思っているのか?」
「それは…」
「だがその愚にも付かぬと思われる策を見落としてしまい手痛い目に遭った事例もまた少なくない。北条も此度その流れにはまってしまったのだろう。わしが里見との戦を知らぬと思っておったのか」
上杉と佐竹はあまり仲が良くないが、里見とは少なくとも不仲ではない。上杉だって元々北条に追われた関東管領の上杉家を長尾景虎がかくまった御家だから北条は共通の敵であり、少なくとも敵の敵は味方理論で間接的にせよ共闘ぐらいはできていると見ていた。
—————その里見が自ら北条氏邦軍の中に飛び込み、北条の兵たちを混乱させて敵を討つと言うか自分もろとも北条軍を討たせたと聞いた話には、上杉の家臣たちの多くが開いた口が塞がらなくなったが。
「しかし、だとすると里見も加害者ではないのですか」
「だろうな。と言うか里見はそれを承知の上であんな真似をしたのだろう。窮すれば通ずとか言うが、だとしたら里見の当主は侮りがたい人物である。上杉としては手を結びたいものだが、それを放っておく奥州統一連合でもあるまいな」
その上で自分を狙う事を承知であんな真似をしたと言うから、それこそ勇敢とか言うより無謀としか言えない。だが自分の命すら守って帰って来た以上、無謀ではなく勇敢であったと言わざるを得ないのもまた事実だった。
※※※※※※
「しかもです。里見が当てにしていたのは佐竹殿でも蘆名勢でもなく、ひとりの童子だったと言うのです。蘆名を含む奥州統一連合とか言う連中は童神とか言ってもてはやしておりますが、そんな存在を当てにするなど」
「それだ。それだから北条をして読めなかったのだろう」
昨年の十月下旬、下総での戦が終わってほどなくして集められた上杉の重臣たちが戦のあらましを聞いてざわつく中、景勝は実に冷静だった。
「そのような!」
「蘆名や佐竹とか言う常識的な存在を相手にした北条の兵たちは無事に逃げ切ったが、里見とその童神とやらに挟まれた連中はそれこそほぼ全滅したと言うのもうなずける」
「…………」
「もしそういう存在を前にして、我々は何が出来るだろうか」
「どっちの事ですか」
「どっちでも良い。ただ出来れば後者の話を聞きたい。単純に分からぬ存在よりもな」
まったく理で測れぬ暴威と、それを当てにして自らの命を賭けて動く人間。どちらも恐ろしい存在であるが、どっちがより怖いかと言うと話はややこしくなる。
そして景勝が恐れているのは、後者だった。前者は理でわからぬと言う事が「わかっているから」だ。
「里見は奥州統一連合が自分たちを助けると言うか北条との戦いは必定であると読み、北条の攻撃の報を掴みそのために援護の兵を出し、その際に奥州統一連合が手なずけておいたかの童神を共に連れ込んだのを読み切ったと思われます」
「童神を手なずける?」
「ええ。いくら神と言えどこっちが粗略にしなければ報いてくれるはずです。神とは人の信仰心を糧に生きる存在でありその信仰が失われれば力を失います。毘沙門天とて古来からの信仰があればこそ謙信公と出会えたのです」
「確かにそれはそうではあるが!」
直江兼続の言葉に、重臣たちはさらに眉をひそめた。神を手なずけるとか簡単に言うが、人智を超えた力を持つ神が、たかが人間の施しで変わる物か。
「神として幼ければ少ない施しでも動こう。幾千年の月日を過ごした神とそうでない神では話が異なるのは人間でも同じではないのか」
「それは…」
「童神と呼ばれているように、かの神はまだ神としては幼いのかもしれぬ。いやそれ以上に、元々神になる前から幼かったのかもしれぬ。それならば、南部が滅ぼされたのも合点が行ってしまう」
で、幼い形だからと言って力がない訳ではない。だが神となったのが浅い日であれば、あるいは小さな恩でも靡くかもしれない。
そして、残虐である事もまたその幼さゆえで説明がついてしまう。神として幼いのではなく、神になる前から幼かった。ゆえに神になったとしても、幼いままなのであろう。
「下手すると、三歳児ですらなかったのかもしれない。」
「それでは文字通りの赤子…」
「そう。おそらくはその赤子が何とか自分なりに成熟しようとし、現状三歳児の姿を取っているのかもしれぬ。そしてその子は間違いなく武士の子であり、さらにかの霊武者の息子であろう」
「そんな…」
この「そんな…」に否定の意味合いがない事は誰の目にも明らかだった。
正直な事を言えば、誰もがその可能性を考えていた。
だがその事を誰も断定できず、それゆえに言及を避けたまま話が進んでいた。
と言うか親子だとして、その親が一体誰なのか。その答えが全く分からない以上、なんとなく禁忌のようになっていた。
「仮に父子だとして、どうする気なのです」
またそれも事実だった。実際に父子だと分かったとして、一体何が出来るのか。父子である事よりも何者なのか知る事が優先であり、それすらもとんでもない難題である上に意味があるのかないのかわからない問題だった。
「子がそうなのかは断定できないが、親について考えられる名前がない訳でもない」
「それは?」
「いや、子の方が奥州に現れた事からしても奥州の人間かと思った。あるいは、奥州でこの世を去った存在かと思った」
「藤原泰衡の子ですか」
藤原泰衡。
奥州藤原氏四代目当主にして最後の当主であり、源頼朝に討たれた男。
そんなありえなくはない人物の名前を挙げられた景勝は首を横に振る。
確かに泰衡の子ならば乳児と言うのもあり得なくはないが何人の子がいたかすらわかっておらず、とりあえずいたらしい長男は十六であったとも言われており三歳児と言うか乳児と言うのはおかしい。無論下の子かもしれないが、それなら他の兄弟は何なんだと言う事になりかねない。と言うか藤原泰衡の息子たちがどんな死に方をしたかなど、景勝はおろかほとんど誰もわかってさえいないのだ。
「確かに泰衡ならば奥州はともかく信州や九州にまで現れるはずがございませぬ」
「うむ。おそらくは奥州に行き、さらにそれらの土地を知っている存在……」
地縛霊とか言う訳でもないだろうが、それこそ知らない場所にいきなり現れるような霊もそうそういない。それこそ信州や九州を知っている霊。もちろん京の地も知っているであろう存在。
「これらの事を踏まえた上で、わしは一人の人物を思い浮かべた……」
その全てを踏まえた上で考えられる、一人の霊武者の可能性。
「そんな…!」
その名を口にした途端、春日山城は騒然とした。
確かにあり得る人物だが、それがどうして。
「しかしその彼の…」
「いなかったと言う話はない。いたと言う話もないが。いや…」
そしてその存在の、一人の男児の可能性。
「それが陸奥に来て、童神となったと言うのか……」
藤原泰衡と同じようにいるかいないかわからないはずなのに、受け入れられてしまう存在。
それが、彼の魅力である事を誰もが知っていた。